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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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幕末ヲタの人には、現在も京都市上京区の同志社大学の近所にある相国寺という寺が島津家にゆかりのある寺というのは常識の話かと思う。ちなみに同志社大学は旧薩摩藩邸跡に建っている(薩摩藩邸→山本覚馬邸→同志社、と言う経緯)。あ、この辺も常識かf(^_^;)
拙ブログでも、前の記事でこういう話を紹介させていただいた。

ところが今回別件の検索で、相国寺と島津家の縁は江戸時代初頭までにまでさかのぼるという話を見つけた。余り知られていないことかと思うのでご紹介。



相国寺の公式HPではこう紹介されている。
林光院は、足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、応永二十五年(1418)一月、二十五歳で早世され、その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京、紀貫之の屋敷の旧地に開創されました。
(中略)
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのとき、島津義弘が両陣営の中央を突破し伊賀に隠れました。かつてより親交の厚かった大阪の豪商田辺屋今井道與が潜伏先に急行し、困難極まる逃避行を実行して、堺港より乗船させ、海路護送して無事薩摩に帰国させます。
この抜群の功により、薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許されました(現在の田辺製薬の始まりです)。後に道與高齢となり、薩摩まで義弘に会いに行けなくなると、義弘は自ら僧形の像を造り道與に与えます。道與は住吉神社内に松齢院を建築し、その像を祀ります。義弘没後は位牌も添えられますが、松齢院が後に疲弊したとき、道與の嫡孫乾崖梵竺が林光院五世住職となり、義弘の像と位牌が林光院に移され、島津家により遷座供養が修行されました。以降、薩摩藩との関係ができ、現在、林光院墓所に薩摩藩士の墓があり管理しているのはこれによります。
http://www.shokoku-ji.jp/img/sanpai_img/s/rinkoin.html
文中に出てくる「義弘僧形の像」って言うのはこれのコピーなのかしら。
さて、堺で島津義弘をかくまった商人・田辺道与は義弘マニアなら知ってなければモグリの人物だと思うが、あの田辺製薬(現「田辺三菱製薬」)の元になっているという話は初耳。社史でも記載されてないようなんだが…去年博物館ができたそうなので、そこに行ったら知っている人がいるかも?!

さて上記に記載されたように、この林光院は「紀貫之邸だったころから伝領している鶯宿梅」という梅の名木を持っていることで知られており、あの島津家久も参勤交代の時に訪れて一首ひねっていた
 うぐいすの春待宿の梅がえを おくるこころは花にぞ有哉
 (http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_ume.html)
念のために書いておくが、この島津家久は中書家久じゃなくて、忠恒の方である。残念(ヲイ)

ところで、この林光院だが非公開寺院_| ̄|○
まあ、養源院といい、相国寺は非公開寺院がほとんどなんだが…
検索中にこんなツアーを見つけたのだが、開催年をよく見ると、去年であった⊂(。Д。⊂⌒`つ

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