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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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のっけからタイトルと関係ない(しかし実は拙ブログには関係有るかもと言う)ネタ
帝塚山大学が今年3月の入試で「大隈重信」をうっかり「大重信」と出題してしまったでござる
ネットで調べるとこれの逆で「大隅国」を「大隈国」とパンチミスしているところ多いですよね(T∀T)
島津ネタやってると、これ見つけてへこむ私。



では本題。
石原莞爾を「天才」という人は多い。実際、満州事変を起こしたとき彼にあやかろうとして名前を付けた人は多かったようですし(指揮者・小澤征爾が石原莞爾から一字取られて名付けられたのは有名ですね)。

しかし、そんな彼に私が持った疑問。
天才なのに何で新興宗教にはまったのか?
天才なのに何で辻政信のような日本史上10本の指にのぼる人でなしを子分にしてしまった?のか。

特に、生前の石原莞爾を知る人の大半が彼を
「人を見た目で区別しなかった」
「下の者に優しく、上の者には厳しかった」
と評しています。これだけ見たらすごい人格者で「新興宗教にはまる」とか「辻みたいな人間のくずに引っかかる」なんて認めたくない事実ですが…事実ですしね(^^;)

「新興宗教にはまる」のは、彼の青年時の行動や、その時の日本の情勢を考えると何となく分かるような気がします。莞爾が幼年学校や士官学校の生徒だった頃に、軍事学をほとんど勉強してなかった(※でも軍事雑誌はよく読んでいて投稿マニアだったようですが)上、哲学書とか宗教書ばっかり読んでいたという話は有名です。また、大正時代は一般的に「大正デモクラシー」に代表されるような明るい時代と思っている人が多いですが、その一方でオカルトチックな物が流行りだした時代でした。「千里眼事件」があったのもこの頃です。精神的な物に関心があり、また前述したように自分の人生に重大な問題を抱えていた莞爾ですから、新興宗教にはまる余地は十分あったと言えましょう。それが何で神道とか他の仏教宗派とかキリスト教じゃなかったかというと、その理由は私も全く分かりませんが。同時期に宮沢賢治も同じ宗派(国柱会)にはまったのは大変有名な話ですが、この頃の流行に毒されてしまったのかも知れません。

「辻政信に引っかかった」というのは私には何とも理解できません。
なお、ネットで「辻政信」で検索して下さればすぐに分かると思いますが、この人というのは本当に弁護のしようがないぐらいトンデモナイ人で、自分の立案した作戦が失敗すると、現場の士官に自殺を強要してごまかしたりとか、日本の行事にあわせて作戦のスケジュールを立てる(当然実情を反映してない作戦なので失敗する)、大勢の兵士が戦死しても上におべんちゃらを使って責任を取らない、戦後は捕縛されないよう変装して逃げ回り、GHQに捕まる可能性が無くなった頃にちゃっかり出てきて、その後国会議員にまでなってしまう…見ての通りの「世の中に神も仏もないのかよ」を実現化してしまった人物です。

ところで、

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関連ネタ   

石原莞爾の墓の世話をしている人がドイツのarteというテレビ局が石原莞爾ドキュメンタリー制作に協力されたという話が公式HPにも掲載されていました。公式HP管理人の方はかなり内容に期待されておられた様子なのですが、下記のブログによると、やっぱりというか典型的な悪人論だったようですね。
http://swissnews.exblog.jp/17206258/
と言うかこのドイツのTV局、最初から石原莞爾コレクションの映像だけが目当てで、騙されたんじゃないかなとも思われますが。

<追記>
石原莞爾のドキュメンタリー問題については、以下の掲示板でも触れられていました。
独仏共同の公共放送アルテで放映された石原将軍の映像は、当初の予想と違って「戦争を引き起こした石原莞爾」というタイトルで、真逆の姿で放映されたとのことです。取材のために都合3回にわたって来日した仏人ビロリ氏一行(最後は英人、ドイツ人のカメラマンも同行)の意図とは違い、局の判断で変更されたとのことですが、企画書に石原将軍の最高の写真を使ってくれたものの、制作意図(人物像)は私が何度聞いても当初からハッキリしませんでした。

