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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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島津家の財政問題や、政治主導権を巡る争いと捉えられている「近思録崩れ(秩父崩れ)」。
私も拙ブログで何回か取り上げたことがある。
私は上記の理由の他に、島津重豪の奥向きの問題が影を落としていると考えている。
簡単に説明すると
 出身身分が低いが、将軍御台所を生んだお登勢の方 vs 出身身分が高くて島津家当主を生んだお千万の方
この対立が江戸方+重豪vs国元+斉宣という流れになり、ついに御家騒動となって爆発したという説である。

実はこのようなケースが、島津家で過去にあったのである。



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島津重豪より5代前の島津綱貴の時。
五摂家の一つ・近衞家と島津家の間に縁談が起こった。それまで藩主の子息のほとんどが家臣に嫁いでいた島津家としては、かなり破格の縁談だったと思われる。近衞家の若殿・家久(偶然だが島津家の某当主と同じ名前である (^^;))の婚約者となったのは、綱貴の娘の一人・亀姫だった。

さて、綱貴はまだ若殿だったときに鷹司(松平)氏の娘と結婚したが、すぐに早世してしまい、その後、上杉綱憲の養女(実は吉良上野介の娘)と再婚したが、5年後に離婚した。
ところが、島津家の家系譜「御家譜」等では、奇妙なことを伝えている。上杉氏養女(鶴姫)を離婚した後、側室の一人・江田氏(於豊の方)を対外的に正室と言うことにした、と言うのである。この於豊の方こそ、先述の亀姫の生母であった。
さらに、この時綱貴の跡継ぎになっていた吉貴の生母は於豊の方ではなく、別の側室だったのである。

このまま行けば、同じ側室なのに、跡継ぎの母ではない人物が上に置かれ、跡継ぎの母は下座に置かれるという、「近思録崩れ」の背景となった状況と同じ事が発生する可能性があった。
しかし、亀姫は近衞家に嫁いだその年に早世、「近思録崩れ」と同じ状況になることは避けられたのではないかと思われる。
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