忍者ブログ
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今回紹介させていただく資料は本城家関係の系図・文書が紹介されています。
「本城家???何それ?」
と思われる方が多いでしょうが、実は本城氏は島津(中務大輔)家久の末裔に当たる一族です。
戦国最強の釣り師ヾ(^^;)として知られる島津家久の末裔としては永吉島津家が有名ですが、途中で幾度か養子が入り、島津家久の血統ではなくなっています。本城家は島津豊久の弟・忠直(忠仍)の子孫に当たりますが、どうも家久・豊久の後を嗣がせてもらえなかったようなのです…というか今回の史料集を見ると、追い出されてしまったという方が近いようだ(○。○)
今回紹介させてもらう『伊佐市郷土史誌史料集一』では、その辺の裏事情が伺える史料が多く所収されています。

以前拙HPで「本城家文書」という物が存在するらしいと言う話は触れたことがあるのですが、当の『牧園町郷土誌』では肝心の文書自体が引用されておらず、鹿児島県立図書館の蔵書を検索してもそれらしい物が無くて、そのまま調査を中断していた経緯があります。
この『伊佐市郷土史誌史料集一』はその空白を埋める物であり、安土桃山時代~江戸時代初期の島津家分家の盛衰の経緯を詳しく知ることが出来る貴重な史料群と言えましょう。

おおまかな内容は以下の通り
・本城家文書:平成25年に本城家の末裔から寄贈された史料。系図(本城家分家)と由緒書(文書含む)から成り立っている。
・本城家家譜:市来四郎編「石室秘稿」に収録された本城家本家の家系図。
・明治14年12月菱刈郡里村針持村戸長役場文書

なお『伊佐市郷土史誌史料集一』は国立国会図書館(東京本館)には所蔵されていますが、鹿児島県立図書館では所蔵されてない模様_(。_゜)/
また一般の書店では販売されていません。伊佐市市立図書館に電話orFAXで購入問い合わせする必要があります。伊佐市公式HPでは書籍の紹介がありませんが(^^;)確かに頒布されてますのでご安心を
 伊佐市市立大口図書館 ※菱刈図書館では受け付けてないので注意
 電話 (0995)22-0417
 FAX (0995)22-9420 購入申込書はこちら(PDF)
 お値段は¥1000 別途着払いの送料がかかります(¥700ぐらいだったかな)



この本については、編纂副委員長を務められた春山直人氏から教えていただきました。春山氏からは拙HP+ブログにも以前より色々ご助言を頂いております。ありがとうございました<(_ _)>
拙HPもこの史料集見て手直ししなければいけないところが色々(^^;)

拍手[4回]

PR
この企画、やっと最終回です。ばんざーい!…しかしネタ元になった大河は既に終わって次の大河ももう折り返し回ってたという…_| ̄|○



最終回を飾る?栄えある???文書は島津義弘が書いた物です。
では早速参る。

 (切封墨引)
黒甲州人々御中             羽兵入
                           惟新(注1)

 以上
その後は申し承らず、心外の到りに候。仍って
濃州大垣(注2)において御懇札に預かり、其の後
御状候いても、御返事申し入れ候と言えども、途中
にて故障の儀について相届かず候段、
是非に及ばず候。抑今度御弓箭(注3)の御企
の儀、拙者式(注4)に仰せ聞かされず候間、
曽て存ぜざる儀に候。就中内府様(注5)
御高恩の儀、是又忘却無く候と雖も、
 秀頼様に対し奉り、永々忠貞を
抽きんずべきの旨、霊社上巻の誓紙(注6)度々
上げ置き候。其の旨相違無きにおいては、今
度御下知に応じ出陣致すべきの旨、御奉
行衆(注7)より御墨付きを以て条々仰せつけられ
候間、 君臣の道背き難きに
ついて、力に及ばず、御人数一分に罷り出で候。
最も大坂に堪忍致し、此れ等の通り
申し上ぐべく候と雖も、御取次の仕合わせ計り難く
候条、国元より申し上ぐべしと
存じ罷り下り候。併しながら我等の儀、当分
逼塞仕り候の条、様子においては、龍伯(注8)・
少将(注9)申し上ぐべく候。聞こし召し届けられ、
然るべきの様、御取り成し希う所に候。
恐惶謹言。

