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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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実はこれは『明史』関連じゃなくて、今田さん関連で読み始めた本をずらずらたどっていったら、はるばるここまでたどり着いたという…というか、戦国島津に興味有るならもうとっくにこれくらい読んどけよと言われても仕方がない(-_-;)



『看羊録』というのがどういう物かと言うことについてはこちら
著者の姜沆(カン・ハン)は、捕虜として日本に連行されてしまうのですが、色々あって(※説明するとかなり長くなるので省略)最後の方では「それならいろんな事を記録して、いつか母国が日本に襲来し逆襲する手助けにしよう!」…と、秀吉政権の上層部に渡ることまで、どこでどうやって手に入れたのか不思議なんですが、かなり詳しい日本事情を記録しています。
内容は
・賊中封琉:連行中に危険を冒して朝鮮王に送った上奏文
・賊中聞見録:連行中に見聞きした日本情報を項目別に章立てて書いたもの
・告俘人檄:日本で捕虜になっていた朝鮮人に宛てた檄文
・詣承政院啓辞:帰国してから朝鮮王に報告した上申書
・渉乱事迹:帰国してから書いた回想録
から成り立ってます。

そのなかで、島津氏に言及した箇所があります。ネットで検索した限りでは紹介されてないようなので、今回拙ブログで書いてしまおう。
ではまいる。
※続きは下の「つづきはこちら」ボタンをクリック。


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ちょっと古いニュースですが スルッとkansai廃止 島津家関連他いろんな史跡巡りによく使っていたのでショック…特にお得度が高かった3dayチケット、2dayチケットも廃止だそうです。・゚・(つд∩) ・゚・ 。
今度の私の史跡巡りは、交通費高騰???とにらめっこすることになりそう…

では気を取り直して 七夕に関係があるような無いようなネタです。



光成準治『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い (NHKブックス) 』p.255で紹介されていたのだが、書き下し文+一部省略されていたので、こっちでは原文+全文掲載してみる。
「御文庫二十三番箱16巻中」「久保公御譜中案文在八木主水元信トアリ」
 起請文 天正十九年五月二十二日 草案
一 今度以神載可被抽忠懃之趣、諶感懐之至、弥御頼母敷
  儀候、就夫於 龍伯様・義弘御前ニ自然不慮之邪説可
  出合刻者、我〃進退ニ乍不似合、應時之子細ニ懇可到
  入魂事、
一 縁重之儀、依 天下様御<口愛>如此候之上者、向後、互遺恨
  有間敷事、
一 就其方之儀、萬一讒言之仁可有之時者、委敷可申通、
  又於下〃ニ、左様之沙汰被聞付次第承候者、忽糾明之
  儀可遂談合、殊更代〃忠節之佳名□他之条、到私茂別
  而指南之儀所希也、就中在洛而已之砌候間、京都共ニ
  偏可頼入事、
   又一様より幸侃へ御返書

 「末紙ニ、又一様より幸侃へ御神文案」 

「薩藩旧記雑録」後編2-761(『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録」後編2 p.510)
光成氏によると、この中で出てくる「縁重の儀」というのは伊集院忠真と島津御下の婚約のことを指しているのだという。
ふむ。わたしは久保の起請文だから、すっかり久保と亀寿のことかと思っていたのだが、考えてみたら宛先(予定者)が伊集院忠棟だから忠真と御下のことを指してると考えるのが自然なのか。

しかし、この考えでいくと、実は奇妙な問題があることに気が付く。
別の史料では島津御下は別の人物と婚約しているのである。
頴娃弥三郎久音 袈裟寿 久虎子天正十一年母相原氏女(中略)慶長二年高麗御供ニテ罷渡リ 義弘公ヨリ今度無恙於致帰国者本領頴娃ヲ被返下聟ニ可被遊之由御意ヲ承知仕候同三年十月八日於朝鮮病死十六歳
「本藩人物志」(『鹿児島県史料集』p.142)
義弘には娘は2人いるが、長女の御屋地はすでに島津朝久と結婚していたから、この時に頴娃久音に嫁に出せる娘は御下しかいないのである。
それとも実は御下は天正19年にはもう伊集院忠真と婚約済みだったのだが、それから6年も経った慶長2年(1597年)になってから、義弘は頴娃久音にも御下を嫁にやるという二股約束をしたのだろうか…もしそうだとしたら実はかなり黒い義弘ヾ(--;)

あと、この「縁重之儀」、豊臣秀吉の口利きによるとも読める(依 天下様御<口愛>如此候)。光成氏説が正しいとすると、大名の家臣(の子息)の結婚まで秀吉が世話したということになるが。はてさて。

暇のある方は関連ネタを書いてますのでしたの「つづきはこちら」をクリック宜しくお願いします<(_ _)>


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お隣の国・中国では後代の正統王朝が先代の王朝の歴史書を作るという伝統があった。
こうして出来たのが邪馬台国ヲタクヾ(--;)のバイブルである『後漢書』とか『魏志』だったり、飛鳥奈良時代の研究者もお世話になる『新唐書』とか『隋書』とかだったりする。

…こういう中国の”正統”史書の日本に関する記述だけを集めた便利な本が出ている。
『倭国伝』(講談社学術文庫)
実は元々学研から出ていた物らしいのだが、そっちはもう絶版になっているので、お手軽な文庫で出たのは本当に一般人には便利。

