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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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下級公家・松尾相氏の娘であったシゲは備中松山藩5万石の殿であった水谷勝宗の後妻に迎えられ、子供はいなかった物の、婚家には優遇される安泰の人生をつかんだかと思われました。
が、元禄初期に夫、義理の息子、その末期養子が次々と死んでしまったことで水谷家は断絶、シゲも実家に帰される身の上となります



ところが、そのころ江戸城大奥で起こっていた権力争いによって、シゲは再び江戸に戻ることとなるのです。

延宝8年(1680年)、4代将軍徳川家綱が子供無く死去したことにより、弟の綱吉が5代目の将軍となります。
綱吉には五摂家の鷹司家から迎えた信子という正室がいましたが二人の間には子供が無く、下級武士出身の側室・お伝の方との間に男子1人+女子1人の子供がおり、また綱吉の生母・桂昌院がお伝の方を支持したために、正室vs側室のバトルが勃発したことは数多くの大奥ドラマのネタにされていて非常に有名です。
子供が無く形勢不利の鷹司信子は、姉の新上西門院・鷹司房子に加勢を依頼、房子の推薦で大奥に送り込まれたのが公家・水無瀬家の姫で房子の女房を勤めていた”常盤井”-後の”右衛門佐”です。
右衛門佐の学才はたちまちにして綱吉の目に留まり、林英夫氏によると元禄3年(1690年)に京都から北村季吟湖春親子が幕府歌学方に、その後住吉具慶が幕府御用絵師に、また能役者中山喜兵衛・狂言師脇本作左衛門が幕府召し抱えになったのも右衛門佐の推挙によるものだそうです。ちなみに北村季吟は右衛門佐の師匠だったとか。

このようにして綱吉の歓心を得ることに成功した右衛門佐が、大奥を自分の腹心で固めようとしたことは容易に想像できます。この時に候補に挙がったのが、元禄7年に京の実家に戻されてしまった松尾シゲでした。
水無瀬家はシゲの大叔父・松尾相行(松尾大社神主)の正室の実家であること、天和3年(1683)の中宮立后に於いて右衛門佐(当時”常盤井”)が上臈、シゲの妹・”越前局”が下臈として勤侍したことなどから水無瀬家と松尾家は親しい関係だったのではないかと林氏は推測しています(p.215)。
シゲが公家社会ばかりでなく、元大名正室として武家社会にも詳しいと思われることが決め手になったと考えられます。
元禄7年(1694年)10月25日の松尾相匡日記には「江戸御本丸女中右衛門佐殿ヨリ書状到来、関東下向アルベシ、里亭ニ御在留ノ後、御城勤仕ノ沙汰アル由、示シ来ル」とあり、ここからシゲが実家に戻されてすぐに右衛門佐からのリクルートは始まっていたと思われます。それに対するシゲの反応は参考文献に記載無く不明ですが、京の実家で平穏に余生を過ごすか、多額の金品と引き替えに噂には漏れ聞いていたであろう修羅場の大奥に行くか、非常に迷ったことと推測されます。
しかし、翌年元禄8年2月15日の松尾相匡日記では「鷹司殿ノ御使高橋土佐守ガ、関東下向ニツキ、コノサイニ梅津ニ同道シテ江戸ニ来テホシイ旨」と書かれていることから、結局、シゲは右衛門佐の熱心な勧誘に負けたものと思われます。
翌日の2月16日には母の栄正院、妹・越前局、弟・相匡と召使い2人を連れて祇園舎(現在の八坂神社)、下鴨本明院(詳細未詳)、清水寺を参詣し、2月19日には槙尾山心王院(現在の西明寺か)で夫・水谷勝宗7回忌法要を行っています。林氏の考察の通り、シゲの江戸下向が決まって、最後の家族旅行を行った物と思われます。大奥の高級女中になると簡単に江戸城から出ることが出来なくなるのは皆様ご存じの通りで、松尾一家は今生の別れを覚悟したことでしょう。
そして2月23日の午前6時、夜明けと同時にシゲは故郷の京を出発します。大津(現在の滋賀県大津市)までは弟・相匡が見送りに付いてきてくれました。松尾家所蔵の同年3月中頃の右衛門佐→栄正院の書状でシゲの江戸到着を知らせていることから、京から江戸まで1ヶ月弱かかったことがわかります。
4月30日、シゲは江戸城本丸大奥の右衛門佐の局に入り、仮の名”ラク”を与えられます。
5月2日には御広敷に伺候し、右衛門佐の案内で若年寄・秋元喬知に伺候、「上臈品(じょうろうほん)」の地位につけられます。松尾相匡日記では「(上臈品とは)当地公卿、殿上ノ息女、或ハ大名等ノ息女ナリ、眉目ノ躰ナリ」と書かれているそうです。本来「上臈品」は御客会釈(おきゃくあしらい)を勤めた後に就く職でしたが、ラク(元”シゲ”)はいきなり上臈品になります。林氏はラクが元大名の正室であったことからすぐに任じられたのではと考察しています。異例の事と思われ、相匡日記にあるように「眉目ノ躰(=大変な誉れ)」であったことは間違いないでしょう。
5月4日には御広敷で柳沢吉保、秋元喬知、右衛門佐の立ち会いの元、候名”梅津”を名乗るよう命じられます。但し、先述の元禄8年2月15日松尾相匡日記の記述からみると、正式に出仕する前から”梅津”を名乗ることは決まっていたかも知れません。ところで、参考文献では考察されていませんが、松尾大社の近くには現在も梅津の地名があり、その関連による名付けかと思われます。最も梅津は松尾大社じゃなくて梅宮大社の本拠地なんですが(^^;)
5月11日には初出仕を迎え、綱吉正室・鷹司信子から「懇詞」を賜り、「御服」一重を拝領したと梅津の手紙に書かれていたと相匡日記は綴っています。

