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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
実はこれは『明史』関連じゃなくて、今田さん関連で読み始めた本をずらずらたどっていったら、はるばるここまでたどり着いたという…というか、戦国島津に興味有るならもうとっくにこれくらい読んどけよと言われても仕方がない(-_-;)



『看羊録』というのがどういう物かと言うことについてはこちら
著者の姜沆(カン・ハン)は、捕虜として日本に連行されてしまうのですが、色々あって(※説明するとかなり長くなるので省略)最後の方では「それならいろんな事を記録して、いつか母国が日本に襲来し逆襲する手助けにしよう!」…と、秀吉政権の上層部に渡ることまで、どこでどうやって手に入れたのか不思議なんですが、かなり詳しい日本事情を記録しています。
内容は
・賊中封琉:連行中に危険を冒して朝鮮王に送った上奏文
・賊中聞見録:連行中に見聞きした日本情報を項目別に章立てて書いたもの
・告俘人檄:日本で捕虜になっていた朝鮮人に宛てた檄文
・詣承政院啓辞:帰国してから朝鮮王に報告した上申書
・渉乱事迹:帰国してから書いた回想録
から成り立ってます。

そのなかで、島津氏に言及した箇所があります。ネットで検索した限りでは紹介されてないようなので、今回拙ブログで書いてしまおう。
ではまいる。
※続きは下の「つづきはこちら」ボタンをクリック。




(頭注)
(1)『看羊録』はいろいろな本に所収されていますが、今回使うのは東洋文庫版になります。一番図書館に置いてあるのもこれかと。
(2)[ ]→翻訳を担当した朴鐘鳴氏による補注
(3)<>→著者の姜沆自身による補注
[島津]義弘なる者がいる。島津兵庫頭と称した。<島津は姓であり、兵庫頭は武器庫の長[と言う意味]である。>代々、薩摩・大隅・日向などの州に拠った。その地は、大唐及び琉球、呂宋などの国に近く、唐船・蛮船の往来が絶えることがない。倭人で明朝や南蛮に往来する者は、必ず道をここに取る。唐貨や蛮貨が店々に満ちあふれ、唐人や蛮人が店を連ね、屋を並べている。
義弘の武勇は、また諸倭に[くらべて]冠たるものである。倭人はみな、
「義弘を、武勇を発揮できる地に居らせたならば、日本[全国]を併呑するのも困難ではなかろう」
と言った。その部下も、極めて精[鋭である上に]勇[敢]で、しかも、みな代々の家臣である。
信長の末年に、九州<西海一道が九州全体である。壱岐・対馬は数えない(注1)>を全部併呑した。秀吉が[信長に]代わって立つに及ぶや、直接これと争ったが結局成功せず、義弘は自分から六州を秀吉に差し出し、元の所領である三州だけに拠った。
<丁酉の役(注2)には、その部下が泗川に駐屯した。[その時、]賊徒は次のように喧伝した。
「明兵が、戊戌年(注3)春、泗川の倭人を包囲したが、[わが方に]大いに打ち破られた。『堅を攻めて、堅を瑕く(注4)』というのは、つまりこれを言うのだ」
己亥年(注5)春、その家臣で、八万石の領地を治めている者(注6)が、謀反を計った。義弘が、策を設けて死を与えた。その子(注7)が、ちょうど日向州にいて、年は17であったが、城地12箇所を修築して反乱を起こした。義弘が、直接乗り出して攻囲し、骨を山のようにさらしてやっと3城を落とした。金吾(注8)や清正(注9)が、援兵を送ろうか、と言いやったが、義弘は、これを辞退して、
「わが武将が背いたのであるから、どうあっても自分が撃ち殺してしまわねばならぬ。どうして他人の援兵を煩わそうか」
と言った。叛いた者も、家康(注10)らに大いに賄賂を使って和を通じ、気が狂ったと言う事にして死を免れようと願った、と言う。義弘の精鋭部隊の大半が、[この内乱鎮圧の]一年間に死傷し、家康らは、心ひそかにこれを喜んだ、という。>
「賊中聞見録」p.145~146
ばんない補注
1「壱岐・対馬は数えない」→姜沆は対馬・壱岐は朝鮮王朝領と主張している(p.29,p.146など)実際はそうじゃないことを認めざるを得ない場面もあるんだが、後述するかも。
2「丁酉の役」→いわゆる「慶長の役」 慶長2年(1597年)が丁酉年にあたることから朝鮮ではこう言う。
3「戊戌年」→慶長3年(1598年)
4「堅を攻めて、堅を瑕く」→強敵を攻めて打ち破ること
5「己亥年」→慶長4年(1599年)
6「その家臣で八万石の領地を治めている者」→島津マニアならすぐぴんと来ると思うが、伊集院忠棟のことである
7「その子」→伊集院忠真。ただ17歳ではなく慶長4年当時は24歳(「庄内陣記」添付系図参照)
8「金吾」→小早川秀秋
9「清正」→加藤清正。ただし実際は島津家ではなく伊集院家に加勢していた形跡がある。
10「家康」→ご存じ徳川家康

