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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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急に気になり出した(^^;)

きっかけは何だったろ …2,3日前のことだが全く思い出せない(をい)
NHKの「BS歴史館」で2.26事件をやってたのがきっかけかな。

ネットでさっと見た感じだが、評価は完全に真っ二つ。
私が今彼に持っている感想は「デムパ」である…不謹慎で御免ね。
信者の人も多いので実はこんな事書くのはちょっと怖い

ともかくどっからとっかかっていいのかも分からない。膨大な伝記があるようだ。
昭和初期が主な活躍時期なので、私が主に研究対象にしてきた古代史、及び戦国~江戸時代初期史と比べて格段に史料も多すぎる。史料から人物像をつかむのは…諦めました(^^;)歴史研究者としてあるまじき事、ごめんなさい

取りあえずこういう人は…ウィキペディア見るに限る(ヲイ)

これ自体が膨大じゃん_| ̄|○
簡単にまとめ 時系列は多少変えてます
・悪ガキだったのに、姉に連れられていった尋常小学校でそこの校長に気に入られていきなり2年生編入
・その後、陸軍幼年学校に入学 中学校をそのまま進学じゃなかったのは多分家が貧乏だったからだろう…(元庄内藩士の警察官が父、軍の学校は学費がいらない上、お小遣いも国から出る)
・父との仲は悪かったらしい 学校からのお小遣いをネコババされていたからとも。
・その陸軍幼年学校の写生の授業で自分のあそこのスケッチを提出して、退学処分直前まで行く が 士官出身の教官に「おおらかでいいんじゃな~い」と言われて無罪放免。スケッチ担当の教官(文官出身)は絶望の余り、辞表を出したという…
・だがともかく成績がダントツに良かったので(3年間ずっと1位だった)士官学校へも順調に進学。上記のようなど派手な逸話は残してないようだが、成績はずっと1位だったのに卒業するときは何故か6位。教官にケンカ売ってたので素行でかなり減点されたようだ…
・ともかく幼年学校でも士官学校でも普通の勉強を全くしなかった 読むのは宗教書とか哲学書とか…でも試験の成績はいつもダントツのトップ。西園寺公望や大隈重信、乃木希典などにお話を聞きにいったこともあったとか…ああ、この時の薫陶を忘れてなければ後にあんなことには…?
・その成績に目を付けられて陸軍大学校に行けと上官に命令される。渋々試験を受ける。例の如く試験勉強しなかったのに合格。
・陸軍大学校でも勉強してないのに成績は常にトップクラスで、卒業時の成績は2位。実は1位だったのだが、1位の学生は天皇の前で答辞をする例となっており、変人の石原は出せないと2位になった…らしい。
・ドイツに留学させられる 余りにも危険人物(そんなヤツおいとくなよ…)だったため、実は常に監視されていた。その監視員の一人が大山柏(大山巌の次男、公爵)
・大正時代もまだ跋扈していた薩長閥追撃の一員となった
・この当時隆盛を極めていた法華宗の熱烈な信者、特に右翼系の国柱会に入信。この頃からデムパに拍車がかかったように見える…
・国柱会の教祖に「軍人はやめたい、人殺しをするから」と愚痴をこぼしていたらしい。でも結局やめなかったが。
・「最終戦争論」を書き上げる。アメリカと将来全面戦争に突入するなど、その中の予言のかなりは的中してしまった…と言うか、そうなる風に持って行った一因が石原だと思うんですが…
・2.26事件では役職上取り締まり側に立つが、立場としては中立。
・この時に、昭和天皇に「満州事変の時にはとんでもない奴だったのに、今見る態度は同じ人物とは思えない」(意訳)という感想を持たれたのは有名(「昭和天皇独白録」)
・懸案となっていた満州問題の「解決」のために参謀として派遣。「柳条湖事件」を引き起こし、「最終戦争論」に書いていた自分の理想の実現を図る…
・しかし、そのために周囲から浮き上がって、自分が作り上げた「満州国」から“追放”される羽目に。その日、満州の国民は今後の展開の悪化を見抜いて嘆き悲しんだという…
・この時に秩父宮の前で愚痴をこぼして泣いてしまった…らしい。(元ネタは『秩父宮と昭和天皇』(保阪正康著)のよう http://web.kyoto-inet.or.jp/people/yatsu8hd/forum/246.html)
・この件で、東条英機との関係が悪化。石原は東条のことを「単なる上等兵レベルのクセに」などとボロクソにけなし、以後はホントのホントに「危険人物」として扱われるように
・その後、左遷されて舞鶴要塞、更に第十六師団長(京都)に。ここで軍歴は最後。予備役にされて引退させられる。最後の階級は中将。
・この時、通常は京都市のさよならパーティーが行われるのだが、石原が危険人物なのは周知であり、パーティーはお流れ。多分寂しい引退だったんだろうな。
・その後、立命館総長・中川小十郎の誘いで立命館大学の研究所長となる。お互い軍にマークされるのを覚悟の上だったようだ。ちなみにこの中川さんは西園寺公望の側近、西園寺と言えば軍の増長を最も憎んでいた人。因果だ。
・講義は常に教室が満杯になるほど盛況だったとのこと。京大の学生も聴講していたとか。
・しかし、憲兵のマークが余りに酷く(憲兵隊は過去の経緯から東条英機の影響下にあった)、1年で自らやめることとなる
・以後は郷里で開拓生活に。自分の作ろうとした満州国の民衆と同じ立場になったわけですな。
・でも東条英機暗殺未遂事件には関わっていたらしい(○。○)
・戦後、あれだけのことをしてながら戦犯指定から外れる。この頃既に重病になっていたことと東条英機と仲が悪かったのが理由では無かろうか。GHQ側の史料が見つかってないみたいなので、正確な理由は何とも…。
・でも、東京裁判の証人としては呼ばれ、盟友・板垣征志郎の擁護をした。この時に板垣を救うために偽証もしたようだ。「どうして(今回の問題の)根源の私を裁判にかけない?」…と言ったというのは、後から小説で作られた伝説らしい…ちょっと残念。
・この時臨時裁判所(石原は重病のため、東京まで出ることが不可能になっていた)まで石原の乗ったリヤカーを引いていったのが朝鮮人で石原シンパだった曹何とかさん(失念)と大山倍達。曹氏はのちに民団の初代代表となる。
・昭和24年死去 享年60歳。周囲の人によると晩年は菩薩のようであったとも。奇しくも亡くなったのは8月15日。
・結婚に一度失敗。1年持たなかった模様。
・子供は未詳(ネットで見た限りじゃ分からなかった)、TBSの元社長である石原俊爾氏は莞爾の孫とする情報もあるが…