 十一月四日            惟新(花押)
 黒田甲州
      人々御中
<226 島津惟新(義弘)書状>
(注1)羽兵入惟新:島津義弘のこと。「庫頭惟新」の略。つまり慶長5年11月の時点ではまだ「羽柴」姓を名乗ってたということ。
(注2)濃州大垣:美濃国大垣城。関ヶ原の合戦時、石田三成を中心とする西軍は当初ここにいた。
(注3)今度御弓箭:関ヶ原の合戦のこと
(注4)拙者式:自分のことをへりくだってこう書くのだそうな(『黒田家文書1』p.495解説)
(注5)内府様:何度も出て来たが徳川内大臣家康のこと。
(注6)霊社上巻の誓紙:熊野三山が発行していた牛王宝印を印刷した紙に書いた起請文のこと。島津家の好物かも(^^;)
(注7)御奉行衆:長束正家、増田長盛、前田玄以のこと。他の2奉行が事情で欠けて既に「奉行」じゃなくなっていたのは前回言及済み。
(注8)龍伯:島津義久のこと
(注9)少将:島津忠恒のこと

慶長5年11月4日付の島津義弘から黒田長政宛の書状です。
前回もそうですが、これもかなり言い訳臭い内容の書状ではあります(苦笑)
ざっと意訳すると
「大垣では丁寧なお手紙ありがとうございました。その後行き違いがあってこちらからの手紙が届かずごめんなさい。関ヶ原の合戦ですが、家康様の御恩は大変感じてはいたのですが、秀頼様の御恩についても神文誓紙を出していた以上、御奉行達に御墨付きを突きつけられたので、君臣の理に逆らいがたく、力及ばず、軍勢も出して今回の結果(=西軍に味方して負けた)となりました。大坂に参上してこれらのことを申し上げるべきと思っているのですが、お取り次ぎがどうなるか分からないので、国元から(書状にて)申し上げました。しかしながら自分たちは当分逼塞の身の上なので、義久とか忠恒から申し上げる様にします。お聞き届けの上、おとり成し下さいませ。」
と言う内容かと思います。

この文書も桐野作人氏ブログ「膏肓記」で言及された物と思われます。
気になるのは「大垣で(黒田長政から)書状をもらった」(濃州大垣において御懇札に預かり)というところでしょう。管見では「薩藩旧記雑録」等には該当する物は見つからず…。
そのあとの「返事を出したんだけど届かなかった」(其の後御状候いても、御返事申し入れ候と言えども、途中にて故障の儀について相届かず候)というのはホントかどうか疑わしい所です(滝汗)。義弘が西軍でノリノリ(5000人軍勢いたら勝ってたとか言ってたw)だったのは『島津義弘の賭け』等でも紹介されていて有名な所なんで…。

関係ネタ こちら



長々と引きずってきました「黒田家文書の島津さん」ですが、今回で最終回です。
中々興味深い内容が多い「黒田家文書」だったんですが、島津氏に絡んでない物は今回紹介しませんでした。これ以上手も拡げられないんでヾ(--;)
「島津家文書」等と比べると残存状況が良くないと言われる「黒田家文書」ですが、黒田家とか豊臣秀吉の天下統一過程などに興味のある方は見ておくと良い史料かと思います。

拍手[2回]

大河離れ止めるか長沢まさみ来年「真田丸」ヒロイン
[2015年7月11日7時29分]
俳優堺雅人(41)主演で来年放送されるNHK大河ドラマ「真田丸」(日曜午後8時)の出演者発表会見が10日、東京・渋谷区の同局で行われ、新たな出演者21人が発表された。同作は、視聴率が期待できる戦国時代の設定で、ヒロイン役に長沢まさみ(28)を起用。今年の「花燃ゆ」が視聴率で低迷する中、堺は「まずは見て、批評を」とアピールした。
(後略)
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1505088.html
今年の大河『花燃ゆ』が予想通りのだめだめなんで、来年の大河『真田丸』に過剰に期待している人が多いようなんですが
長澤まさみがヒロインと言うことで駄作確定となりましたヾ(^^;)
※ちなみに今まで長澤まさみが絡んだ大河→『功名が辻』『天地人』