日本に3年ほどしかいなかった+日本語が全くできなかったらしいわりには詳しく調べていると思いますが、史実とは微妙に異なる部分があり、興味深いです。
(1)島津家「当主」義弘
 この当時の島津義弘の立場というのがなかなか微妙だったのは、あの有名すぎる『島津義弘の賭け』を始めとしていろんな書籍や論文でネタにされていますが、姜沆情報では「薩摩/大隅/日向の領主で島津家の当主は島津義弘」という認識だったというのが伺えます。姜沆の情報源は儒学者という関係上京都の僧侶などが多かったように思えますが、姜沆のこの記述から見るに、上方では「島津家の当主=義弘」だったのではないかと思われます。
(2)義弘の“武勇”
 島津義弘は武勇に優れていたというのは祖父・島津忠良の伝説的なたとえ話(4兄弟を比較して「雄武英略をもって他に傑出」といわれる)に登場しますが、この姜沆の話は義弘の武勇というのが同時代人にもかなり知れ渡っていた様子であることを伺わせるものです。にしても「義弘を、武勇を発揮できる地に居らせたならば、日本[全国]を併呑するのも困難ではなかろう」ていうのは、まるで「信○の野望」のようなヾ(^^;) まあ信やぼ的義弘像というのはすでに慶長のころにはできあがっていたようですね。
(3)九州統一、朝鮮出兵、庄内の乱
 姜沆の島津義弘談では、九州を統一したものの豊臣秀吉に敗れたのも義弘、泗川の戦いで朝鮮に出兵したのも義弘、庄内の乱で伊集院忠真と戦ったのも義弘、ということになってますが、九州統一直前まで行ったときの当主は当然兄の義久で、庄内の乱の時は義弘は伏見にいて薩摩には帰ってません。特に「丁酉の役には、その部下が泗川に駐屯した」と言う記述、実際は義弘は朝鮮に渡っているのに変です。義久ならこういう書かれ方も分かるのですが。
この記述、どうも義久と義弘をごっちゃにして書いているように思われます。

あと興味深いのは、姜沆が書いたとおり、庄内の乱で島津領内は疲弊してしまうんですが、徳川家康がそれを密かに喜んでたと書いてること。家康は庄内の乱を調停してるんですが、姜沆が交流していた外野(=京の僧侶達)はそれを家康の攪乱工作と見ていたんでしょうか。



島津家に関する記述はこの他にも頻出するのですが、
ちょっと長くなったので項を変えて続く。

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無題
ご無沙汰してます。
道産子という本土から見て羨ましい環境なのに夏バテ(プラスぎっくり腰)してました^^

義久と義弘の混同を割り引いても、かなり詳しく記述されてますね。
ソースが気になる^^
時乃栞 2016/08/25(Thu)22:50:48 編集
無題
台風お見舞い申し上げます<(_ _)>
北海道が台風の当たり年なんて、変な気象の多い最近の日本の夏でもずば抜けて変な今年の夏でした…いやまだ過去形になって無くて暑い(-_-;)
元から酷暑が名物の関西でも、今年は去年以上に暑くてこたえました…

看羊録ネタはしばらく続く予定になってます
いろいろ興味深い内容が多いです
お楽しみにお待ち下さい<(_ _)>
ばんない 2016/08/31(Wed)13:08:43 編集
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