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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
方々の図書館に御願いした資料が手元に集まりだしてます。
中にはせっかく取り寄せたのに「なんじゃこれわ」…と言うのもあったりしたのですがf(^_^;)

今回一番の収穫だったのがタイトルの『片倉衷氏談話速記録』。
今田新太郎と片倉衷の関係については何度もネタにしてきたのですが(これとかこれ)、この「速記録」はそれらの問題を解決してくれるネタが満載でした。

取りあえずいろいろ紹介。

その時に(※ばんない注 柳条湖事件勃発時)参謀長の官舎の出口で柳の木の下で、新井参謀が私と中野、武田の両参謀に、「ちょっと待っくれ」と、言うんで四人が、その時に私と新井から、「これは君、どうも謀略らしいぞ。けしからんぞ」ということになったわけです。「われわれを無視してやった。どうするか」それから新井参謀が「どうするもこうするもないじゃないか。こうなったら、もう、これはひとつ協力しなければだめだ」。
私もその前に中村事件、万宝山事件、また前からいろんな事件がありますし、渉外事件も沢山扱っておりましたし、「もはや、もうこれを逸したならば時期はない。もちろんこれがだめなら奉天事件はついに終わり、それから、おそらく板垣、石原両参謀はクビになる。我々は仮に残存したところで、あと関東軍は、この前の河本事件もあり、満州は何もない。そうすると支那軍はガアッと来る。日本がペコンとなる。これはもうチャンスだ、これで終わりだ。もうこの際は先生方を助けてやる以外に方法はない。とにかく不満であるが板垣、石原参謀などを助けてこの際やろうじゃないか」と、こういう事を発議したわけなんです。
p.120~p.121
片倉は柳条湖事件の陰謀について、板垣や石原からなんも聞かされてなかったらしい。まだ参謀見習いだったからだろうな。
但し、このなかの中野参謀だが、実は陰謀のことは事前に知っている(「石原莞爾日記」昭和6年(『石原莞爾選集9 書簡・日記・年表』たまいらぼ))。
それで、私どもはすぐに出発という事になりまして、午前三時半頃に、それから私も石原さんに、中野や武田参謀が、その命令やなんかを手伝って、私も若干手伝って、それから家へ帰って服装を替えて、それで、今から出ると言うんで軍用行李をひとつもって飛び出して、それで三時半頃に奉天へ出発で、歩兵第30連隊の部隊と一緒にずっと出たわけです。
そして、大石橋付近まで、熊岳城かな、あすこまで来るとだんだん夜が明けてきて、そうすると沿線に居留民が出てきたわけですよ、鉄道。それまでは気が付かないから来ないですよ、旅順なんかでもね。そうすると、居留民が大変なんですね、「あなた方は、もうこの際、奉天付近で何か起こった。今度こっちへ帰ったときにただで帰ったら、(この前の、つまり河本事件のように)我々は枕木に横になって帰さんぞ」と、全学連だ、三派全学連ですよ、「枕木に横になって帰さんぞ」と、その頃から始まったですよ。(笑い)三派全学連のね。そういうぐらいの要求、大変なもんですよ、居留民の熱意が、満州においては。そうして、「そこでしっかりやってくれ」と。というのは、在満の居留民は、もう痛めつけられていますからね、そういう気持ちになっておったわけですね。
これは、この頃になってまたね、居留民の中では、「おれは平静であった」とかなんとかいってうまい事を言っている人もおりますけれどもね、そうじゃない、本当に困っておったんですよ、実際問題としてね。大連辺りにおる人はそんな事はありませんけれども、沿線の人は、それはもう本当に困っておった。
p.125
片倉のこの発言が言い訳じゃないのは、『小澤征爾父を語る』を読んでいても伺えます。日本本土にいる人間(特に政府上層部)と現地一般民の意識の解離はものすごいです。この後の関東軍の暴走を政府・軍上層部が止められなかった背景に現地一般民の関東軍への支持が強力だったことを理由に挙げる人は多いですが、私も同意します。
それから、そこへ今田大尉、矢崎少佐とかいろいろ来ておる。
今田なんていう人が、平素参謀肩章をつってるんですよ。これは参謀じゃないんですからね、それが参謀肩章をつっているじゃないですか、「なんだ、あなた参謀になったんじゃないか」と、言ったらね、参謀肩章をつって指揮している。「何だ、この野郎って」ね。
それから、彼は見ると、「こういう書類がある」と、見せたんです。そうすると、王位哲の命令があるわけです、「9月18日なんとかやれ」と、それを見ますと、日付が19日になっているんです。「これは日にちが違うじゃないか、君」と、そういって、その日付の所を焼いたんです。なんかありませんかね、よく本にも出ているでしょう、王位哲の命令書が、リットン調査団やなんかに見せたやつを、あの日付の所は焼けていますよ。あれはぼくが行って今田大尉に焼かせたんだ。今田大尉は、その焼かないのを持ってきた。あれは王位哲の演習命令で、作戦上の命令ではなく日付も違っている命令なんだ、焼かせたんです。あれは焼いたところを取らないと日付が違うんです。そういうことをやった。あれは今田新太郎が北大営に斬込みをやったときに探しだしたものなんです。
p.126
※下線はばんない補足
今回の一番の収穫はこの箇所。
