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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
病院で今月号の『サライ』を読んでいて、おもしろい記事を見つけたのだが
紅葉で有名すぎる、京都は嵐山の常寂光寺

ここの本堂を建てた(と言うか持ってきた)のが、あの小早川秀秋なのだという。
更に、この本堂、伏見桃山城の遺構という寺伝があるみたい。

TV番組や一般向けの歴史記事などでは余り書かれてないことなので、ここで備忘録代わりに書いてみた。
伏見桃山城の遺構と言うことは、慶長五年ーあの関ヶ原の合戦以降の移築という事になるのかな。
秀秋の心中には関ヶ原で戦死した者の供養の意味もあったのだろうか。

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お間違い
>秀秋の心中には関ヶ原で戦死した者の供養の意味もあったのだろうか。
失礼ながら、当時の秀秋の年齢は15歳です。日蓮宗日求上人の弟子でもありました。
永井芳順 URL 2013/10/31(Thu)04:37:38 編集
はじめまして
はじめまして。
大変失礼とは思いましたが、お書きになられたURLではfacebookのトップページにしか飛ばなかったので、名前で検索の方をかけさせて頂きました。小早川秀秋をご専門に研究されていらっしゃると言うことで、わざわざのお越し恐れ入ります。

当該の件についても永井様のお書きになられた本を入手すればよいのですが、非売品で入手困難な物もあるようなので、ここで少し質問させて頂いて宜しいでしょうか。
>失礼ながら、当時の秀秋の年齢は15歳です
つまり、関ヶ原の合戦の起きた当時の秀秋の年齢は19歳ですから、伏見城→常寂光寺の移築はそれをさかのぼる4年前(慶長2年)である、と言う事と理解して宜しいでしょうか。

今再度常寂光寺の公式HPを確認すると、本堂についてはこう説明されています
「本堂は、第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたもの。」
公式HPでは明記されていないですが、常寂光寺は日蓮宗寺院だったんですね。寺名がそれっぽくないので全く存じませんでした。

またご指摘などありましたらよろしくお願い申し上げます。
ばんない 2013/11/02(Sat)01:57:41 編集
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