拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
遂にもしかしたら一番地雷ネタかも知れないところに あ、石原莞爾自体が地雷ネタですが(-_-;)
いろいろ検索した限りで見た印象でしかないのだが、
石原莞爾は昭和天皇にはおそらく思いっきり嫌われていた、と思う。
以前にも紹介したかも知れないが、「昭和天皇独白録」なる資料で、昭和天皇はこう語ったと書かれている。
「この時(=2.26事件)の彼(=石原莞爾)の取った態度は(満州事変の時と)同じ人物かと思われるほど正当な物であった」
石原莞爾が一気に名を上げる事件となった「満州事変」だが、“統帥権干犯”と云われる罪を3回もやらかしたにもかかわらず、彼は罰せられなかった。陸軍がかばった…と言うわけではなくて、世論が一気に盛り上がってしまって、罰すると第2の日比谷騒擾事件状態になりかねなかったからだろう。しかし、こんな大法律違反状態が昭和天皇にとって面白いわけがない。昭和天皇は基本的に法律遵守の人なのである。それどころか、莞爾なる男は満州を今度は「五族共和の国」にするんだとか言っているらしい。「ゴゾクキョウワって何?」…昭和天皇にとっては理解不能、トンデモナイモンスターに見えたことは間違いなかろう。
・・・これが昭和天皇と石原莞爾なる陸軍の中堅将校の出会いであった。そして、「独白録」にある文章を見ると、その印象は結局最後まで解消されなかったと見受けられるのである。
莞爾はその後色々あって失脚、関東軍副司令官となるもそこで司令官の東条英機+その取り巻きの「ニキサンスケ」+甘粕とまたまた対立して左遷されますが、その後京都の第十六師団の師団長に栄転します(これはその当時陸軍大臣だった板垣征四郎が満州事変で盟友であった莞爾を気遣って行った人事だったというのが定説です)。
ところが、ここで又問題が起きます。師団長は天皇直属の官僚である「親任官」という高位に属しており、任命するには当然昭和天皇から直接の裁可が必要でした。…しかし
石原莞爾は後年日中戦争の拡大を懸念し、様々な工作(トラウトマン工作など)で戦線の拡大を止めようとしますが、すべて失敗しています。莞爾の印象が昭和天皇に悪く、それを懸念した(利用した?)天皇の側近が、結局これらの工作を妨害したのが一因でした。
自分の身から出たさびとは言え、何とも切ない結果(´・ω・`)
なお、莞爾自身は天皇に悪い印象を持ってなかったというか、天皇を崇拝していたというか、信仰していた国柱会の教義の説く「日蓮上人の教えを世界に知らしめる体現者としての天皇陛下」を信じてたというか…自分でも何書いてるか分からんヾ(--;) どっちにしろ昭和天皇には迷惑なことだったかもね~
いろいろ検索した限りで見た印象でしかないのだが、
石原莞爾は昭和天皇にはおそらく思いっきり嫌われていた、と思う。
以前にも紹介したかも知れないが、「昭和天皇独白録」なる資料で、昭和天皇はこう語ったと書かれている。
「この時(=2.26事件)の彼(=石原莞爾)の取った態度は(満州事変の時と)同じ人物かと思われるほど正当な物であった」
石原莞爾が一気に名を上げる事件となった「満州事変」だが、“統帥権干犯”と云われる罪を3回もやらかしたにもかかわらず、彼は罰せられなかった。陸軍がかばった…と言うわけではなくて、世論が一気に盛り上がってしまって、罰すると第2の日比谷騒擾事件状態になりかねなかったからだろう。しかし、こんな大法律違反状態が昭和天皇にとって面白いわけがない。昭和天皇は基本的に法律遵守の人なのである。それどころか、莞爾なる男は満州を今度は「五族共和の国」にするんだとか言っているらしい。「ゴゾクキョウワって何?」…昭和天皇にとっては理解不能、トンデモナイモンスターに見えたことは間違いなかろう。
・・・これが昭和天皇と石原莞爾なる陸軍の中堅将校の出会いであった。そして、「独白録」にある文章を見ると、その印象は結局最後まで解消されなかったと見受けられるのである。
