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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
お隣の国・中国では後代の正統王朝が先代の王朝の歴史書を作るという伝統があった。
こうして出来たのが邪馬台国ヲタクヾ(--;)のバイブルである『後漢書』とか『魏志』だったり、飛鳥奈良時代の研究者もお世話になる『新唐書』とか『隋書』とかだったりする。

…こういう中国の”正統”史書の日本に関する記述だけを集めた便利な本が出ている。
『倭国伝』(講談社学術文庫)
実は元々学研から出ていた物らしいのだが、そっちはもう絶版になっているので、お手軽な文庫で出たのは本当に一般人には便利。

拙ブログでは邪馬台国みたいな地雷は踏みたくないのでヾ(--;)メインネタの島津氏に関するネタが出てくるのか?という一点重視で調べてみた。

その結果
※気になる人は「つづきはこちら」をクリック




本当にちょろっとだけご出演されてた_(。_゜)/
ちなみにご期待のヾ(--;)文禄・慶長の役関係ではありません。

・以下、引用文は『倭国伝』(講談社学術文庫版)の書き下しを利用しております
・注記、下線はばんないによる物です
是の年(注1)七月、其の大臣(注2)、僧の宣聞渓(注3)等を使わし、書を齎(もたら)して、中書省(注4)に上らしむ。馬及び方物(注5)を貢すれども表(注6)無し。帝、命じて之を却(しりぞ)けしむるも、仍(な)おも其の使者に賜いて遣わし還す。未だ幾(いくばく)もあらずして、其の別島の守臣・氏久、僧を遣わし表を奉じて来貢せしむ。帝、国王の命無く且つ正朔(注7)を奉ぜざるを以って、亦た之を却けしも、其の使者に賜わり、礼臣(注8)に命じて移牒(注9)せしめ、責むるに分を越えて私貢せるの非を以ってす。
『明史』巻322,外国3「日本伝」
(講談社現代新書版、p.343)
<注記>
(注1)是の年:洪武6年(1373年) この時の明の皇帝は洪武帝こと朱元璋
(注2)其の大臣:後醍醐天皇皇子・懐良親王の配下とするか、足利幕府の配下とするか2説があるが、幕府配下という説が有力らしい(「入明僧無初徳治の活動とその功績」佐藤秀孝(『駒沢大学仏教学部研究紀要』55(平成9年3月)こちら(PDF)))
(注3)宣聞渓:足利義満近侍の禅僧ではないかとする説がある(佐藤前掲論文)
(注4)中書省:明の役所の一つ 皇帝の側近的な役割があったが、1380年に廃止
(注5)方物:貢ぎ物
(注6)表:上表文
(注7)正朔:年号 この場合は明の年号と、明官制の暦による月日が文書に書いてあること
(注8)礼臣:明の役所の一つ・礼部の役人のこと 礼部は外交も担当
(注9)移牒:管轄の違う別の役所に通達すること。この場合は礼部の役人から島津氏久の使者に注意を与えたことを指す

この頃の日本は南北朝時代で、国内を統一している人物がいない状態です。
明がいわゆる「勘合貿易」で国の統一政府の代表だけと朝貢形式でしか貿易してないのは有名すぎる話ですが、日本は前述の状態なのでいろんな人物が勝手にやって来てると言う(苦笑)。そのなかに島津氏久が仕立てた使者もいたようです。勘合も持ってないので怒られた上に当然使者としての扱いもされなかった物の、それなりに物はもらって帰ったようなんで、目的の90%は達成したも同然だったと思います(爆)
しかし島津氏も氏久まで時代がさかのぼると全くのノーマークで何も知らない(^^;)「薩藩旧記雑録(前編)」に氏久が明に何か送ったとか言う記録はあるのだろうか…。

