拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
徳川幕府御用達の呉服屋・後藤縫殿助家には島津家がらみの伝承があり、以前拙ブログで紹介したことがある。
大橋局と「視聴草」
「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」1
「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」2
幕府の威光をバックに、恐らく大変な大金持ちであったろう後藤家だが、その後裔に当たるような店も調べた限りでは見あたらず、
が
後藤家のその後について書かれたコラムを見つけた。
日本史の森をゆく(中公新書)
これに所収された「江戸五品廻送令を再考する」(横山伊徳)で、幕末の後藤家について言及されている。
まずは「江戸五品廻送令」についてはこちら
前掲の横山コラムによると「幕府が江戸問屋を使って外国貿易統制を企てたものとして、幕府と江戸問屋との親和性を示していると考えられている。」(p.172)とする。
しかし横山氏によると、五品廻送令の前に、大老・井伊直弼がこれとは異なる輸出規制策を考えていたのだという。
突然の開国によって日本国内では急激な物不足とインフレが起こったのは有名な話だが、これに対して幕府は
1.生糸の一定量を京都に確保し、その他は絹織物も含め問屋を介さず自由売買とする
2.諸国から集めた物資はすべて江戸問屋に集積し、それから開港場に送る
3.江戸・大坂・京の商人・職人を監視し、物流を掌握する
という3つの案を考えた。
1案は勘定奉行の提案。勘定奉行は以前から生糸の物流を差配していた京の問屋に対して批判的で、この機会に生産地に決定権を写そうとする物だったようだ。
2案は江戸町奉行による物。これは江戸を差配する町奉行からすると、江戸から物が無くなると町人が騒動を起こすので、それを防止する観点からこういう案になったと考えられる。
3案が今回のネタ主である後藤家による物であった。後藤家は「幕府御用達」という家柄から来た自負から、自らが三都の商人の監視人となり、生糸や織物の物流を把握できると思っていたようだ。
横山氏コラムによると、
この後後藤家は自案を実現すべく、井伊直弼の彦根藩に根回しする。しかし後藤案が三都の商人に今ひとつ受けが悪いという空気を読むや、提案の対象を京の1カ所のみに絞り、今度は手代親子を工作員として京都町奉行に根回しした。
…と言う工作が功を奏したのか、井伊直弼は1,2案を却下し、3案を採用することにした。
横山氏によると、この頃(安政6年)西陣の機屋の休業が相次いだがこれは反井伊派の多い水戸藩に同調したからだという噂も、後藤家の案を採用するきっかけになったという。また本来この手の命令は京都所司代によって出される物だが、この時は井伊直弼の直書で命じられたという。
しかし、後藤案の遂行については京都町奉行から疑念が出されていたようだ。後藤案が内々に打診されたとき「(京の呉服屋には、徳川よりも古い)足利時代からの由緒を申し立てて後藤に随わない者もいるかも」と懸念の意が示されていた。
一方、取り締まられる側の一つであった越後屋三井家は「(幕初の由緒にすがり)町人の心を忘れ、武士のように心得、毛の生えぬ侍の真似をして暮らす」(『町人孝見録』)と後藤家のことを酷評していたという。
安政6年(1859年)12月28日、後藤案は実行に移された
…が、万延元年(1860年)正月には、その後藤家から「織職の救済対象者が多く、とても私の力の及ぶところではない」と幕府に3万両の借金の願いを出すというていたらくだった。
結局後藤家は案を実行することすらできず、万延元年3月3日、井伊大老暗殺。
後藤家が工作員として京都町奉行の元に出入りさせていた手代の子も心労が祟ったのか病死し、後藤案はうやむやの内に廃案になったらしい。
横山氏のコラムでは、この後の後藤家についての記述はないのだが、
・同業者(三井家)からも「(後藤家は)町人の心を忘れている」と酷評されていること
・実際、自分で提案した案をまともに実行できないほど実力がないことがばれてしまったこと
等から考えて、明治維新後は没落してしまったのではないかという推測はあながち外れではないと考えている。
個人的に目が止まったのは、井伊直弼が幕府役人の出した1案、2案ではなく御用商人・後藤家の案を採用し、自ら直書を出すほど推進していたという点。地元彦根藩への工作があったからというのもあるのだろうが、井伊直弼と言う人物個人に注目してみると
・当時隆盛していた煎茶ではなく、抹茶に傾倒していた(自分で茶道の教本まで書いていたレベル)
・部屋住の時代から国学に傾倒していた(ちなみにこの時の教師が後にブレーンとなる長野主膳というのは有名かと)
など、古典主義というか復古主義の傾向が見られる。実際大老になったときの政策も幕府創始期のやり方を真似てたしね(^^;)その結果暗殺されてしまうのだが…
そういう古典主義者の井伊直弼には、当時の商習慣にのって考えられた1案、2案よりも、これまた古くからの幕府の馴染みである後藤家が商人を取り仕切るというのが一番ツボにはまったのではないかと、私には思われる。
それにしても大老に取り入って生糸問屋・呉服屋の頂点に君臨しようとした後藤家。
幕末には先述の三井家の酷評で分かるように同業者からも浮き上がり、「幕府御用達」という立場から庶民からも遠い存在だったことは間違いないだろうが、幕府草創期の全盛時代を「開国インフレ」という非常事態を利用してまでも、何とかしてリバイバルさせたかったんでしょうねえ…(-_-;)
大橋局と「視聴草」