放映後のDVDを送ってくれるよう仏独同時通訳をしてくれたパリ在住の日本女性にお願いしても、今日までそれが実行された形跡はありません。放映後は、私との通信を意図的に避けている感じも伺えます。日本でも未だ石原将軍は「悪者扱い」なので、ムベなるかなですが、今までの彼らの労力は一体何だったのか、ビロリ氏の本音も聞いてみたいものです。
http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/index2.html
うーむ、私の推測が当たっていたようです。

おまけ
この人の見解が、今のところの私の石原莞爾イメージに近いかなあ…
ていうか、現代人が石原莞爾見たら誰でもこう思うだろう、最初っから莞爾を先入観ありありで見ているような人以外は、ね。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/yatsu8hd/forum/40.html

さらなるおまけ

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前の話  

結局本は読めない代わりにひがなよがな「石原莞爾」でネット検索…(-_-;)これって元も子もないのでわ

面白かったのはこの辺りかな
礫川全治氏のブログ(他にも言及した項目がある)
この方、絶版になった戦中戦直後の本から探ってられるのですな。だからその場にいるかのような臨場感がある。
石原莞爾が先導し、東条英機ににらまれ、そして戦後GHQにより突如解散させられた「東亜連盟」、この会報をあの周恩来が読んでいた※注記に引用元を書きますとか…(○。○)
※注記
「『永久平和への道』いま、なぜ石原莞爾か」という書籍が一九八八年に出版された。その中に平澤光人氏が「東亜連盟の理念と実践」と題して投稿している。
「日中国交回復より三年ほど前のこと、当時田中角栄首相の相談相手で(中略)自民党代議士木村武雄氏が訪中し周恩来首相と面談した時、周総理は開口一番『今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか』と聞いた。」
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/5013/140_3.html
私も含めて戦後世代の人間は「満州事変をやっちまった人」という評価が一般的で、それのさらに極端なのが同郷のあの佐高信の評伝なんだろうが…あの本評判悪いみたいですね(をーい)

莞爾の弟・六郎氏はこうも言っていたそうだ。
「兄についていろんな本が出ていますが、私は兄の残した文しか読みません、そこに言いたかったことはすべてあります」
と。
そうなんだ、そうなんだろう…けど…あの膨大な量どうしろと…(-_-;)

全然石原莞爾についてまともな史料も本も読めないまま、考察を続きに(ヲイ)。

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前の話はこちら



あ”~~~~~~~~~~~気になる
何とか前知識無しで読めるような本も数冊見つけたけど、今入手すると年度末に響くヾ(--;)がまんがまん

ネットでいろいろ更に調べてみた
・カメラ好き。実は日本に一番最初にライカを持ってきたのが彼らしい。
・ドイツ駐在中、同僚である武藤章が法華経に興味を持ったと知るや、日本にいる嫁に「武藤の妻を洗脳しろに近づいて法華経の教えを教えるように」と連絡した…嫌すぎるこんな奴と仲良くしたくないヾ(--;)
・そのドイツ駐在中に関東大震災。他の同僚は妻子から手紙が来るのに、莞爾には来なかった。泣くほどに心配したらしい。なお莞爾が毎日のように手紙を送っていたのに対し妻は筆無精だったらしく(と言うか莞爾が筆まめすぎ?)、返信が少ない妻に切れて「日本に帰って何かあっても知らないから!」とまですねた。あんたは島津義弘か。
・死んだときにはバラックのような小屋に住んでいた(ネット上にも写真有り)間取りは六畳と4.5畳。昭和50年代に老朽化のために撤去されるまで残っていた。
・文藝春秋2013年1月号に掲載された生前を知っている人の回想によると「将軍(※信望者にはこう呼ばれていた)はとってもお茶目でシャイ」だったとのこと。あの東条英機を捕まえて「陸大留年したクセにバ~カバ~カ」と言っていた男がシャイとはとても思わんがヾ(--;)お茶目なのは残っている写真の顔見ても分かる。子供顔だもんね、石原。
・その頭はとても大きく、子供の頃に付いたあだ名が「かぼちゃ」(…)
・家族に関しては不遇(前回も少し触れたが)。兄2人は莞爾が生まれたときには既に夭折していた。妹が2人いたがこれまた夭折。弟2人は成人するが、一人(二郎)は海軍士官になった後、勤務中の飛行機事故で早世。一番長生きしたのが末弟・六郎。莞爾死後も莞爾が残した農園を守った。
・前回気になっていた石原莞爾の子供の件。ライバル・東条英機のwikipediaなどはプライバシー侵害なほどに書いてあるが、莞爾の項目は全く書いてない。ネットでは「TBSの元社長が子孫」と言う話もあったが…やはりそれは眉唾だったようだ。http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/10779/1/2009202098.pdf  http://www.geocities.jp/heiwa_ishiwara_kanji/shiryo8.htm どこかで見かけたが、莞爾は士官学校時代に落馬し、その時に「あそこ」を負傷し、満州時代には歩行に困難を来すほどだったという。なお、前述した弟・六郎氏ももしかしたら終生独身だったかと推測(上のリンク2番目)
・莞爾の最初の名前は「権太郎」…ごんたろう…ごんた…げほげほ(^^;)