次にもう1カ所 かなり時代が後になります
明年(注1)二月、(中略)蒋洲・陳可願(注2)を[日本に]遣わし、往かしむ。是に及んで、可願還りて言う、
「其の国の五島(注3)に至り、汪直・毛海峰(注4)に遇えり、[汪・毛が]謂わく、『日本は内乱し、王とその相と倶に死す(注5)。諸島、相統摂せず(注6)、須くあまねく(注7)諭して乃ち其の入犯を杜すべし』と。又言う、『薩摩州なる者有り、已に帆を揚げて入寇すと雖も、其の本心に非ず、通交・互市を乞う。[薩摩は]賊を殺して自ら効さんことを願う』と。乃ち[蒋]洲を留めて各島に伝諭せしめ、而して可願を送りて[中国へ]還せり」と。
『明史』巻322,外国3「日本伝」(講談社現代新書版、p.377~378)
<注記>
(注1)明年:嘉靖35年(1556年)
(注2)蒋洲・陳可願:寧波在住の知識人らしい(『明史』の記述による)
(注3)五島:五島列島 この頃の支配者は五島氏のはずなのだが、後期倭寇の本拠地だったのは教科書レベルの基礎知識である
(注4)汪直・毛海峰:王直とその養子の毛海峰 王直知らなかったらテストがヤバイですよヾ(^^;) 養子なのにも毛海峰の名字が「王」じゃないの何故なんだろう
(注5)王とその相~:講談社現代文庫の解説では「大内氏の内訌を指すか」としている 大内義隆が陶晴賢の謀反で自殺させられたのは1551年
(注6)相統摂せず:統制されてない
(注7)あまねく:さんずいに「扁」で一字の漢字なのだが、文字コードの問題で読み仮名の表記とした

1556年は島津家の当主は島津貴久になっています。が、貴久の父・島津忠良も健在でした。蒋洲・陳可願は貴久・忠良の両人に対面できたのかも知れません。しかし、「薩藩旧記雑録(後編)」で、その辺の事書いた史料があった記憶がないヾ(--;) 単に読み落としている可能性も高いので、ご存じの方御教示お待ちしてます<(_ _)>
書いてある内容が興味深いです。私が適当に意訳してみる。
「島津氏という者がいて、これがすでに明の海岸を荒らし回ってるんだけど、実はこれは本当はやりたくなかったらしいの。本当はちゃんとした貿易したいそうなの。貿易してくれるっつーなら倭寇だって退治しちゃうし」
というところでしょうか。
実はこの頃、島津氏は完全に薩摩/大隅の国人を抑えきるまでには到っておらず、国人の中には当然島津氏の了解なんかもらわずにさっさと明に舟出してしまう者が結構多かったようです(参考『琉球王国と戦国大名』)。忠良・貴久親子がこの明の使いを利用して(あるいは提携して)、薩摩/大隅領内の国人+倭寇を統制しようと考えたことは容易に推測できるでしょう。


で、『明史』「日本伝」に出てくる島津関係の記述はこの2つだけなんですよ_(。_゜)/
ご期待のヾ(--;)文禄・慶長の役の記述はどうも同じ『明史』でも「朝鮮伝」のほうが詳しいみたいなんですが、講談社現代文庫版はそれは掲載されてないのですな…原文読む?ヾ(^^;)