「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」1
「後藤庄三郎由緒書」と「呉服師由緒書」2
幕府の威光をバックに、恐らく大変な大金持ちであったろう後藤家だが、その後裔に当たるような店も調べた限りでは見あたらず、
江戸時代に繁栄した呉服屋の多くは、明治以降は百貨店業に転じたところが多いように思うのですが(越後屋→三越、松阪屋、伊勢丹、高島屋、大丸など)、後藤家が百貨店業に転じたという話は存じません。おそらく幕府御用商人という立場から考えて、明治維新と共に没落したのでしょう。と勝手に推測して締めくくった
が
後藤家のその後について書かれたコラムを見つけた。
日本史の森をゆく(中公新書)
これに所収された「江戸五品廻送令を再考する」(横山伊徳)で、幕末の後藤家について言及されている。
まずは「江戸五品廻送令」についてはこちら
前掲の横山コラムによると「幕府が江戸問屋を使って外国貿易統制を企てたものとして、幕府と江戸問屋との親和性を示していると考えられている。」(p.172)とする。
しかし横山氏によると、五品廻送令の前に、大老・井伊直弼がこれとは異なる輸出規制策を考えていたのだという。
突然の開国によって日本国内では急激な物不足とインフレが起こったのは有名な話だが、これに対して幕府は
1.生糸の一定量を京都に確保し、その他は絹織物も含め問屋を介さず自由売買とする
2.諸国から集めた物資はすべて江戸問屋に集積し、それから開港場に送る
3.江戸・大坂・京の商人・職人を監視し、物流を掌握する
という3つの案を考えた。
1案は勘定奉行の提案。勘定奉行は以前から生糸の物流を差配していた京の問屋に対して批判的で、この機会に生産地に決定権を写そうとする物だったようだ。
2案は江戸町奉行による物。これは江戸を差配する町奉行からすると、江戸から物が無くなると町人が騒動を起こすので、それを防止する観点からこういう案になったと考えられる。
3案が今回のネタ主である後藤家による物であった。後藤家は「幕府御用達」という家柄から来た自負から、自らが三都の商人の監視人となり、生糸や織物の物流を把握できると思っていたようだ。
横山氏コラムによると、
この後後藤家は自案を実現すべく、井伊直弼の彦根藩に根回しする。しかし後藤案が三都の商人に今ひとつ受けが悪いという空気を読むや、提案の対象を京の1カ所のみに絞り、今度は手代親子を工作員として京都町奉行に根回しした。
…と言う工作が功を奏したのか、井伊直弼は1,2案を却下し、3案を採用することにした。
横山氏によると、この頃(安政6年)西陣の機屋の休業が相次いだがこれは反井伊派の多い水戸藩に同調したからだという噂も、後藤家の案を採用するきっかけになったという。また本来この手の命令は京都所司代によって出される物だが、この時は井伊直弼の直書で命じられたという。
しかし、後藤案の遂行については京都町奉行から疑念が出されていたようだ。後藤案が内々に打診されたとき「(京の呉服屋には、徳川よりも古い)足利時代からの由緒を申し立てて後藤に随わない者もいるかも」と懸念の意が示されていた。
一方、取り締まられる側の一つであった越後屋三井家は「(幕初の由緒にすがり)町人の心を忘れ、武士のように心得、毛の生えぬ侍の真似をして暮らす」(『町人孝見録』)と後藤家のことを酷評していたという。
安政6年(1859年)12月28日、後藤案は実行に移された
…が、万延元年(1860年)正月には、その後藤家から「織職の救済対象者が多く、とても私の力の及ぶところではない」と幕府に3万両の借金の願いを出すというていたらくだった。
結局後藤家は案を実行することすらできず、万延元年3月3日、井伊大老暗殺。
後藤家が工作員として京都町奉行の元に出入りさせていた手代の子も心労が祟ったのか病死し、後藤案はうやむやの内に廃案になったらしい。
横山氏のコラムでは、この後の後藤家についての記述はないのだが、
・同業者(三井家)からも「(後藤家は)町人の心を忘れている」と酷評されていること
・実際、自分で提案した案をまともに実行できないほど実力がないことがばれてしまったこと
等から考えて、明治維新後は没落してしまったのではないかという推測はあながち外れではないと考えている。
個人的に目が止まったのは、井伊直弼が幕府役人の出した1案、2案ではなく御用商人・後藤家の案を採用し、自ら直書を出すほど推進していたという点。地元彦根藩への工作があったからというのもあるのだろうが、井伊直弼と言う人物個人に注目してみると
・当時隆盛していた煎茶ではなく、抹茶に傾倒していた(自分で茶道の教本まで書いていたレベル)
・部屋住の時代から国学に傾倒していた(ちなみにこの時の教師が後にブレーンとなる長野主膳というのは有名かと)
など、古典主義というか復古主義の傾向が見られる。実際大老になったときの政策も幕府創始期のやり方を真似てたしね(^^;)その結果暗殺されてしまうのだが…
そういう古典主義者の井伊直弼には、当時の商習慣にのって考えられた1案、2案よりも、これまた古くからの幕府の馴染みである後藤家が商人を取り仕切るというのが一番ツボにはまったのではないかと、私には思われる。
それにしても大老に取り入って生糸問屋・呉服屋の頂点に君臨しようとした後藤家。
幕末には先述の三井家の酷評で分かるように同業者からも浮き上がり、「幕府御用達」という立場から庶民からも遠い存在だったことは間違いないだろうが、幕府草創期の全盛時代を「開国インフレ」という非常事態を利用してまでも、何とかしてリバイバルさせたかったんでしょうねえ…(-_-;)
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