忍者ブログ
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

島津家の財政問題や、政治主導権を巡る争いと捉えられている「近思録崩れ(秩父崩れ)」。
私も拙ブログで何回か取り上げたことがある。
私は上記の理由の他に、島津重豪の奥向きの問題が影を落としていると考えている。
簡単に説明すると
 出身身分が低いが、将軍御台所を生んだお登勢の方 vs 出身身分が高くて島津家当主を生んだお千万の方
この対立が江戸方+重豪vs国元+斉宣という流れになり、ついに御家騒動となって爆発したという説である。

実はこのようなケースが、島津家で過去にあったのである。



拍手[0回]

PR
私は、島津家久(中務大輔)母・肥知岡(肘岡)氏女(別名「橋姫」「少納言」)の墓所について、以前はこう書いていたりした。
<墓所>
・破鞋庵跡(鹿児島県伊集院町)
※没年は未詳だが、鹿児島県伊集院町の破鞋庵跡に「貴久後室花室清忻大姉の墓」なる物が残っており、これが肥知岡氏女の墓と考えられる。
・天昌寺跡(宮崎県佐土原町)
※こちらの方の戒名は「縁室如従大姉」となっている。後考を期したい。
だが、
・佐土原天昌寺(跡)は島津家久の菩提寺である
・現在残存している永吉島津家(島津家久の後裔家)関係の史料に出てくる肥知岡氏女の戒名はすべて「縁室如従大姉」
である。
つまり、肥知岡氏女の戒名は「縁室如従大姉」で確定と考えて良いのではないだろうか。

そこで問題となるのが、鹿児島県日置市伊集院(旧伊集院町)の破鞋庵跡にある「島津貴久の妻の墓」なるもの。上記で書いたとおり、戒名が全く異なるのである。
私はこれについて今のところ島津貴久の先妻・肝付兼興女の墓なのではないか?と考えている。
貴久の後妻(義久・義弘・歳久兄弟の母)・入来院重聡女については史料や多数の墓が存在し、戒名は「雪窓妙安大姉」と一致している。なので、入来院重聡女の可能性はまず無いだろう。
そしたら、貴久の妻で残ってるのは最初の妻である肝付兼興女しか残っていない…と言う単純消去法(^^;)



これは、ある方からの指摘により再考した物です。御教示ありがとうございました。
あと某町公式HPに「日置市伊集院(旧伊集院町)の破鞋庵跡に肥知岡氏女の墓がある」と紹介しているところがあるようなんですが、まさかと思いますが拙HPを参照された物でしょうか(汗)もしそうであればこっそり修正して下さるとよろしいかとヾ(--;)

拍手[2回]

桐野氏ブログのこの記事を読んで、ずっと気になっていた。

今日、何を思ったのか「島津義久 弥三郎」でgoogle検索してしまった(爆)

そしたら、意外な人がヒットした。
頴娃久音(ちなみに「えい ひさぶえ」と読むそうな 根拠史料失念(^^;))
幼名「弥三郎」らしい。

ただ、久音は1582年生まれだからなあ…天正2年(1574年)時点では影も形もないしヾ(--;)
お~い弥三郎や~~~~~~~~~~~い

拍手[0回]

去年紹介させて頂いた「義久君上京日記(仮)」こと「天正拾八年自三月至十二月御日記」(「薩藩旧記雑録 後編」2-715『鹿児島県史料 旧記雑録後編2』所収)についてですが
何と先行研究がありました。タイトルはこれです。
「『薩藩旧記雑録』の「譜」とその周辺‐島津義久・天正年中日々記・古今伝授‐」(『東京大学日本史学研究室紀要別冊 中世政治社会論叢』所収)

拙ブログとの関係でこの論文のポイントは
・「義久君上京日記(仮)」の著者を八木正信(嘉竺)と推測していること(p.327)
・日記の記述内容に政治的な話が乏しいのは著者(八木正信)の立場による物ではないか(p.328~329)
以上です
八木正信については以前拙ブログで紹介したことがあります こちら

ほか、「旧記雑録後編」に所収されている島津義久の記録に関して、後世の歴史認識による取捨選択があったのではないかなど興味深い指摘がなされています。

なお、『東京大学日本史学研究室紀要別冊 中世政治社会論叢』ですが、国立国会図書館には所蔵があるようです。他は都道府県立図書館クラスや大学図書館でも所蔵がないようで入手に不便がありますが、国立国会図書館は遠隔コピーサービスが使えます(料金高いですけどね!ヾ(--;))


