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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ちょっと古いニュースですが スルッとkansai廃止 島津家関連他いろんな史跡巡りによく使っていたのでショック…特にお得度が高かった3dayチケット、2dayチケットも廃止だそうです。・゚・(つд∩) ・゚・ 。
今度の私の史跡巡りは、交通費高騰???とにらめっこすることになりそう…

では気を取り直して 七夕に関係があるような無いようなネタです。



光成準治『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い (NHKブックス) 』p.255で紹介されていたのだが、書き下し文+一部省略されていたので、こっちでは原文+全文掲載してみる。
「御文庫二十三番箱16巻中」「久保公御譜中案文在八木主水元信トアリ」
 起請文 天正十九年五月二十二日 草案
一 今度以神載可被抽忠懃之趣、諶感懐之至、弥御頼母敷
  儀候、就夫於 龍伯様・義弘御前ニ自然不慮之邪説可
  出合刻者、我〃進退ニ乍不似合、應時之子細ニ懇可到
  入魂事、
一 縁重之儀、依 天下様御<口愛>如此候之上者、向後、互遺恨
  有間敷事、
一 就其方之儀、萬一讒言之仁可有之時者、委敷可申通、
  又於下〃ニ、左様之沙汰被聞付次第承候者、忽糾明之
  儀可遂談合、殊更代〃忠節之佳名□他之条、到私茂別
  而指南之儀所希也、就中在洛而已之砌候間、京都共ニ
  偏可頼入事、
   又一様より幸侃へ御返書

 「末紙ニ、又一様より幸侃へ御神文案」 

「薩藩旧記雑録」後編2-761(『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録」後編2 p.510)
光成氏によると、この中で出てくる「縁重の儀」というのは伊集院忠真と島津御下の婚約のことを指しているのだという。
ふむ。わたしは久保の起請文だから、すっかり久保と亀寿のことかと思っていたのだが、考えてみたら宛先(予定者)が伊集院忠棟だから忠真と御下のことを指してると考えるのが自然なのか。

しかし、この考えでいくと、実は奇妙な問題があることに気が付く。
別の史料では島津御下は別の人物と婚約しているのである。
頴娃弥三郎久音 袈裟寿 久虎子天正十一年母相原氏女(中略)慶長二年高麗御供ニテ罷渡リ 義弘公ヨリ今度無恙於致帰国者本領頴娃ヲ被返下聟ニ可被遊之由御意ヲ承知仕候同三年十月八日於朝鮮病死十六歳
「本藩人物志」(『鹿児島県史料集』p.142)
義弘には娘は2人いるが、長女の御屋地はすでに島津朝久と結婚していたから、この時に頴娃久音に嫁に出せる娘は御下しかいないのである。
それとも実は御下は天正19年にはもう伊集院忠真と婚約済みだったのだが、それから6年も経った慶長2年(1597年)になってから、義弘は頴娃久音にも御下を嫁にやるという二股約束をしたのだろうか…もしそうだとしたら実はかなり黒い義弘ヾ(--;)

あと、この「縁重之儀」、豊臣秀吉の口利きによるとも読める(依 天下様御<口愛>如此候)。光成氏説が正しいとすると、大名の家臣(の子息)の結婚まで秀吉が世話したということになるが。はてさて。

暇のある方は関連ネタを書いてますのでしたの「つづきはこちら」をクリック宜しくお願いします<(_ _)>



光成氏の話でちょっと脱線ネタ。

一人の娘は当初北郷相久と婚姻し、その後豊州島津家の朝久と婚姻しているが、この娘の母北郷氏と義弘は離縁しているから、忠真室は実質的には一人娘とも言える女性であり、島津本宗家、あるいは、義弘個人が姻戚関係によって忠棟との結びつきを強固にしておこうとしたことが分かる。
(p.256)


いわゆる島津御屋地のことなんだが、義弘は朝鮮出兵中もこの御屋地についていろいろ気遣う手紙を送っているので、御下が「実質的に一人娘」とするのはかなり誤解を招く文。単純に「一人の娘はすでに結婚していたので」でいいような気がするんだけど。何でこんな回りくどい描き方するかな。

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