莞爾はその後色々あって失脚、関東軍副司令官となるもそこで司令官の東条英機+その取り巻きの「ニキサンスケ」+甘粕とまたまた対立して左遷されますが、その後京都の第十六師団の師団長に栄転します(これはその当時陸軍大臣だった板垣征四郎が満州事変で盟友であった莞爾を気遣って行った人事だったというのが定説です)。
ところが、ここで又問題が起きます。師団長は天皇直属の官僚である「親任官」という高位に属しており、任命するには当然昭和天皇から直接の裁可が必要でした。…しかし
関東軍は軍司令官、参謀長が共に交代、多田中将は同期の梅津の下ではやりにくかろうということで、北支那方面軍司令官に栄転、畑の後任の侍従武官長には藤江恵輔第十六師団長が推薦されました。しかし藤江中将は、不動の姿勢を取ると目眩がするという健康上の理由からこれを固辞、結局蓮沼蕃中将が就任しました。蓮沼中将は陛下の第一の意中の人物でもありました。藤江中将は参謀本部附となり、後任の師団長には石原莞爾がなりました。これは辞めていく板垣陸相の最後の心遣いでしたが、これを見て、藤江の侍従武官長推薦は石原を師団長にするためではなかったかという悪声が、海軍側からも上がったということを、畑が書き記しています。板垣は8月の定期異動で石原を師団長に推薦する人事案を出しましたが、陛下はなかなかこれを御裁可なさらず、結局しばらくは師団司令部附にして様子を見るということになっていました。しかしこの2度目のトライで、東京以外の師団長なら宜しいという許可を得たのです。同時に駐蒙軍司令官への就任が却下されていた山下奉文も、許されて第四師団長となりました。他、どこか別のサイト(アドレス失念)でもこの話を見たのですが、昭和天皇の裁可が降りなかった不名誉な人物というのは、長い歴史を見てもこの時の莞爾と山下奉文ただ2人だけとのことです。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-261.html
石原莞爾は後年日中戦争の拡大を懸念し、様々な工作(トラウトマン工作など)で戦線の拡大を止めようとしますが、すべて失敗しています。莞爾の印象が昭和天皇に悪く、それを懸念した(利用した?)天皇の側近が、結局これらの工作を妨害したのが一因でした。
自分の身から出たさびとは言え、何とも切ない結果(´・ω・`)
なお、莞爾自身は天皇に悪い印象を持ってなかったというか、天皇を崇拝していたというか、信仰していた国柱会の教義の説く「日蓮上人の教えを世界に知らしめる体現者としての天皇陛下」を信じてたというか…自分でも何書いてるか分からんヾ(--;) どっちにしろ昭和天皇には迷惑なことだったかもね~
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無題
時乃栞様コメントありがとうございます。
>>日蓮上人の教えを世界に知らしめる体現者としての天皇陛下
>陛下におかれては、かなり迷惑な思い入れでは・・・滝汗
そうですよね~(^^;)
莞爾的には信仰している日蓮”教”の教えに則っていたので疑う余地もなかったみたいですが、どうも立憲君主制に基づいて教育されていたらしい昭和天皇にとってはすごい迷惑千万なことだったと思います…
戦後になっても、昭和天皇にあそこまでシカトされていたにも関わらず、莞爾の天皇に対する思い入れはかなりすごかったようです…
>甘粕
実際に甘粕に会っていた人の証言によると
「甘粕さんはもっと品があったよ」
だそうです。つまり教授は甘粕実物より…げほんげほん
>>日蓮上人の教えを世界に知らしめる体現者としての天皇陛下
>陛下におかれては、かなり迷惑な思い入れでは・・・滝汗
そうですよね~(^^;)
莞爾的には信仰している日蓮”教”の教えに則っていたので疑う余地もなかったみたいですが、どうも立憲君主制に基づいて教育されていたらしい昭和天皇にとってはすごい迷惑千万なことだったと思います…
戦後になっても、昭和天皇にあそこまでシカトされていたにも関わらず、莞爾の天皇に対する思い入れはかなりすごかったようです…
>甘粕
実際に甘粕に会っていた人の証言によると
「甘粕さんはもっと品があったよ」
だそうです。つまり教授は甘粕実物より…げほんげほん