末尾ながら、この論文を御教示+ご提供下さいました東大史料編纂所・佐藤雄基氏にはこの場を借りて厚く御礼申し上げます。

拍手[1回]

偶然こんな記事を見つけたのであった
西郷隆盛の曾孫 「まだ『島津さん』とは呼べません」〈週刊朝日〉
dot. 8月25日(日)11時43分配信
 江戸幕府を倒幕させ、“近代日本建国”の立役者の一人となった西郷隆盛。その曾孫である陶芸家の西郷隆文氏は、隆盛時代からお世話になっている島津本家には、絶大な信用を置いているという。

*  *  *
 流罪で奄美大島にいた西郷隆盛と、妻・愛加那(あいかな)との間にできた菊次郎が、私の祖父になります。父は京大で航空機の研究をしていたので、小さいころは京都でした。中学3年のとき、鹿児島に引っ越し、大学卒業まで住んでいました。鹿児島にいても、隆盛のひ孫だということは意識しませんでしたね。高校生くらいのときは、あえて考えないようにしていたのかな。

 意識したのは20歳になる直前のこと。パチンコ屋でチンピラとケンカして殴られ、ひどい顔をして帰ったんです。そうしたらおふくろにこう言われました。

「二十歳(はたち)をすぎて悪さをすると新聞に名前が載るよ」

 西郷という名前を継いで、これはまずいなと。それから悪いことはしていません。

 大学卒業後は東京のアパレルメーカーに就職しました。25歳で帰郷し、陶芸家になるべく地元の窯元で修業をしました。30歳になり、独立のため窯を構える場所を探していたときのことです。おふくろの母であるばあ様がこう言いました。

「日置へ行たみゃんせ(行ってみなさい)。墓守どんの小屋があっはずじゃ」

 日置島津家の菩提(ぼだい)寺である鹿児島県日置市の大乗寺跡のことでした。行くと確かに古い小屋がある。ここに私の仕事場である「日置南洲窯」を開きました。

 おふくろは日置島津家から西郷家へ嫁に来たんです。関ケ原の合戦で有名な「敵中突破」で帰還した、義弘公の弟・歳久公を祖とする家系です。先代の16代当主がおふくろの弟です。

 島津本家の現当主は、32代の修久(のぶひさ)先生です。たまにお会いしますが、語りや立ち居振る舞い、すべてが殿様にしか見えない。「さん」付けでは私はとても呼べず、修久先生のほか、修久様か修久公と呼んでいます。もう普通の敬意を通り越している。「腹を切れ」と言われたら切るかもしれません。それくらい信頼しています。

 宗主であることと、隆盛時代からお世話になっているというのもある。薩摩気質なんでしょうね。一度信用した上の人を絶対に裏切らないし、その人の言うことしか聞かない。そして、上の人は出世すると下を引っぱり上げる。これが「薩摩の芋づる」です。

 隆盛が言う「敬天愛人」の精神は菊次郎にも引き継がれていました。台湾で都守を務めたとき、“西郷堤防”と名づけられた堤を造りました。洪水に悩んでいた人々に感謝され、現地に菊次郎の徳政をたたえる石碑があります。

 もうひとつ、父が話してくれた隆盛の言葉があります。

「迷ったときは、損するか得するかではなく、善いか悪いかで決めろ。そうすれば、おのずと答えは出る」

 これだけは私も守っています。

※週刊朝日  2013年8月30日号

(下線はばんないによる補足)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130825-00000002-sasahi-soci
うへあ
拙ブログ関連ネタ こちら

あと隆文氏が京都出身とはしらんかった 実は島津本宗家先代当主(島津忠秀)も京大出身だし、なにげに京都と縁のある近代島津家。

おまけ
実はこの記事「半グレ集団「怒羅権」組織名に日本への怒りや同胞団結込める」の関連記事だった⊂(。Д。⊂⌒`つ マフィアの関連記事になんでこれが

拍手[0回]

カレンダー
09 2025/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新記事
(02/24)
(02/02)
(01/27)
(01/26)
(01/25)
最新コメント
[08/22 พวงหรีด]
[08/20 wine]
[08/19 ขาย ไวน์]
[08/15 The flag shop uae]
[08/11 uniform store]
最新トラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN:
ばんない
性別:
非公開
自己紹介:
初めての方はこちらの説明をお読み下さい。リンク・引用の注意もあります。

プロフ詳細はこの辺とかこの辺とか
カウンター
バーコード
アクセス解析
P R
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]