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《明史》とこのブルグについて
私はこの文を読んて、《明史》の中に島津についすることを訳した。しかし、私は日本語の初心者ですが。《明史》のようにことを日本語に訳するのは無理です。そして、島津についすることを英語に訳した。だが、このブルグに英語でコメントするのはできません。残念ながら、注意事項にこのことを言及して欲しい。このコメントの中にのたくさんの違うを許してください。
投稿不能見たいことはネットワーク遅延のせいか。漢字があれば、書き込むのはできるね。いつのコメントを何度も書き込むのことごめんなさい。
蛤蛤 2016/06/17(Fri)01:54:21 編集
島津についする《明史》の英語訳
I picked out those related to Shimadu clan from MingShi and translated them into English (it is beyond my ability to translate them into Japanese).Hope it will help.Names of people and locations and some proper nouns are left untranslated for better comprehension.
朝鮮伝より
The Ming rulers assigned 方亨 as the chief envoy and promoted 沈惟敬 as his vice envoy.When they arrived with diplomatic correspondence .关白 is annoyed with Korean princess not coming for apology.He just sent two envoys with silks as present.方亨 refused to meet with them and said to 沈惟敬:"Japan doesn't want to return the captured people and territory as what we expected,sending low-level envoy with poor present.It is a great insult to both Korea and China.I suggest we should just leave 石曼子 and hie army in Korea and wait for farther direction.Then we head home."
乃以方亨充正使,加惟敬神機營銜副之。及是奉冊至,關白怒朝鮮王子不來謝,止遣二使奉白土綢為賀,拒其使不見,語惟敬曰:「若不思二子、三大臣、三都、八道悉遵天朝約付還,今以卑官微物來賀,辱小邦邪?辱天朝邪?且留石曼子 兵於彼,候天朝處分,然後撤還。」
The central frontline was defended by 石曼子 stationed in 泗州.行長's navy traveled across the sea sending supply.Ming forces set a day to attack.However 李如松 was killed in the battle of 遼陽 .李如梅 was sent back with 董一元 replacing him in the central frontline.
中路則石曼子,據泗州。而行長水師番休濟餉,往來如駛。我師約日並進,尋報遼陽警,李如松敗沒,詔如梅還赴之,中路以董一元代。
It is reported by 福建都御史 金學曾 that 平秀吉 died at June ninth.The Japanese forces were considering going back.In November,清正 set off in boat first.麻貴 entered 島山 and 酉浦.劉綎 captured 曳橋.石曼子 led his navy to save 行長 who was intercepted and defeated by 陳璘.All the Japanese forces retreated by sea.
是月,福建都御史金學曾報七月九日平秀吉死,各倭俱有歸志。十一月,清正發舟先走,麻貴遂入島山、酉浦,劉綎攻奪曳橋。石曼子引舟師救行長,陳璘邀擊敗之。諸倭揚帆盡歸。
董一元伝より
董一元 defended 石曼子 at 泗州 in the central frontline.董一元 captured 晉州 and then 望晉 and crossed the river destroyed the two fortress 永春 and 昆陽.Japanese forces retreated to defend their central command 泗州, but it was captured.Japanese forces retreated to their new fortress which was crowded by river in three direction with moat connected to the sea.Countless Navy harbors were located beside it. Two fortress 金海 and 固城 were built to defend it in both the left and right wing.董一元 separate his army into footmen and riders to attack. 步兵游擊 彭信 used a enormous bat to beat the fortress,which took heavy damages in many parts.Ming forces were attacking the moat and fences when the cannon exploded in their camp,producing fog and flame shading the sky.The Japanese forces took this advantage for a counterattack while their reinforcements arrived at the same time.The cavalry retreated first.董一元 retreated to 晉州 after them.The battle was informed to the superior.They executed 游擊馬呈文 and 郝三聘.信古 was dismissed.董一元 was punished and downgraded.After 關白's death,the Japanese forces retreated.石曼子 was eliminated by 陳璘.董一元 was restored to his old post and died long after that.
一元由中路,御石曼子於泗州,先拔晉州,下望晉,乘勝濟江,連毀永春、昆陽二寨。賊退保泗州老營,攻下之,游擊盧得功陣歿。前逼新寨。寨三面臨江,一面通陸,引海為濠,海艘泊寨下千計,築金海、固城為左右翼。一元分馬步夾攻。步兵游擊彭信古用大棓擊寨,碎其數處。眾軍進逼賊濠,毀其柵。忽營中炮裂,煙焰漲天。賊乘勢衝擊,固城援賊亦至。騎兵諸將先奔,一元亦還晉州。事聞,詔斬游擊馬呈文、郝三聘,落信古等職,充為事官;一元亦奪宮保,貶秩三等。會關白死,倭遁走。石曼子為陳璘所殲,一元得還故秩,賚銀幣。久之卒。
劉綎伝より
劉綎 captured 栗林 and 曳橋.The Japanese forces took heavy casualties.石曼子 led his navy to save 行長.陳璘 intercepted and defeated him in the sea.行長 had to abandon 順天 and retreated in a small boat.
綎夜半攻奪栗林、曳橋,斬獲多。石曼子引舟師救,陳璘邀擊之海中。行長遂棄順天,乘小艘遁。
陳璘伝より
Japanese forces planed to retreat after 平秀吉's death.陳璘 sent 鄧子龍(明水師副總兵) together with Korea admiral 李舜臣 to intercept them.陳蠶(明水師副總兵)and 季金(明水師游擊)also arrived with their fleet.Without will to fight,Japanese Forces had their ships burned by Ming Forces.Those who attempted to went back to beach was killed by Ming army on the land.Thousand of soldiers died from drownings and burnings.At this time 劉綎 attacked 行長 and managed to enter 順天.陳璘 led a converging attack with his navy and burned hundred of ships.石曼子 led his navy west to reinforce 行長, who was intercepted by 陳璘 in the half way.石曼子 was killed by 陳璘 together with three hundred of his people.
會平秀吉死,賊將遁,璘急遣子龍偕朝鮮將李舜臣邀之。子龍戰沒,蠶、金等軍至,邀擊之,倭無鬥志,官軍焚其舟。賊大敗,脫登岸者又為陸兵所殲,焚溺死者萬計。時綎方攻行長,驅入順天大城。璘以舟師夾擊,復焚其舟百餘。石曼子西援行長,璘邀之半洋,擊殺之,殲其徒三百餘。
There is no doubt that Shimadu survived the battle in Korea.The writer should have made a mistake or the "Shimadu" got killed was his kagemusha just like what happened in the battle of sekigahara.What's more,it is quite strange that he is the only one mentioned with his family name translated incorrect.
蛤蛤 2016/06/17(Fri)03:51:24 編集
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