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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
遂にこの企画ずるずる10回目⊂(。Д。⊂⌒`つ

今回は前回の予告通り、関ヶ原の合戦後の島津家に関して
 ある人物が書いた
 興味深い内容の書状
の紹介です。



急度言上致し候。薩州(注1)の儀、井伊兵部少輔(注2)を以て御詫言
申し上げ候条、其の間の働きの儀相延ばし候様にと、立花左近(注3)所迄、
龍伯(注4)・又八郎(注5)方より両使(注6)を差し出だすに付いて、只今押し詰め
申す儀、上意(注7)如何と存じ、如水(注8)と談合せしめ、此の境目水俣の城(注9)仕置丈夫に
申し付け、先ず人数打ち入り申し候。夫れに就き薩州より御理の
様子は、 内府様に対し奉り、兵庫頭(注10)不調法をいたし、
嶋津家の越度これに過ぎず候。龍伯・又八郎に
おいては、毛頭存ぜざるの由申し訳らるると相聞こえ候。
大いに相違仕り候。その故は、宇土の城(注11)取詰め候内々、
後巻(注12)として嶋津図書頭(注13)・新納武蔵(注14)・伊集院下野(注15)・
本田六右衛門尉(注16)・北郷作左衛門尉(注17)、此れ等五人佐敷(注18)表に到りて
相働き候と雖も、仕置等丈夫に申し付くるに依って、佐敷の城
堅固に相抱ゆるに付いて、手を失い、水俣へ引き取り、彼の所に
城をこしらえ、それより八代(注19)へ加勢をいたし候。宇土(注20)
落去に付いて、彼の八代城主(注21)・加勢共に船にて夜落ちに仕り、
其の足にて水俣も開け退き候。此くの如きの時は、龍伯・
又八郎存ぜずと申す儀相違にて御座候か。近日罷り上り候いて、
此の面前後の様子言上致すべく候の条、此等の趣然るべき様に
御披露仰ぐ所に候。恐々謹言。

 十一月廿五日          (黒印)
 榊原式部大輔殿(注22)
<171 加藤清正書状(10巻20号)>
(注1)薩州→薩摩国転じて島津家のことを指しているのは明白なのだが、実際の書状では「薩州表」とか書かなければいけない所を「表」と書いている。
(注2)井伊兵部少輔→ご存じ井伊直政 関ヶ原で島津軍に大怪我負わされたのに、その後島津家と徳川家の取り次ぎ役となり重傷負っているのに頻出中。
(注3)立花左近→立花宗茂(当時「尚政」)。
(注4)龍伯→ご存じ島津義久
(注5)又八郎→あの島津忠恒。この当時少将に任官しているのだが、何故か”字”で書かれている。
(注6)両使→使者2名。『黒田家文書1』解説(p.364)によると与竹と有馬次右衛門尉という島津義弘家臣を差すという。
(注7)上意→徳川家康の命のことなのだが、実際の書状では吹っ飛んでおり、「○如何と存」と書かれ、○の横に小さい字で「上意」と付け足されている。
(注8)如水→ご存じ黒田官兵衛孝高
(注9)水俣の城→水俣城。豊臣秀吉による九州御動座後に水俣の地は豊臣蔵入地となり、その代官所として築かれた。当時の代官は寺沢正高。 なおこの箇所は実際の文書では「堺目○仕置丈夫ニ」と書かれ、○の横に小さい字で「水俣之城」と追記されている。
(注10)兵庫頭→ご存じ島津義弘
(注11)宇土の城→宇土城。小西行長の本拠地だった。
(注12)後巻→後詰めのこと
(注13)嶋津図書頭→島津忠長
(注14)新納武蔵→新納忠元。ご存じみんなのデニーロヾ(^^;)
(注15)伊集院下野→伊集院久治
(注16)本田六右衛門尉→本田正親
(注17)北郷作左衛門尉→北郷三久。なお、この箇所も実際の文書では「本郷左衛門尉」と書かれた右側に小さく「左衛門尉」と訂正が書かれている。
(注18)佐敷→現熊本県葦北郡芦北町佐敷。肥後国と薩摩国の国境に接していて地政学的にポイントであった。本来なら小西行長領内なのだが、佐々成政改易後から加藤清正に任されていた。文禄元年にあの梅北一揆の舞台となり、島津歳久が自害に追い込まれる遠因となった因縁の場所でもある。
(注19)八代→現熊本県八代市。当時は小西行長領。後述する八代城があった。
(注20)宇土→現熊本県宇土市。(注11)で先述した宇土城がある小西行長の本拠地。
(注21)八代城主→この当時の城主は小西(木戸)行重(末郷)。「小西美作」の官名のりの方が有名で、「薩藩旧記雑録後編」等にも登場する。この後この文書にもあるように一家・家臣総出で島津家に亡命、慶長7年頃死去。なお小西行長と同姓だが親族ではないらしい。
(注22)榊原式部大輔殿→榊原康政。先述の井伊直政と並ぶ「徳川四天王」の一人。

