拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今田新太郎が昭和10年(1935年)に出したという『靖獻遺言摘註』
ものすごい稀覯本…というのは以前にも書いたが、
日本ではここら辺で持っているようだ
大阪大学懐徳堂文庫
奈良教育大学、日大、一橋大学も持ってるみたい
あと東洋文庫とか
金沢市立玉川図書館近世史料館
うちの家から一番近いのは阪大か。行ってみるか。奥付だけ観るためにヾ(--;)
ものすごい稀覯本…というのは以前にも書いたが、
日本ではここら辺で持っているようだ
大阪大学懐徳堂文庫
奈良教育大学、日大、一橋大学も持ってるみたい
あと東洋文庫とか
金沢市立玉川図書館近世史料館
うちの家から一番近いのは阪大か。行ってみるか。奥付だけ観るためにヾ(--;)
遂にもしかしたら一番地雷ネタかも知れないところに あ、石原莞爾自体が地雷ネタですが(-_-;)
いろいろ検索した限りで見た印象でしかないのだが、
石原莞爾は昭和天皇にはおそらく思いっきり嫌われていた、と思う。
以前にも紹介したかも知れないが、「昭和天皇独白録」なる資料で、昭和天皇はこう語ったと書かれている。
「この時(=2.26事件)の彼(=石原莞爾)の取った態度は(満州事変の時と)同じ人物かと思われるほど正当な物であった」
石原莞爾が一気に名を上げる事件となった「満州事変」だが、“統帥権干犯”と云われる罪を3回もやらかしたにもかかわらず、彼は罰せられなかった。陸軍がかばった…と言うわけではなくて、世論が一気に盛り上がってしまって、罰すると第2の日比谷騒擾事件状態になりかねなかったからだろう。しかし、こんな大法律違反状態が昭和天皇にとって面白いわけがない。昭和天皇は基本的に法律遵守の人なのである。それどころか、莞爾なる男は満州を今度は「五族共和の国」にするんだとか言っているらしい。「ゴゾクキョウワって何?」…昭和天皇にとっては理解不能、トンデモナイモンスターに見えたことは間違いなかろう。
・・・これが昭和天皇と石原莞爾なる陸軍の中堅将校の出会いであった。そして、「独白録」にある文章を見ると、その印象は結局最後まで解消されなかったと見受けられるのである。
莞爾はその後色々あって失脚、関東軍副司令官となるもそこで司令官の東条英機+その取り巻きの「ニキサンスケ」+甘粕とまたまた対立して左遷されますが、その後京都の第十六師団の師団長に栄転します(これはその当時陸軍大臣だった板垣征四郎が満州事変で盟友であった莞爾を気遣って行った人事だったというのが定説です)。
ところが、ここで又問題が起きます。師団長は天皇直属の官僚である「親任官」という高位に属しており、任命するには当然昭和天皇から直接の裁可が必要でした。…しかし
石原莞爾は後年日中戦争の拡大を懸念し、様々な工作(トラウトマン工作など)で戦線の拡大を止めようとしますが、すべて失敗しています。莞爾の印象が昭和天皇に悪く、それを懸念した(利用した?)天皇の側近が、結局これらの工作を妨害したのが一因でした。
自分の身から出たさびとは言え、何とも切ない結果(´・ω・`)
なお、莞爾自身は天皇に悪い印象を持ってなかったというか、天皇を崇拝していたというか、信仰していた国柱会の教義の説く「日蓮上人の教えを世界に知らしめる体現者としての天皇陛下」を信じてたというか…自分でも何書いてるか分からんヾ(--;) どっちにしろ昭和天皇には迷惑なことだったかもね~
いろいろ検索した限りで見た印象でしかないのだが、
石原莞爾は昭和天皇にはおそらく思いっきり嫌われていた、と思う。
以前にも紹介したかも知れないが、「昭和天皇独白録」なる資料で、昭和天皇はこう語ったと書かれている。
「この時(=2.26事件)の彼(=石原莞爾)の取った態度は(満州事変の時と)同じ人物かと思われるほど正当な物であった」
石原莞爾が一気に名を上げる事件となった「満州事変」だが、“統帥権干犯”と云われる罪を3回もやらかしたにもかかわらず、彼は罰せられなかった。陸軍がかばった…と言うわけではなくて、世論が一気に盛り上がってしまって、罰すると第2の日比谷騒擾事件状態になりかねなかったからだろう。しかし、こんな大法律違反状態が昭和天皇にとって面白いわけがない。昭和天皇は基本的に法律遵守の人なのである。それどころか、莞爾なる男は満州を今度は「五族共和の国」にするんだとか言っているらしい。「ゴゾクキョウワって何?」…昭和天皇にとっては理解不能、トンデモナイモンスターに見えたことは間違いなかろう。
・・・これが昭和天皇と石原莞爾なる陸軍の中堅将校の出会いであった。そして、「独白録」にある文章を見ると、その印象は結局最後まで解消されなかったと見受けられるのである。
