拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
2015.7.3 14:28という戦国ヲタには実に興味深いニュース。
高山右近に再び熱視線 没後400年のキリシタン大名…「福者」として年内にも認定へ
織田信長や豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名で、キリスト教を禁教とした江戸幕府から国外追放され、フィリピン・マニラで病死した高山右近(1552~1615年)が、ローマ法王庁から、カトリック教徒の崇敬対象「福者(ふくしゃ)」として、早ければ年内にも認定される見通しになった。
http://www.sankei.com/west/news/150703/wst1507030052-n1.html
ただこの当時の熱心な切支丹大名には、もれなく寺社仏閣破壊行為が付いてくるわけで、高山右近も言うに及ばず…
まあぶっちゃけていえば今時のタリバンとかISとかと変わらんヾ(--;)とも言える。
税所七右衛門とかと比較すると何か微妙な気分。
気を取り直して。
今回紹介させて頂く文書ですが、
実は島津氏の人が書いた物でもないし、
島津氏に絡んだ内容でもないのです。
ただ、書いた人は島津家に縁の深い人で、また内容がいかにも”らしい”物なので
では
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(注1)木付:杵築城。慶長5年当時細川忠興の属城で、松井康之と有吉立行が城代を勤めていた。関ヶ原の合戦時に大友吉統勢に攻められ籠城。黒田如水の加勢により大友勢を撃退したのはこの書状にもあるとおり。
尚々木付(注1)籠城の者、
悉皆御馳走(注2)を以て相抱え候由、
申す事に候。以前も御状に預かり候。
便宜を得ず候間、御報申さず候。
遺恨に候。万々後面を期し候。
松井(注3)罷り上るに就き、御状披見、
本望至極に候。九州の様子
具に承り届け候。木築の城の事、
悉皆貴老御心を添えられ候故、
相続き候。御高恩に候。殊更
数度の合戦、御一身の御
覚悟を以て御勝手に属し候。御粉骨
までに候。此の表の事、誠に佞人(注4)
悉く相果て候。千年万年も
静謐たるべき事、勿論に候。
然りと雖も、老年殊に此の頃相煩い候わば、
行く末の頼み五年計りの外これ無く候。
一笑々々。来春は橋立(注5)
御見物たるべきの由、御発句(注6)御思案そうらいて
置かるべく候。万事其の時を期し候、
恐々謹言。
十月廿九日 幽斎
玄旨(花押)
如水軒(注7)
御報
<224 細川幽斎(藤孝)書状>
(注2)馳走:ごちそう…ではなく、奔走する事。現代人が一番間違えやすい戦国用語かも(^^;)
(注3)松井:先述(注1)に登場した松井康之の事。
(注4)佞人:石田三成、安国寺恵瓊、小西行長の事。幽斎は田辺城(現京都府舞鶴市)で籠城させられたのでこの3人にいい感情持ってなくても当然かと。
(注5)橋立:天橋立。この当時はまだとりあえず細川領。
(注6)発句:連歌の冒頭の575の事。なにしろ細川幽斎先生の書状ですから。
(注7)如水軒:黒田孝高の出家名は実は「円清」。「如水」は軒号、法号なんで「軒」を付けるのはおかしくないとの事(『黒田家文書1』p.490解説)
関ヶ原の合戦直後の慶長5年10月29日に、細川幽斎が黒田如水に送った書状です。
内容がいかにも「らしい」です。
細川家の飛び城になっていた杵築城の防衛に黒田如水が加勢してくれた事への礼状なんですが、
・「以前も御状に預かり候~」と以前手紙を貰っていながら返事をしなかった非礼を詫び
・「御高恩に候」「御一身の御覚悟を以て」「御粉骨までに候」などと杵築城に関する如水の戦いぶりを絶賛し、感謝を述べ
・最後は幽斎宗匠ヾ(^^;)らしく「来年は天橋立に来て連歌会しましょうね~最初の句は考えといてね~」といかにもな締め
・でも石田三成とか西軍に対する文句も忘れてない_(。_゜)/
全体としてよくまとまった文章だなーと感じました。さすがは幽斎先生。
後日談になりますが、この翌年細川家は丹後→豊前に、黒田家は豊前→筑前に転封され、幽斎先生が楽しみにしていた連歌会は開催できなかった模様です(^^;)。ついでに、この転封のさいに年貢のやりとりで細川家と黒田家の間でトラブルが発生!以後この両家はいわゆる“不通大名”になってしまうのでした…。こんなのどかな手紙もやりとりしてたのにねえ、年貢の恨みは恐ろしい。
なお、この書状の中で幽斎は「自分も老体で後せいぜい5年ぐらいだろう」とぼやいているのですが(然りと雖も、老年殊に此の頃相煩い候わば、行く末の頼み五年計りの外これ無く候。)、実際はこの後10年生き、慶長15年8月20日になくなりました。実は黒田如水(慶長9年3月20日没)より長生きだったという…
このシリーズ後1,2回ほど続きます。
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