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急に気になり出した(^^;)

きっかけは何だったろ …2,3日前のことだが全く思い出せない(をい)
NHKの「BS歴史館」で2.26事件をやってたのがきっかけかな。

ネットでさっと見た感じだが、評価は完全に真っ二つ。
私が今彼に持っている感想は「デムパ」である…不謹慎で御免ね。
信者の人も多いので実はこんな事書くのはちょっと怖い

ともかくどっからとっかかっていいのかも分からない。膨大な伝記があるようだ。
昭和初期が主な活躍時期なので、私が主に研究対象にしてきた古代史、及び戦国~江戸時代初期史と比べて格段に史料も多すぎる。史料から人物像をつかむのは…諦めました(^^;)歴史研究者としてあるまじき事、ごめんなさい

取りあえずこういう人は…ウィキペディア見るに限る(ヲイ)

これ自体が膨大じゃん_| ̄|○
簡単にまとめ 時系列は多少変えてます
・悪ガキだったのに、姉に連れられていった尋常小学校でそこの校長に気に入られていきなり2年生編入
・その後、陸軍幼年学校に入学 中学校をそのまま進学じゃなかったのは多分家が貧乏だったからだろう…(元庄内藩士の警察官が父、軍の学校は学費がいらない上、お小遣いも国から出る)
・父との仲は悪かったらしい 学校からのお小遣いをネコババされていたからとも。
・その陸軍幼年学校の写生の授業で自分のあそこのスケッチを提出して、退学処分直前まで行く が 士官出身の教官に「おおらかでいいんじゃな~い」と言われて無罪放免。スケッチ担当の教官(文官出身)は絶望の余り、辞表を出したという…
・だがともかく成績がダントツに良かったので(3年間ずっと1位だった)士官学校へも順調に進学。上記のようなど派手な逸話は残してないようだが、成績はずっと1位だったのに卒業するときは何故か6位。教官にケンカ売ってたので素行でかなり減点されたようだ…
・ともかく幼年学校でも士官学校でも普通の勉強を全くしなかった 読むのは宗教書とか哲学書とか…でも試験の成績はいつもダントツのトップ。西園寺公望や大隈重信、乃木希典などにお話を聞きにいったこともあったとか…ああ、この時の薫陶を忘れてなければ後にあんなことには…?
・その成績に目を付けられて陸軍大学校に行けと上官に命令される。渋々試験を受ける。例の如く試験勉強しなかったのに合格。
・陸軍大学校でも勉強してないのに成績は常にトップクラスで、卒業時の成績は2位。実は1位だったのだが、1位の学生は天皇の前で答辞をする例となっており、変人の石原は出せないと2位になった…らしい。
・ドイツに留学させられる 余りにも危険人物(そんなヤツおいとくなよ…)だったため、実は常に監視されていた。その監視員の一人が大山柏(大山巌の次男、公爵)
・大正時代もまだ跋扈していた薩長閥追撃の一員となった
・この当時隆盛を極めていた法華宗の熱烈な信者、特に右翼系の国柱会に入信。この頃からデムパに拍車がかかったように見える…
・国柱会の教祖に「軍人はやめたい、人殺しをするから」と愚痴をこぼしていたらしい。でも結局やめなかったが。
・「最終戦争論」を書き上げる。アメリカと将来全面戦争に突入するなど、その中の予言のかなりは的中してしまった…と言うか、そうなる風に持って行った一因が石原だと思うんですが…