莞爾はその後色々あって失脚、関東軍副司令官となるもそこで司令官の東条英機+その取り巻きの「ニキサンスケ」+甘粕とまたまた対立して左遷されますが、その後京都の第十六師団の師団長に栄転します(これはその当時陸軍大臣だった板垣征四郎が満州事変で盟友であった莞爾を気遣って行った人事だったというのが定説です)。
ところが、ここで又問題が起きます。師団長は天皇直属の官僚である「親任官」という高位に属しており、任命するには当然昭和天皇から直接の裁可が必要でした。…しかし
関東軍は軍司令官、参謀長が共に交代、多田中将は同期の梅津の下ではやりにくかろうということで、北支那方面軍司令官に栄転、畑の後任の侍従武官長には藤江恵輔第十六師団長が推薦されました。しかし藤江中将は、不動の姿勢を取ると目眩がするという健康上の理由からこれを固辞、結局蓮沼蕃中将が就任しました。蓮沼中将は陛下の第一の意中の人物でもありました。藤江中将は参謀本部附となり、後任の師団長には石原莞爾がなりました。これは辞めていく板垣陸相の最後の心遣いでしたが、これを見て、藤江の侍従武官長推薦は石原を師団長にするためではなかったかという悪声が、海軍側からも上がったということを、畑が書き記しています。板垣は8月の定期異動で石原を師団長に推薦する人事案を出しましたが、陛下はなかなかこれを御裁可なさらず、結局しばらくは師団司令部附にして様子を見るということになっていました。しかしこの2度目のトライで、東京以外の師団長なら宜しいという許可を得たのです。同時に駐蒙軍司令官への就任が却下されていた山下奉文も、許されて第四師団長となりました。他、どこか別のサイト(アドレス失念)でもこの話を見たのですが、昭和天皇の裁可が降りなかった不名誉な人物というのは、長い歴史を見てもこの時の莞爾と山下奉文ただ2人だけとのことです。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-261.html
石原莞爾は後年日中戦争の拡大を懸念し、様々な工作(トラウトマン工作など)で戦線の拡大を止めようとしますが、すべて失敗しています。莞爾の印象が昭和天皇に悪く、それを懸念した(利用した?)天皇の側近が、結局これらの工作を妨害したのが一因でした。
自分の身から出たさびとは言え、何とも切ない結果(´・ω・`)
なお、莞爾自身は天皇に悪い印象を持ってなかったというか、天皇を崇拝していたというか、信仰していた国柱会の教義の説く「日蓮上人の教えを世界に知らしめる体現者としての天皇陛下」を信じてたというか…自分でも何書いてるか分からんヾ(--;) どっちにしろ昭和天皇には迷惑なことだったかもね~
実は謎な極東軍事法廷酒田出張所での石原莞爾供述。
現在残っているのは、莞爾の付き人としていった人のメモ書き?らしい物だけみたい(『石原莞爾全集』に所収されているようです。)GHQ側の史料はどうなったんや~
そこで疑問。
「例の有名なお話が供述となったのは何故?」
全くの作り話にしてもうますぎるし…
と思ったら回答があったではないか、しかもネット上に。
なるほど記者への話と法廷の話を混同したのではなかろうかの。
…で、海外の報道でこれは載ったのだろうか?気になる。
現在残っているのは、莞爾の付き人としていった人のメモ書き?らしい物だけみたい(『石原莞爾全集』に所収されているようです。)GHQ側の史料はどうなったんや~
そこで疑問。
「例の有名なお話が供述となったのは何故?」
全くの作り話にしてもうますぎるし…
と思ったら回答があったではないか、しかもネット上に。
日本歴史未曾有の敗者として裁かれた時、昭和二十二年五月一日石原は東京裁判の参考人として山形県酒田市商工会議所に設営された臨時法廷に立った。この第一日目の証言を終えた後宿舎の酒田ホテルでは内外記者団と石原将軍の会見の場がもうけられてあった。私は偶然にもこの千載一遇とも言うべき好期に巡り合わせをもった。http://homepage1.nifty.com/taku-nakajo/sakusaku/2_2.htm
その思い出は冒頭(君達、私の此れから話す事は貴方達のお国に帰ってから発表して貰いたい。
日本で発表すればマッカーサーの検閲で真実が通じなくなるだろうから)と言われた言葉から始まったのと、内外記者達がお互いに頷きあいその通りという意思表示をしていたのだが記憶に焼きついている。これを手始めにその後1時間位、内外記者団とのやり取りは敗戦国民が口にしたくも慮かれる言葉だった。