慶長5年11月25日に書かれた加藤清正の書状です。
内容が非常に面白いです。ざっと意訳しますと
「島津の連中が井伊直政とか立花宗茂まで使ってなんか言い訳しまくってるようだけど、あんなの嘘だから!島津義弘は(関ヶ原で)家康に無礼してるし、こっちも(西軍の首謀者)小西行長の本拠地・宇土城攻めたら島津の重臣達が佐敷まで後詰めにやってくるし、守りを十分にしたんで諦めて帰ったかと思ったら、今度は八代城に加勢しやがるし、島津義久と忠恒は「全く知りませ~ん」なんてほざいてるけど、これでも島津が怪しくないって言えますかね?!近々上洛してこのことを家康様に申し上げますけど榊原殿からもしっかり家康様に言っといて下さいね!!!」
…というところでしょう。

この手紙の内容は、以前から巷説でもよく言われている加藤清正と島津家の不仲を裏付ける物です。
以前近代デジタルライブラリーで加藤清正を主人公にした軍記物(残念ながらタイトルを失念)をチラ見したことがあるのですが、まあ島津家に関してはこれでもかという罵倒語を並べて記述していたのが印象的でした。軍記物なので信憑性は怪しいとしても、加藤清正(+清正ヲタ)から見た島津家と言うのがどういう物だったかというのは十分伺えると思います。
事実、豊臣秀吉と非常に近い血縁だった清正から見ると、九州御動座前に秀吉の出身を罵倒したことがあり、文禄元年には梅北一揆に絡んだ島津家は「絶対滅亡させる敵」以外の何物でもなかったと考えられます。関ヶ原の合戦で島津義弘が西軍に付いたこと+負けたことは、こういう清正にとって島津家を滅亡させる千載一遇のチャンスだったと思われます。
一方、上記の経緯から見て、島津家にとっても加藤清正は鬱陶しい存在だったのは容易に想像付きます。幸か不幸か、肥後国は北半分は加藤清正領でしたが、南半分はこれまた加藤清正と大変な不仲な小西行長領でした。そもそも小西は豊臣秀吉の家臣で、本来なら島津とは仲良くなれるはずはなかったのですが、「敵の敵は味方」ということでそれなりに交流ができてしまったようで、慶長4年暮れの関ヶ原合戦前夜に小西行長が島津義久に送った書状も残っています。上記の書状にあるように島津家が関ヶ原合戦後に小西側に加勢したのはこういう背景があったからで、加藤清正がわめいてたヾ(^^;)みたいに「家康にたてつく」気は毛頭無かったのではないかと私は考えます。

もうひとつ興味深いのは、この書状
「宛先 榊原康政 発信者 加藤清正」
なのに、何で黒田家がこの手紙持ってるのかということ。
加藤清正は後に長女(あま姫、本浄院)が康政の三男の正室になったりなど婚姻関係もあり、仲は悪くなかったようです。一方の井伊直政とは婚姻関係などもなく、また仲が良かったエピソードなども寡聞にして知らず、多分疎遠だったのではと考えられます。
その榊原康政は井伊直政とは仲が良かったようです。また後世の話になりますが、黒田長政の娘が康政の孫の妻になるなど黒田家との交流もありました。

恐らく加藤清正はこの鬱憤ヾ(^^;)を島津家と家康の仲介をしている井伊直政に直接言いたかったくらいだったんでしょうが、疎遠だったのでそれはできず、自分や井伊とも仲の良く、しかも家康の重臣でもある榊原康政に仲介を頼んだのではないかと。
しかし、榊原康政はこんな厄介なこと(しかも清正の私情無茶苦茶入ってるしw)頼まれても非常に困ったのではないかと思われます。そこで、この当時清正とタッグを組んでいて、しかも家康の気に入りでもあった黒田長政にこの書状を見せ、どうした物か相談したと言うことは考えられるでしょう。
が、黒田は前回紹介したように、この頃は寧ろ島津家と徳川家康の仲介役になっているくらいで、加藤清正ほど島津家に恨みは持っていなかったと思われます。

…で、結局清正のこの激しい訴えですが、その後の経緯から見ると家康まで届かなかったんじゃ無かろうかと私は推測します(爆)
そしてこの手紙も本来なら榊原家で持っているはずなのに、いつの間にやら黒田家に流れ…まあ、このお陰で清正の怒り恨みが平成の世に伝わったわけですから良かった良かった?!ヾ(--;)

なお、この手紙ですが注記でいくつか指摘したように、異様に誤字脱字が多い文書であります。まあ、清正が怒りに任せて書いたからじゃないの?と言えばそうなんですが、普通ここまで酷い文書をこんな大事な内容を伝えるのに使うかなあ、と言う気もします…しかも伝わっているのが当事者じゃない黒田家だし(^^;)

※拙ブログ関連記事 関ヶ原の合戦と島津忠清続



次回は島津家とは関係ないんですが、戦国時代マニアには興味深い文書を紹介する予定です。

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無題
面白かった~
清正は大人げないというか、嫌いとなったらストレートに出すタイプだと思います^^

忠恒・・・まだ謹慎中だったのでは?
伊集院忠棟をやっちゃったアレで。
それとも庄内の乱を鎮圧した時に謹慎もチャラになったんでしょうか?

次も楽しみにしてます^^
時乃栞 URL 2015/06/26(Fri)21:23:42 編集
これをかきたかったんです(爆)
時乃栞様コメントありがとうございます。

長々と『黒田家文書』書いてきたのは、実はこの加藤清正の怒り爆発書状を紹介したかったからで(^^;)
うけて下さって大変嬉しいです。

なお忠恒ですが、お察しの通り、庄内の乱を鎮圧するという都合で、徳川家康により謹慎をチャラにして貰ってます。
ばんない 2015/06/29(Mon)01:41:27 編集
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