まとめだけでもこんなになった大変な人
疲れた…

では個人的ないろいろ

拍手[3回]


ネットで見た限りの略歴で感じること

・写真は童顔ですな丸顔のせいかもしれないけど
・良くも悪くもピュアな人だったんだろう
・同じ宗教(国柱会)にはまった宮沢賢治と最後は同じ道をたどったこと。面識はなかったみたいですが。「雨ニモマケズ」は読んだのかな、莞爾。
・軍歴の最後が京都とは全く知りませんでした。京都にバリバリ縁があったのですね。ちなみに最後に京都に来たのは昭和19年、中川小十郎の葬式の時みたい。
・最初の結婚は失敗したのか…しかも1年持たずに…周囲にいた人の証言から見ると、この件はトラウマになっていたようだ…無茶苦茶気になる(ヲイ)

おまけ
安彦良和著『虹色のトロツキー』やっぱ中国じゃ発禁なんでしょうかねヾ(--;)

<追記>
元になった資料をもう一度読み返したら、どうも西園寺公望関連の記述がなかったので、取りあえず削し線で訂正しておきました。うっかりミスで済みません。
でも大隈重信とか乃木希典に突撃かけていた莞爾が西園寺公望に突撃していた可能性も否定は出来ないかも(^^;)
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デムパ
表題は適切な評価かと。

以前、この人について一文を書いたことがあるんですが、宗教的予言(日蓮)と科学的結論が一致したと思い込んだのが、デムパになったきっかけかと。

東京裁判のときは、けっこう自己保身に奔ったという論文読んだことあります。

高く持ち上げるのはいかがなものかと。
満州事変こそが亡国の道でしたから。
桐野 2013/03/20(Wed)15:10:31 編集
興味深い猛毒(苦笑)
桐野さん、コメントありがとうございます。

彼(石原莞爾)の歴史的役割はともかく、近代日本の思想者としてはなかなか興味深い物があります。人物としても面白そうな人なのですが、日蓮持ち出されたら逃げると思います(爆)実家日蓮宗ですけど…(汗)

石原莞爾は『歴史読本』等ではよく扱われ、伝記も昭和の軍人としてはかなり多く人気のネタのようですが、まともな学術論文での扱いは少ないですね。桐野さんの言われた話が気になってCINIIを検索したのですが、該当論文らしいものは見つけられませんでした。
ばんない 2013/03/20(Wed)20:56:03 編集
昭和戦史の森に
分け入ったら、島津に戻れなくなりますよ~

自分も元々は備前戦国史を調べるつもりで、関ヶ原の黒田氏を少し調べようと九州戦国史に入って戻れなくなった(爆

石原氏は・・・「何がしたかったか判らない人物」で括ってます^^

それと、本館の菱刈一族の更新、参考になりました^^
薩州家も菱刈もファンなんで個人的趣味で喜んでます^^
菱刈と相良と薩州家と東郷の絡みを、ゆっくり調べます^^
ありがとうございました。
時乃栞 URL 2013/03/21(Thu)00:39:56 編集
ご忠告ありがとうございます
時乃栞様コメントありがとうございます。

>昭和戦史の森に
>分け入ったら、島津に戻れなくなりますよ~
確かに(汗)
ちょっとネットで検索しただけでもかなり手強いネタだと思いました>石原莞爾
だから学術論文とか少ないんだろうなー。

早々に撤退作戦を計画しないと、とか思ったりして(^^;) わらいごとじゃない
ばんない 2013/03/21(Thu)18:55:57 編集
石原莞爾面白いですね。
ブログで歴史の再評価を行っております。今後ともよろしくお願いいたします。可能であれば、石原莞爾の記事を投稿などお願いできると幸いです。よろしくお願いいたします。
誠究塾 URL 2016/01/13(Wed)11:39:05 編集
拙ブログでの石原莞爾の今後について
誠究塾さま、コメントありがとうございました。

ご希望の石原莞爾についてですが、拙ブログを一読して下されば分かりますように、関心が石原莞爾よりも「石原の子分」と言われていた今田新太郎の方にすっかり移ってしまいまして、今後拙ブログで石原莞爾を単独でネタにすることはないと思います。ただ、今田新太郎のネタで石原莞爾に言及する可能性はあるかと思います。
ご期待に添えず誠に申し訳ありません。

今後も拙ブログを宜しく御願い致します。
ばんない 2016/01/14(Thu)17:51:02 編集
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