その後10年近く、梅津は信子付きの上臈御年寄となっていたと思われます。
元禄14年(1701年)、弟・相匡の娘である務津(むつ、当時9歳)を養女とし、江戸に下向させて、3500石の旗本・永見心之丞に嫁がせています。
12年後の正徳三年(1713年)、務津の妹である見保(みほ)も養女として江戸に迎え、同年8月6日に旗本大番頭・高木九助の息子・酒之丞正栄に嫁がせています。
これは梅津が実家を救済するために縁組みをまとめたようで、相匡日記正徳4年(1714年)6月29日条には「予、些少トイエドモ姉梅津殿介抱ノ故也」と娘の縁談をまとめた梅津に感謝の文が綴られているそうです。江戸時代の中下級公家が貧乏だったのは拙ブログでも以前言及したことがありますが、社家の分家という立場の松尾家も似たような状況であったことは推測されます。梅津が右衛門佐の求めに応じて気苦労の多い大奥勤めを選んだのもそういう背景があったからと考えられます。また、当時の上流階級は一度親族関係を結ぶと贈答のやりとりがかなり盛んで、先述の梅津の姪(養女)たちも婚家先から実家にせっせと贈答の品を送っているのですが、これらが松尾家の家計の手助けになったことは言うまでもありません。

相匡日記によると、梅津は宝永3年(1706年)1月には将軍綱吉から御賞賜として「判金」を賜ります。この時に梅津は表御殿に出ることなく、老中・秋元喬知、若年寄・加藤明英が大奥の梅津の部屋に使わされて判金を受け取っています。これはとても名誉なことだったらしく、相匡日記には「部屋ニ於テ賜ルノ事、眉目タリ」と記されているそうです。
ところがその2ヶ月後の3月11日、梅津の支援者であった右衛門佐が小日向(現東京都文京区)の拝領屋敷で44歳で死去します。このことが梅津のその後に影響を与えたと思われます。


まだちょっと長くなりそうなので、ここでいったん切ります。


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