来年に期待していた皆様 諦めも肝心ですヾ(--;)



さて
ずるずる引きずってきたこの企画もあと残すところわずかとなりました

つーか今回で終わってしまいたいくらいなんだが、長文なんだよな_| ̄|○

ではまいる。
「つづきはこちら」をクリック



拍手[1回]

2015.7.3 14:28
高山右近に再び熱視線 没後400年のキリシタン大名…「福者」として年内にも認定へ 

 織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名で、キリスト教を禁教とした江戸幕府から国外追放され、フィリピン・マニラで病死した高山右近(1552~1615年)が、ローマ法王庁から、カトリック教徒の崇敬対象「福者(ふくしゃ)」として、早ければ年内にも認定される見通しになった。
http://www.sankei.com/west/news/150703/wst1507030052-n1.html
という戦国ヲタには実に興味深いニュース。
ただこの当時の熱心な切支丹大名には、もれなく寺社仏閣破壊行為が付いてくるわけで、高山右近も言うに及ばず…
まあぶっちゃけていえば今時のタリバンとかISとかと変わらんヾ(--;)とも言える。
税所七右衛門とかと比較すると何か微妙な気分。



気を取り直して。

今回紹介させて頂く文書ですが、
実は島津氏の人が書いた物でもないし、
島津氏に絡んだ内容でもないのです。
ただ、書いた人は島津家に縁の深い人で、また内容がいかにも”らしい”物なので

では
気になる人は「つづきはこちら」をクリック

拍手[0回]

遂にこの企画ずるずる10回目⊂(。Д。⊂⌒`つ

今回は前回の予告通り、関ヶ原の合戦後の島津家に関して
 ある人物が書いた
 興味深い内容の書状
の紹介です。



急度言上致し候。薩州(注1)の儀、井伊兵部少輔(注2)を以て御詫言
申し上げ候条、其の間の働きの儀相延ばし候様にと、立花左近(注3)所迄、
龍伯(注4)・又八郎(注5)方より両使(注6)を差し出だすに付いて、只今押し詰め
申す儀、上意(注7)如何と存じ、如水(注8)と談合せしめ、此の境目水俣の城(注9)仕置丈夫に
申し付け、先ず人数打ち入り申し候。夫れに就き薩州より御理の
様子は、 内府様に対し奉り、兵庫頭(注10)不調法をいたし、
嶋津家の越度これに過ぎず候。龍伯・又八郎に
おいては、毛頭存ぜざるの由申し訳らるると相聞こえ候。
大いに相違仕り候。その故は、宇土の城(注11)取詰め候内々、
後巻(注12)として嶋津図書頭(注13)・新納武蔵(注14)・伊集院下野(注15)・
本田六右衛門尉(注16)・北郷作左衛門尉(注17)、此れ等五人佐敷(注18)表に到りて
相働き候と雖も、仕置等丈夫に申し付くるに依って、佐敷の城
堅固に相抱ゆるに付いて、手を失い、水俣へ引き取り、彼の所に
城をこしらえ、それより八代(注19)へ加勢をいたし候。宇土(注20)
落去に付いて、彼の八代城主(注21)・加勢共に船にて夜落ちに仕り、
其の足にて水俣も開け退き候。此くの如きの時は、龍伯・
又八郎存ぜずと申す儀相違にて御座候か。近日罷り上り候いて、
此の面前後の様子言上致すべく候の条、此等の趣然るべき様に
御披露仰ぐ所に候。恐々謹言。

