拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
島津義虎は薩州島津家の六代当主。でも拙別館HPの関連では、島津義久の長女・御平の夫といったほうが通りがいいのかも(^^;)
ちなみに、拙別館の御平の項目を読んでもらうと分かるように、薩州家は義虎の息子・忠辰の代で滅亡してしまう。なので、薩州家の関連史料は残ってない
…
と思いきや!義虎に関しては意外にも残ってたりするんですな。
一度、『出水市史』を読む機会があったのだが、巻頭カラーページで義虎の肖像画(もちろん戦後になって顕彰の目的で新しく書いた物ではなくて、古い物だ)を見たときにはびっくり仰天した義久の肖像ですら残ってないのに(涙)
そして、地元には義虎が寄付したという絵も残っているのだという。しかも、それに絡んでいるのがあの近衛前久らしい。
詳しくはこの論文にて。
『鹿児島大学教育学部紀要 人文・社会科学編』「愛宕神社旧蔵 三十六歌仙絵扁額について」下原美保
ちなみに、歌仙絵本体の写真も載ってます(しかもカラー。)
ちなみに、拙別館の御平の項目を読んでもらうと分かるように、薩州家は義虎の息子・忠辰の代で滅亡してしまう。なので、薩州家の関連史料は残ってない
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と思いきや!義虎に関しては意外にも残ってたりするんですな。
一度、『出水市史』を読む機会があったのだが、巻頭カラーページで義虎の肖像画(もちろん戦後になって顕彰の目的で新しく書いた物ではなくて、古い物だ)を見たときにはびっくり仰天した
そして、地元には義虎が寄付したという絵も残っているのだという。しかも、それに絡んでいるのがあの近衛前久らしい。
詳しくはこの論文にて。
『鹿児島大学教育学部紀要 人文・社会科学編』「愛宕神社旧蔵 三十六歌仙絵扁額について」下原美保
ちなみに、歌仙絵本体の写真も載ってます(しかもカラー。)
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今更書くのも何ですが、この忙しい年の瀬になってからの、「北の将軍様」こと金正日の死の報にはビックリしましたねえ。
小泉元首相も証言してましたが、意外にも冗談をよく叩きしゃべりだったそうで(私もニュースで流れた画像で確認しました)
冗談が好きで、強権政治と言えば、拙ブログ的にはこの人を思い出します
小泉元首相も証言してましたが、意外にも冗談をよく叩きしゃべりだったそうで(私もニュースで流れた画像で確認しました)
冗談が好きで、強権政治と言えば、拙ブログ的にはこの人を思い出します
ネットで一時期よく見かけたのだが、要は表題のような話。
…いや、もっと脚色?されていて
「石田三成が薩摩の農民にいろいろ技術指導して、石田三成は農民達から感謝されていた」
というのもあったような。
…しかし、同時代史料はおろか、後世の説話などの類でもそういう物を見たことがないのだ、今のところ。
司馬遼太郎は、何を元にこういう話を考えたのだろうか…史料フェチだったそうだから、元ネタはあったと思うのだが。
それどころか、「石田三成は鹿児島の文化財破壊に噛んでるんですが?!」という史料を見付けてしまったりした。
※史料については『鹿児島県立短期大学研究年報』「島津家連歌・『島津家久公御連歌・斉宣公御詠歌』」を参照させて頂きました。ちなみにCINIIで無料で読めます(但し何故かページの並びが逆なので読みにくい)
おまけ
実は表題の司馬遼太郎のお話がどの本に出てくるのかも、ちょっと検索したが全く分かりませんでした。初出はどの本なのでしょうか。それともそもそもこういう話をほんとに書かれたのかな?情報お待ちしてます<(_ _)>
…いや、もっと脚色?されていて
「石田三成が薩摩の農民にいろいろ技術指導して、石田三成は農民達から感謝されていた」
というのもあったような。
…しかし、同時代史料はおろか、後世の説話などの類でもそういう物を見たことがないのだ、今のところ。
司馬遼太郎は、何を元にこういう話を考えたのだろうか…史料フェチだったそうだから、元ネタはあったと思うのだが。
それどころか、「石田三成は鹿児島の文化財破壊に噛んでるんですが?!」という史料を見付けてしまったりした。
高野山え石田治部少輔三成より寄付金に今有之候大蔵経は往古朝鮮王より琉球王え差贈、琉球王から 忠昌公え進上いたし自其御代々福昌寺之輪蔵え為被納置珎敷古本ニ御座候処、天正廿年毀破勘落之砌石田手先之者共奪取右次第ニ候成行彼此旧記等ニ散見いたし考合たゝ可来歴明白ニ候間大略左に書記置
※史料については『鹿児島県立短期大学研究年報』「島津家連歌・『島津家久公御連歌・斉宣公御詠歌』」を参照させて頂きました。ちなみにCINIIで無料で読めます(但し何故かページの並びが逆なので読みにくい)
おまけ
実は表題の司馬遼太郎のお話がどの本に出てくるのかも、ちょっと検索したが全く分かりませんでした。初出はどの本なのでしょうか。それともそもそもこういう話をほんとに書かれたのかな?情報お待ちしてます<(_ _)>
…といえば、有名なのは鶴嶺神社だが、他にもあるらしい。
竪神社
確かに亀寿は「御上様」と呼ばれていた。
しかし、実は「おかみさま」という神様はいるのである。
つまり「おかみさま」とは神奈川県の大山阿夫利神社などに祭られている「たかおかみのかみ」と同一。
※「おかみ」の字は雨かんむりの下に口を3つつけて更にその下に「龍」をかき、雨乞いの神とされます。
この神社自体、社伝がどうも怪しくなっているように思われるので何とも言えないが、本来の竪神社の「於加美姫命」は、このあめふらしの神様で、単に「於加美命」だったんじゃないだろうか。そこになんで「姫」が付いてきたかは
…
続くかも_(。_゜)/
竪神社
従来霧島神宮の末社である。明治四年四月管轄庁より持松の村社と定めら れた。創建は詳らかでないが、天文二十一年九月二十七日当時の地頭某により寄進造営された棟札があったといい、また一説には、天正四年八月彼岸、島津義久 公、義弘公が、三原遠江殿を御使として、当神社に豊後の大友氏退治の御立願をされ、願成就し勝利を得られたため一社を造立し寄進したともいう。
尚、相殿神の於加美姫命は島津義久公の息女という(昭和十年発行の神社誌)。
しかし、実は「おかみさま」という神様はいるのである。
この「おかみ」を「雨や雪を降らせる神様ではないか?」と考察したのが、確か横田健一氏の「中臣氏と卜部」だったっけな(うろ覚え)わが岡の おかみに言ひて ふらしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
(「万葉集」巻2-104 大原大刀自(藤原五百重娘とされる))
つまり「おかみさま」とは神奈川県の大山阿夫利神社などに祭られている「たかおかみのかみ」と同一。
※「おかみ」の字は雨かんむりの下に口を3つつけて更にその下に「龍」をかき、雨乞いの神とされます。
この神社自体、社伝がどうも怪しくなっているように思われるので何とも言えないが、本来の竪神社の「於加美姫命」は、このあめふらしの神様で、単に「於加美命」だったんじゃないだろうか。そこになんで「姫」が付いてきたかは
…
続くかも_(。_゜)/

