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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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元ネタは拙別館ブログのこのネタ

もらったかるかんに付いていたしおりをネタに引用しております。
ちなみにかるかんの製造元は明石屋という所のようです。
なお、この明石屋さん、「かるかん元祖六代目」を称しておられるようです。

では、元祖が語る、真の?かるかんの歴史とは…

播州明石の人、八島六兵衛翁は江戸に有りて製菓を生業とし其の技術と工夫の堪能なるものであった。

何と、どうもかるかんは拙者の地元?とかなり遠い(^^;)関係があるようです…

偶々島津斉彬公在府中にこれを知り江戸の風月堂主人の推挙により公に従って鹿児島に来た。時に安政元年約百五十年前である。

いや!「従ってきた」んじゃなくて鹿児島藩士に拉致されたのが真実なのでは?!ヾ(--;)
…冗談はさておき、安政元年(1854年)発祥らしいということは、一地域を代表する銘菓、そして大名家御用達菓子としてはかなり歴史の浅い菓子のようです>かるかん
なお、鹿児島藩と江戸(東京)風月堂の関わりについては、桐野作人氏のこのブログ記事に詳しい。というか、このコラムぐらいしか言及してるところないのでは。更に更に、鹿児島には現在も風月堂が存在し、どうも江戸の風月堂からののれん分けらしい。
話が脱線した、では続き。

翁は明石屋と号し性剛直至誠職を奉じ藩公の知遇を得て薩摩の山芋の良質に着眼し之に薩摩の良米を案配して苦心研究遂に「かるかん」を創製したのである。

シラス台地の薩摩に良米なんかあるわk…うわなにを

以後明治初年翁は家号を木原政吉に譲り十九年十二月十五日東京に没したが八十三の寿命であった。木原氏は島津家御用菓子司として五十四歳で没しその後代々軽羹の特技を家伝し、六代目明石屋の今日まで其の独特の秘伝が残されて居る。軽羹は明石屋が元祖である。

ついでながら、明石屋の公式HPを見ましたが、現在の社長が木原さんかどうかは会社概要を見ても不明でした…

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全然気が付いてなかったのだが、先月辺りから女性宮家を作るかどうかと言うのが話題になってたようで。
 女性宮家に関するニュース(GoogleNews)

そういえば、今を去ること5年前?だったか。その時は女性に皇位継承を認めるかどうかと言うのがかなり大きな話題になったのだが、偶然にも?秋篠宮悠仁親王殿下が誕生して、うやむやになったのだった。

で。
実は日本の歴史に於いて、女帝よりも女性宮家の方がずっと例が少ないのである。
女性天皇は8例(重祚はカウントせず) これに対し 女性宮家は1例しかないのである。


今を去ること140年ほど前。
「桂宮」という宮家があった。実はこの宮家、そもそもは「八条宮家」という名前で、豊臣秀吉の猶子にも一時期なっていた智仁親王が立てた宮家であった。が、その後3回も改名する。こんな宮家はこの1家しかない(多分)。
そしてやたら目鱈継嗣不在による断絶が多い宮家でもあった。

「桂宮」になってから2代目の節仁親王(仁孝天皇の息子)も天保7年(1836年)、4歳で夭折し、また断絶してしまう。

年月は流れ、幕末風雲告げる1863年(文久2年)。
婚約者に死に別れ、長い独身生活を送っていた仁孝天皇皇女・淑子内親王が桂宮家を継ぐことになったのである。淑子内親王34歳。前回の桂宮家断絶から27年後(!)のことである。
淑子内親王は、その後明治維新の後も東京へは転居せず、生涯京都で暮らし、明治14年(1881年)死去。
ちなみに、生涯独身であった。そして桂宮家はまたまたまた継嗣不在で断絶。この後は復活することがなかった。


…この淑子内親王が日本史上、最初で最後のたった一人の女性宮家当主なんですな。
時代が違うとは言え、上記の経緯を見てると、女性宮家が天皇家を安泰にするとはあんまり思えないんですが…。

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BS-TBSで毎週月曜夜10:00から放送されている「The ナンバー2」ですが、
今日からしばらく幕末薩摩特集?の様です。
一般的にはかなりマイナー(失礼!)な人物も取り上げられるようです。
拙HPとは扱っている時代がかなりずれるのですが、ご興味のある方はどうぞ。

2/27:小松帯刀 大河「Atsuhime!」…違う(^^;)「篤姫」の情けない造形と違って少しはマシに紹介されるのか?
3/5:調所笑左衛門 “調所広郷”といった方が有名かな?以前同じ番組で取り上げた田沼意次と同じような演出がされるような気がする。
(3/12:長岡謙吉 坂本龍馬関連で取り上げられます。薩摩と関係なさそう。)
3/19:大久保利通
3/26:(未定)



関連ネタ?はこちら

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先日見た『ケロロ軍曹アンコール』での“闇鍋ごっこ”に出演していたナベベ闇鍋奉行様。
着用していた裃に付いていた家紋がしっかり丸十の島津家の物だった⊂(。Д。⊂⌒`つ
うーむ、何か意味があるのだろうか…。


上の話は小ネタ(^^;)

さて、時々BS-TBSで月曜夜10時に放送している「The ナンバー2」を見ている。
中味は考察をきっちりしている系の番組ではないのだがヾ(^^;) まあ民放の情報番組にそこまで期待するのは無理かと
一般的にはマイナーな人物もたまーに取り上げているのが評価できます。

先日2/13放送分は「豊臣秀吉のナンバー2 北政所おね」だったのだが、そのなかで気になるお話が紹介されていた。
秀吉が北政所によく手紙を書いていたのは有名な話だが、天正15年に島津氏を下した後に送った手紙にはこういう事が書いてあったらしい。(録画してないのでうろ覚えなのはご容赦下さい)

1.島津義久の15歳の娘が上洛する予定です
2.その他家臣からも7,8人ほどの人質が上洛します
3.義久の弟の義弘も15歳の息子を上洛させる予定です
4.義弘は他に8歳の息子も上洛させる予定です

番組によると、この手紙から北政所は諸大名の人質管理という重大な役目を負っていたことが分かると締めくくっていた。
なお、簡単に解説すると
1.の「義久の15歳の娘」とはご存じ島津亀寿のこと
2.には樺山忠助の息子・規久などがいたかと
3.は年齢にママがあるが島津久保のことだろう
4.は年齢差から見て義弘の四男・喜入萬千代丸だろうか

さて、私、実は寡聞にして上で紹介した秀吉の手紙、見たことがないのである(^^;)
「薩藩旧記雑録」には当然収録されてない。この本とか見たら載ってるかな。

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私用でネットにアクセスできず、出先の新聞で知りました。

 横田健一さん(よこた・けんいち=関西大学名誉教授・日本古代史)が6日、心不全で死去、95歳。キリスト教式の前夜祭は8日午後7時、葬儀は9日午前11時から京都市南区西九条池ノ内町60の公益社南ブライトホールで。喪主は長男明(あきら)さん。

 日本書紀の研究で知られ、著書に「白鳳天平の世界」「道鏡」などがある。


http://www.asahi.com/obituaries/update/0207/OSK201202070057.html

記事に依れば95歳と言うことで、天命を全うされたという所でしょうか。
ご冥福をお祈り致します。

それにしても、角田文衛氏といい、日本史の研究家は長命の人が多いイメージがあります(あくまでイメージですよ)。

でもなにより悲しかったのは横田氏ほどの研究家でも、記事の扱いは太平シローに負けてたことですが(T∀T)

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