 十一月廿五日          (黒印)
 榊原式部大輔殿(注22)
<171 加藤清正書状(10巻20号)>
(注1)薩州→薩摩国転じて島津家のことを指しているのは明白なのだが、実際の書状では「薩州表」とか書かなければいけない所を「表」と書いている。
(注2)井伊兵部少輔→ご存じ井伊直政 関ヶ原で島津軍に大怪我負わされたのに、その後島津家と徳川家の取り次ぎ役となり重傷負っているのに頻出中。
(注3)立花左近→立花宗茂(当時「尚政」)。
(注4)龍伯→ご存じ島津義久
(注5)又八郎→あの島津忠恒。この当時少将に任官しているのだが、何故か”字”で書かれている。
(注6)両使→使者2名。『黒田家文書1』解説(p.364)によると与竹と有馬次右衛門尉という島津義弘家臣を差すという。
(注7)上意→徳川家康の命のことなのだが、実際の書状では吹っ飛んでおり、「○如何と存」と書かれ、○の横に小さい字で「上意」と付け足されている。
(注8)如水→ご存じ黒田官兵衛孝高
(注9)水俣の城→水俣城。豊臣秀吉による九州御動座後に水俣の地は豊臣蔵入地となり、その代官所として築かれた。当時の代官は寺沢正高。 なおこの箇所は実際の文書では「堺目○仕置丈夫ニ」と書かれ、○の横に小さい字で「水俣之城」と追記されている。
(注10)兵庫頭→ご存じ島津義弘
(注11)宇土の城→宇土城。小西行長の本拠地だった。
(注12)後巻→後詰めのこと
(注13)嶋津図書頭→島津忠長
(注14)新納武蔵→新納忠元。ご存じみんなのデニーロヾ(^^;)
(注15)伊集院下野→伊集院久治
(注16)本田六右衛門尉→本田正親
(注17)北郷作左衛門尉→北郷三久。なお、この箇所も実際の文書では「本郷左衛門尉」と書かれた右側に小さく「左衛門尉」と訂正が書かれている。
(注18)佐敷→現熊本県葦北郡芦北町佐敷。肥後国と薩摩国の国境に接していて地政学的にポイントであった。本来なら小西行長領内なのだが、佐々成政改易後から加藤清正に任されていた。文禄元年にあの梅北一揆の舞台となり、島津歳久が自害に追い込まれる遠因となった因縁の場所でもある。
(注19)八代→現熊本県八代市。当時は小西行長領。後述する八代城があった。
(注20)宇土→現熊本県宇土市。(注11)で先述した宇土城がある小西行長の本拠地。
(注21)八代城主→この当時の城主は小西(木戸)行重(末郷)。「小西美作」の官名のりの方が有名で、「薩藩旧記雑録後編」等にも登場する。この後この文書にもあるように一家・家臣総出で島津家に亡命、慶長7年頃死去。なお小西行長と同姓だが親族ではないらしい。
(注22)榊原式部大輔殿→榊原康政。先述の井伊直政と並ぶ「徳川四天王」の一人。

慶長5年11月25日に書かれた加藤清正の書状です。
内容が非常に面白いです。ざっと意訳しますと
「島津の連中が井伊直政とか立花宗茂まで使ってなんか言い訳しまくってるようだけど、あんなの嘘だから!島津義弘は(関ヶ原で)家康に無礼してるし、こっちも(西軍の首謀者)小西行長の本拠地・宇土城攻めたら島津の重臣達が佐敷まで後詰めにやってくるし、守りを十分にしたんで諦めて帰ったかと思ったら、今度は八代城に加勢しやがるし、島津義久と忠恒は「全く知りませ~ん」なんてほざいてるけど、これでも島津が怪しくないって言えますかね?!近々上洛してこのことを家康様に申し上げますけど榊原殿からもしっかり家康様に言っといて下さいね!!!」
…というところでしょう。