だが、戦後豹変した指導者を身近に見た私にとっては胸の透く思いだったし、東京裁判の過程を見聞きしてきた記者各位にしては最も痛快な思いをした事は以後の文献によっても明らかである。この場での記憶に残るニ三を述べる。
東亜連盟については先に記したが、事実は(マッカーサーは東亜連盟を非合法団体にして解散させたが、東亜連盟は単なる右翼団体ではない。米ソの二大勢力が凌ぎを削る現在ソ連の共産主義に堂々立ち向かうるのは東亜連盟の理論と実践のみだ。東亜連盟は民族闘争でなく民族協和、弱肉強食でなく共存共栄を主張しつつアジアの団結を図ろうと運動してきた。
力で屈服させる貴方がた欧米覇道主義とは異なり東洋古来の王道によって手を結ぼうと言う事だ。
この度の裁判は覇道主義の最たるものだ。
勝者が敗者を裁くとは人間が犬、猫相手に裁判してるようなもので、否応無しに結果は出ている。
苟も世界平和を願う裁判ならば第一級戦犯は米国はトルーマン、ソ連はスターリン、イギリスはチャーチル、日本からは及ばずながら私が出よう。
そこで正々堂々論戦したらよいのだ。
既に負けてた日本の広島、長崎に原子爆弾を落としたのは国際法上大いに問題がありトルーマン大統領名の降伏勧告ビラでは人的資源に至るまで徹底的に壊滅するとあり、その通り東京、横浜等を無差別爆撃したのは、ソ連の参戦と同様紛れもない国際条約の違反である。しかもソ連は今尚大多数の日本人を、自国に連衡酷使しているが、非人道の極みである。マルクスが地下で涙しているだろう。)
(以下省略)
なるほど記者への話と法廷の話を混同したのではなかろうかの。
…で、海外の報道でこれは載ったのだろうか?気になる。
この記事で片倉衷が今田新太郎を落とすような発言をしていたことは指摘したが、
その後いろいろ調べてみて、片倉衷の「満州事変時の今田新太郎」記述が時代と共に微妙に変わっていることに気が付いた。
としていたのが
結論 片倉衷は今田新太郎のことが嫌いだったんだろう、多分。
おまけ
『戦陣随録』『挫折した理想国』では今田だけ早く帰国した理由は「駒井徳三顧問との対立」にあったとしてるなあ。前回の考察はちょっと見直しが必要か。
その後いろいろ調べてみて、片倉衷の「満州事変時の今田新太郎」記述が時代と共に微妙に変わっていることに気が付いた。
151 ページ
... ふみきった。結局、これは当時石原参謀が主張した、行政の指して板垣参謀に意見を具申した。しかし,参謀長は板垣、石原、松井各参謀とわたしを集めて会議には、第三課員は駒井氏に対する反感から、その部下になることを好まず、今田大尉等数名は連署...
『挫折した理想国』1967年
http://books.google.co.jp/books?ei=JQqGUbSdOYLTkwWu-oHwAw&hl=ja&id=M1hOAAAAMAAJ&dq=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0#search_anchor
144 ページ「満州国顧問・駒井徳三と今田新太郎その他数名(第三課のメンバー)が対立したのが今田新太郎早期帰国の理由」
片倉衷 結局予定通り第三課を廃止し、統治部一本とすることに一決し、今田大尉等を説得した。意見を具申するところがあったが、参謀長は、板垣、石原、松井各課長ならびに私を集め協議し、就任せる駒井顧問に対する反感から、今田大尉外数名は、その指揮 ...
『戦陣随録』1972年
http://books.google.co.jp/books?ei=JQqGUbSdOYLTkwWu-oHwAw&hl=ja&id=MEAFAAAAMAAJ&dq=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0#search_anchor
としていたのが
「今田大尉がノイローゼになったんだ、仕方なく内地に転任させた。あの人は18日夜、(北大営を急襲し、張学良の命令でほとんど無抵抗の)支那兵を切った。抵抗しない人間を切ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない。今田が、そうだと言うんじゃないが、軍人が勲章ほしさに好んで殺傷するようじゃ修養が足りないんだ。」おやあ?これはどういうことかいな。
『将軍の遺書-遠藤三郎日記』1986年
※なおこの元ネタの初出『片倉衷談話速記録』は1982~1983年発行
結論 片倉衷は今田新太郎のことが嫌いだったんだろう、多分。
おまけ
『戦陣随録』『挫折した理想国』では今田だけ早く帰国した理由は「駒井徳三顧問との対立」にあったとしてるなあ。前回の考察はちょっと見直しが必要か。