「今田なんていう人が」…って、感情メラメラですがな片倉はんヾ(^^;)。しかし、片倉の言い分ももっともであって、この時今田の肩書きは「東北辺防軍司令長官顧問」要は「参謀」じゃないのである。参謀肩章についてはこちらのサイトに詳しい説明があるが、要は陸軍の中でどんなに偉くても、例えば陸軍大臣であっても下げられない、参謀肩章は参謀じゃないと下げられないのである。ところが、今田は参謀でないのにかかわらず参謀肩章を釣って仕事をしているばかりか、それを後になっても注意された形跡がないのは拙ブログのこのエントリで紹介した今田の写真を見ても伺える(うっすらと右肩から下がる紐が見えるかと)。「満州国建国」の記念写真という公式な写真を撮影するにもかかわらず、"非公式"な参謀肩章を下げているのは、ほかの上位の軍人(例えば本庄関東軍司令官とか)からも注意を受けてないからではと推測できるからである。
これこそ、私が以前推測した「今田新太郎を柳条湖事件に参加させたのは、石原莞爾など関東軍関係者とは別の、参謀本部にいる上位の"誰か"」という説を肯定する証拠になるのではないか。当時の今田の肩書きは確かに「東北辺防軍司令長官顧問」(一般的に「張学良の軍事顧問」と書かれることが多い)だが、実質的には「参謀本部附」と周囲の人たちにも見なされていたのでは無かろうか。
蛇足になるが、軍において参謀肩章というのはそれはもう大変な羨望の対象だったらしく、『陸軍大学校』という本にもその辺を偲ばせるエピソードが書かれている。
あそこで(※ばんない注 北大営)支那兵が三人死んでいる。これはアヘンの飲者を連れてきたんです、三人は。それを運んできたのは、後から神兵隊事件に関係した連中なんです。名前はちょっと言いません。今生きていますから具合が悪いから、それが連れてきたものらしい。
p.126
しかし、今は既にその名前は「片岡駿」「奥戸足百」とばれているのであったヾ(^^;) 拙ブログのこの記事も参照
※ちなみに『片倉衷氏談話速記録』上巻の発行は1982年10月 片岡駿の死去は1982年10月13日(奥戸は不明)
○問 この吉林にいたのは大迫通貞ですね、あと誰がいたんですか。さっきちょっと言われたですけども、名前を。
○片倉 師団は多門師団ですよ。今田新太郎、それから林大八。
○問 今田新太郎ですか。
○片倉 それはその前にね、この前も言いましたですが、今田新太郎がいた。その頃今田新太郎は、爆破事件をやる。それから吉林に行く、チョウ(※ばんない注 さんずいに「兆」)南の張海鵬の所へ行く、蒙古の独立運動をやるとかで、その頃非常に用いられたんですよ。大変な活動です。そのうちに彼はノイローゼになっちゃってね、だめになっちゃったです。初め非常に用いられた、今田新太郎は、ところがノイローゼになったのは、そこまで言いましょうか、例の北大営の斬り込みをやったでしょう、抵抗をしないやつをやったからね、幻影が出るんですね、寝れないんですよ。これ、人間ね、相手が抵抗するときやったやつは何ともないんですね。こうやったやつを殺したのは駄目です、これは、だからこんな時に殺したり殴ったりするもんじゃ絶対にありませんね。(笑い)これは今田新太郎の例なんです。あれは剣客ですからね、熊本の。たいした者ですからね、それがこれでノイローゼになっちゃった。それで夜寝れない。あれは参本(※ばんない注 参謀本部)へ返したです、それからあとで満州から。非常に立派な人ですけれども駄目になっちゃった、ノイローゼになった。それは彼が述懐していました。「おれはあれはしくじった」と、つまり、守備隊がやったときに彼はついていて指導したでしょう。それで参謀肩章をつって、「やれ」というわけでやったから切ったでしょうね、あれは。
ぼくは人を斬ったことがないからわからんけれどもね、人は斬るもんじゃないです。(笑い)刀というものはね、ぼくはそう思う。
p.135~136
問題の「ノイローゼ」発言の、実はこれが初出です。これが、『戦陣随録』(1972年発行)等とは全く真逆の発言なのは拙ブログのこの記事で指摘済みですが、何故1982年になって片倉が突然発言内容を変えたのか?これについての詳細な検討は別のエントリで。
2,3点気になる指摘を。
「あれは剣客ですからね、熊本の」→今田の父が東京で剣道道場を開いており、今田自身の剣道の腕も相当だったのは事実。だが、熊本出身じゃねーぞ、片倉。今田本人は東京出身、その両親は奈良出身だ。それがなんで熊本になるのか(呆)
「それで参謀肩章をつって」→よほど不満があったのかしつこい片倉。
○問 笠木良明はどうなのですか。
○片倉 笠木氏はそして帰ったのです。
○問 いつ来たのですか。
○片倉 自治指導部の時、満州は満鉄ですよ。雄峯会の出身です。
○問 片倉さんの「機密日誌」を見ていると、笠木良明氏の名前は余り出てこないですけどね、建国過程には。それが政府が出来たときには人事を預かるわけですね。
○片倉 自治指導部にもはいっているんです。自治指導部のほうは花谷と今田さんがやっているからそれは書きませんでしたから。
○問 自治指導部の話も余り出てきませんね。
○片倉 後は向こうが、花谷と今田氏がやったから。従ってみな書いたわけじゃないです。
p.285~286
「雄峯会」は「大雄峯会」ともいい、先述の片岡駿や奥戸足百が属していた団体。雄峯会はこのように満州国建国時の貢献は大だったが、後に関東軍とケンカ別れし、満州国の経営から離脱する。

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