拙ブログでは邪馬台国みたいな地雷は踏みたくないのでヾ(--;)メインネタの島津氏に関するネタが出てくるのか?という一点重視で調べてみた。

その結果
※気になる人は「つづきはこちら」をクリック


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ちょっと前の話なのでご存じの方も多いかと思うが、念のため
島津義久から琉球国王への書状 伊予市で発見2016年04月13日(水)

 薩摩の戦国大名、島津義久が1590(天正18)年に琉球国王の尚寧(しょうねい)に宛てたとみられる書状が、愛媛県伊予市の個人宅で見つかった。豊臣秀吉の関東平定を伝え、祝いのために上洛(じょうらく)するよう促す内容。義久の書状を研究する東京大史料編纂(へんさん)所の黒嶋敏准教授(日本中世史)は「同時期のほかの文書で使っている義久の花押と同タイプで、原本と確定できる」と指摘している。
 書状は縦約33センチ、横約45センチの斐紙(ひし)に筆書きで、「日本天正拾八年仲秋廿一日 修理大夫義久」と記され、義久の花押と朱印がある。宛名は「琉球国王」としている。
 書状がどのような経緯で愛媛に渡ったのかは不明だが、黒嶋准教授によると、明治時代には書状が愛媛にあったことを示す記録が残っているという。史料編纂所に残る記録では「下浮穴郡役所所蔵文書」と紹介。「下浮穴郡役所」は明治の一時期、現在の松山市森松町に置かれその後、合併し「伊予郡下浮穴郡役所」となった。
http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20160413/news20160413231.html
肝心の書状の写真はこちら かなり劣化してるな~というのと、クリックしても拡大されないので中味読めないんですがヽ(`Д´)ノ

この書状については、のなかで考察に使われています(p。131)。
「どこかに原本があるかも知れないけど」とか何とか書いてられるけど、本を書いた時点ではこの書状のことを知ってられたんでしょ?黒嶋先生。つんつん。

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ネットで検索していて「修身事蹟」なる本を見つけた。保田安政という人物の著で、巻末にはあの貝原益軒が後書きを書いている。貝原益軒はともかくとして、「保田安政」という人物はネットで検索した限りではよく分からない人物。他にも「商人百夜草」なる本の著者でもあるようで、教訓物とかハウツー物を得意とした人物と見受けられます。
内容ですが、ちらちら見る限りではいわゆる「女大学」のジャンルに属する読み物のようです。何しろサブタイトルが「婦女必読」だし(^^;)

この本に1つだけだが、島津光久後室・陽和院のネタが出ている。
2chのまとめブログに出てくるネタはどうもこれを元にしているようです。
興味深い内容なのでご紹介 旧字体は適宜変えています。原文を見たい方は後掲のリンク先を参照プリーズ(漢文じゃないので素人でも読めるかと)
島津光久の夫人 陽和院

薩摩中将島津光久の夫人は、怜悧にして、姿色衆に優れ、且和歌に妙なり。陽和院と号す。初め、承応帝に仕えて匂当の内侍となる、光久嘗てこれを見て娶らんと望みしに内侍のいう『嫡夫人の礼を以て迎えられなば行くべし』と光久因て金一万両を贈り礼を厚くして迎えけり。
夫人一日侍女を誡めて曰く
『若き女子の花見遊山、さては寺詣などと云いて風流に出立は、皆、人に見られんとてゆくなり、女子の行儀にはよもあらじ、内裏の昔も今も、皆、女御達の礼として、檜扇を打翳し、姿を人に見せざるを常となすものを、今の若き女子は、綺羅を競いて形をつくり、面をあらわに人に見するは誠に恥ずかしきことならずや、世に、男は心美しく、女は姿美しき、ものとか云えど、如何に姿の美しとて、其の心美しからざらんは、こを誠の美人とは云われまじ、さるに其粧ひのみに心を入れて、姿の美しきを人に見するも、心あるものは其心醜きを笑いなん、実に口惜しき事ならずや、されば花見んとならば人無きところの花を見よ、寺詣せんとならば本堂より奥に入るべからず』
『』でくくられてる文は「はぁ~そうですか~」という内容ですが、何しろ先述したように本の目的が目的なのでともかくとしてヾ(^^;)

個人的に気になるのが最初の内容
・承応帝:承応は1652~1654年、承応改元時の天皇は後光明天皇なので、承応帝=後光明天皇のこと。でも後光明天皇は承応3年にぽっくり亡くなってしまうのですが…
・匂当の内侍:匂当内侍(こうとうないし)は女官の役職名の一つで別名「長橋局」。ただしこれは非公式名で、正式には掌侍(しょうじ)の筆頭を指す。一番有名なのは新田義貞の関係者かな。朝廷の財政を管理したので裕福な人が多かったとか。
このうち「承応帝」こと後光明天皇の女官だったのは正しいのですが、陽和院は”弁内侍”といわれており(義兄の平松時量が書いた日記かなんかにそう書いてあった(うろ覚え))匂当内侍ではないです。
もう一つ気になるのは、島津光久が女官時代の陽和院を見て「嫁にゲットしたい」と言ったと言うこと。いつ京都の御所に行く機会があったんだよみっちーヾ(^^;)。もっと気になるのはそれに対して陽和院が「正妻の礼を取ってくれたら行くけど」と返事したということ。文を読むと「正妻の礼=支度金1万両」とも読めるが、実際の陽和院が結婚に至るまでの経過を見ると、それだけではないような気が…続く_(。_゜)/



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