・2.26事件では役職上取り締まり側に立つが、立場としては中立。
・この時に、昭和天皇に「満州事変の時にはとんでもない奴だったのに、今見る態度は同じ人物とは思えない」(意訳)という感想を持たれたのは有名(「昭和天皇独白録」)
・懸案となっていた満州問題の「解決」のために参謀として派遣。「柳条湖事件」を引き起こし、「最終戦争論」に書いていた自分の理想の実現を図る…
・しかし、そのために周囲から浮き上がって、自分が作り上げた「満州国」から“追放”される羽目に。その日、満州の国民は今後の展開の悪化を見抜いて嘆き悲しんだという…
・この時に秩父宮の前で愚痴をこぼして泣いてしまった…らしい。(元ネタは『秩父宮と昭和天皇』(保阪正康著)のよう http://web.kyoto-inet.or.jp/people/yatsu8hd/forum/246.html)
・この件で、東条英機との関係が悪化。石原は東条のことを「単なる上等兵レベルのクセに」などとボロクソにけなし、以後はホントのホントに「危険人物」として扱われるように
・その後、左遷されて舞鶴要塞、更に第十六師団長(京都)に。ここで軍歴は最後。予備役にされて引退させられる。最後の階級は中将。
・この時、通常は京都市のさよならパーティーが行われるのだが、石原が危険人物なのは周知であり、パーティーはお流れ。多分寂しい引退だったんだろうな。
・その後、立命館総長・中川小十郎の誘いで立命館大学の研究所長となる。お互い軍にマークされるのを覚悟の上だったようだ。ちなみにこの中川さんは西園寺公望の側近、西園寺と言えば軍の増長を最も憎んでいた人。因果だ。
・講義は常に教室が満杯になるほど盛況だったとのこと。京大の学生も聴講していたとか。
・しかし、憲兵のマークが余りに酷く(憲兵隊は過去の経緯から東条英機の影響下にあった)、1年で自らやめることとなる
・以後は郷里で開拓生活に。自分の作ろうとした満州国の民衆と同じ立場になったわけですな。
・でも東条英機暗殺未遂事件には関わっていたらしい(○。○)
・戦後、あれだけのことをしてながら戦犯指定から外れる。この頃既に重病になっていたことと東条英機と仲が悪かったのが理由では無かろうか。GHQ側の史料が見つかってないみたいなので、正確な理由は何とも…。
・でも、東京裁判の証人としては呼ばれ、盟友・板垣征志郎の擁護をした。この時に板垣を救うために偽証もしたようだ。「どうして(今回の問題の)根源の私を裁判にかけない?」…と言ったというのは、後から小説で作られた伝説らしい…ちょっと残念。
・この時臨時裁判所(石原は重病のため、東京まで出ることが不可能になっていた)まで石原の乗ったリヤカーを引いていったのが朝鮮人で石原シンパだった曹何とかさん(失念)と大山倍達。曹氏はのちに民団の初代代表となる。
・昭和24年死去 享年60歳。周囲の人によると晩年は菩薩のようであったとも。奇しくも亡くなったのは8月15日。
・結婚に一度失敗。1年持たなかった模様。
・子供は未詳(ネットで見た限りじゃ分からなかった)、TBSの元社長である石原俊爾氏は莞爾の孫とする情報もあるが…

まとめだけでもこんなになった大変な人
疲れた…

では個人的ないろいろ

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