この手紙の内容は、以前から巷説でもよく言われている加藤清正と島津家の不仲を裏付ける物です。
以前近代デジタルライブラリーで加藤清正を主人公にした軍記物(残念ながらタイトルを失念)をチラ見したことがあるのですが、まあ島津家に関してはこれでもかという罵倒語を並べて記述していたのが印象的でした。軍記物なので信憑性は怪しいとしても、加藤清正(+清正ヲタ)から見た島津家と言うのがどういう物だったかというのは十分伺えると思います。
事実、豊臣秀吉と非常に近い血縁だった清正から見ると、九州御動座前に秀吉の出身を罵倒したことがあり、文禄元年には梅北一揆に絡んだ島津家は「絶対滅亡させる敵」以外の何物でもなかったと考えられます。関ヶ原の合戦で島津義弘が西軍に付いたこと+負けたことは、こういう清正にとって島津家を滅亡させる千載一遇のチャンスだったと思われます。
一方、上記の経緯から見て、島津家にとっても加藤清正は鬱陶しい存在だったのは容易に想像付きます。幸か不幸か、肥後国は北半分は加藤清正領でしたが、南半分はこれまた加藤清正と大変な不仲な小西行長領でした。そもそも小西は豊臣秀吉の家臣で、本来なら島津とは仲良くなれるはずはなかったのですが、「敵の敵は味方」ということでそれなりに交流ができてしまったようで、慶長4年暮れの関ヶ原合戦前夜に小西行長が島津義久に送った書状も残っています。上記の書状にあるように島津家が関ヶ原合戦後に小西側に加勢したのはこういう背景があったからで、加藤清正がわめいてたヾ(^^;)みたいに「家康にたてつく」気は毛頭無かったのではないかと私は考えます。

もうひとつ興味深いのは、この書状
「宛先 榊原康政 発信者 加藤清正」
なのに、何で黒田家がこの手紙持ってるのかということ。
加藤清正は後に長女(あま姫、本浄院)が康政の三男の正室になったりなど婚姻関係もあり、仲は悪くなかったようです。一方の井伊直政とは婚姻関係などもなく、また仲が良かったエピソードなども寡聞にして知らず、多分疎遠だったのではと考えられます。
その榊原康政は井伊直政とは仲が良かったようです。また後世の話になりますが、黒田長政の娘が康政の孫の妻になるなど黒田家との交流もありました。

恐らく加藤清正はこの鬱憤ヾ(^^;)を島津家と家康の仲介をしている井伊直政に直接言いたかったくらいだったんでしょうが、疎遠だったのでそれはできず、自分や井伊とも仲の良く、しかも家康の重臣でもある榊原康政に仲介を頼んだのではないかと。
しかし、榊原康政はこんな厄介なこと(しかも清正の私情無茶苦茶入ってるしw)頼まれても非常に困ったのではないかと思われます。そこで、この当時清正とタッグを組んでいて、しかも家康の気に入りでもあった黒田長政にこの書状を見せ、どうした物か相談したと言うことは考えられるでしょう。
が、黒田は前回紹介したように、この頃は寧ろ島津家と徳川家康の仲介役になっているくらいで、加藤清正ほど島津家に恨みは持っていなかったと思われます。

…で、結局清正のこの激しい訴えですが、その後の経緯から見ると家康まで届かなかったんじゃ無かろうかと私は推測します(爆)
そしてこの手紙も本来なら榊原家で持っているはずなのに、いつの間にやら黒田家に流れ…まあ、このお陰で清正の怒り恨みが平成の世に伝わったわけですから良かった良かった?!ヾ(--;)

なお、この手紙ですが注記でいくつか指摘したように、異様に誤字脱字が多い文書であります。まあ、清正が怒りに任せて書いたからじゃないの?と言えばそうなんですが、普通ここまで酷い文書をこんな大事な内容を伝えるのに使うかなあ、と言う気もします…しかも伝わっているのが当事者じゃない黒田家だし(^^;)

※拙ブログ関連記事 関ヶ原の合戦と島津忠清続



次回は島津家とは関係ないんですが、戦国時代マニアには興味深い文書を紹介する予定です。

拍手[2回]

カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[09/22 書き人知らず]
[09/22 大嶋昌治]
[06/28 Albertbaw]
[05/19 春山]
[05/06 桐野作人]
最新トラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN:
ばんない
性別:
非公開
自己紹介:
初めての方はこちらの説明をお読み下さい。リンク・引用の注意もあります。

プロフ詳細はこの辺とかこの辺とか
カウンター
バーコード
アクセス解析
P R
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]