拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
では前回の続き
中江関連書籍の中でも数少ない、今田新太郎に関するかなり長文の貴重な思い出の記録である。メインは中江丑吉の一番の友人であり、丑吉姪・浪子の夫であった鈴江言一だが、彼に絡んだ今田の行動などに、今田の説得力とか行動力とか思いやりなどは偲ぶことが出来よう。
いくつか小倉氏の勘違いがあるようなので修正。
・森蓮→森赳。陸軍士官学校28期(大正5年)卒、陸軍大学校39期(昭和2年)卒。今田新太郎(陸士30期卒(大正7年)卒、陸軍大学校37期(大正14年卒))から見ると士官学校なら2期上、大学校なら2期下。
・森岡阜→森岡皐。陸軍士官学校22期卒、陸軍大学校32期(大正9年)卒であの武藤章と同期。なお、石原莞爾の次に第16師団長を務めた人物であり、彼の在籍時に16師団はフィリピン戦線に投入され、作戦の失敗により約10000人いた師団の内帰国できたのは森岡を含めた600人程度だったという…ちなみにこの時あの辻政信が無謀な作戦を提案したことからケンカしたらしい。
中江関連書籍の中でも数少ない、今田新太郎に関するかなり長文の貴重な思い出の記録である。メインは中江丑吉の一番の友人であり、丑吉姪・浪子の夫であった鈴江言一だが、彼に絡んだ今田の行動などに、今田の説得力とか行動力とか思いやりなどは偲ぶことが出来よう。
忘れ得ぬ人 小倉倉一
(中略)
太平洋戦争の進行とともに、国内のみならず、外地においてもファッショ的な思想弾圧が始まった。満州が一番早かった。関東軍憲兵隊により大がかりな満鉄調査部事件がでっち上げられ、検挙者数は拡大した。後に判明したように事件は根拠のない物であったのだが。
北京における中江丑吉氏の告別式、それから後始末を了して上海に帰っていった鈴江さんも、17年9月検挙されて、満州に送られた。のちに大連にいた伊藤武雄氏も検挙された。
爾来ハルピンの憲兵隊に留置されていた鈴江さんは、昭和18年夏釈放された。留置生活中、彼は老子や荘子などを読んでいたらしい。満鉄を退職となった鈴江さんは、北京に住むことになった。東京から夫人の浪子さんも北京に移ってきた。この頃私は北京にいた。鈴江さんは、あの肥満の体躯が大いにやせていた。しかし気持ちは元気であった。
鈴江さんがハルピン(留置)にいるころ、当時山西省路(※ばんない注 正しくはさんずいに「路」)安で師団参謀長をしていた今田新太郎大佐(後少将)が、東京の日本憲兵隊本部総務部長森蓮少将にあて、満州の憲兵隊の手にある鈴江さんのことに関し、強烈な手紙を書き送っていた。森氏と今田氏は陸大の同期生であった。森氏から今田氏に、事件は自分の担当でなく、直接タッチしていないが、関係方面に連絡して調査するから、との返信が来た。それは封緘ハガキにかなり細かく書かれていた。この返信は、北京に出てきた折の今田氏から見せられて知った。それはまだ鈴江さんが留置中のことであった。
今田将軍は、彼の深く尊敬する中江さんを介して鈴江さんともよく知っていた。また森将軍は、後に終戦時の近衛師団長で、叛乱将校によって射殺されている。
鈴江さんが、一人先んじて突然ハルピン憲兵隊から釈放されることになったのは、どういう事実関係に基ずくのか知る由もない。しかし私は、今田、森両氏の往復書簡のことを時折思い起こすのである。
北京に住むことになった鈴江さんは、生活の道を考えなければならなかった。私は北京に創設された華北総合調査研究所の研究員はどうかと思い、これを鈴江さんに語り、またたまたま山西省から出張し来たり、しばらく北京に滞在していた今田新太郎氏に話した。
今田氏は承諾し、早速同研究所の所長をしていた森岡阜中将(予備役)に話し、森岡氏を承諾させた。鈴江氏は研究所に採用になったのはよいが、ここに一つの面倒なことが起こった。というのはこうである。
その当時は南京に汪兆銘政権が樹立され、重慶政権とは異なる、汪兆銘流の孫文主義、三民主義、国民党主義の旗が掲げられていた。同政権の尻押しをしている日本側にも、中国の「現状」、華北の「現状」に適応するような三民主義の解釈と「研究」が行われる必要があった。華北総合調査研究所も、そうした「研究」をおこなうことになったらしい。
入所間もない鈴江さんに右のような主旨の絡む三民主義の研究が、森岡所長によって依頼された。これには鈴江さんも閉口した。なんとか研究テーマを他に転換してもらうべく鈴江さんは森岡所長に掛け合いに行った。これには私も同行した。
しかしこの予備役陸軍中将に、転換を求める理由を納得させるのは難しかった。森岡氏は
「君(鈴江)は、孫文伝の立派な著書もあるように、十分にその実力を持っているのだから、まあ、やってみてくれたら」
とのみいうのだった。
他方、この頃、鈴江さんは、橘撲氏から「三民主義の研究を、いっしょにやろうじゃないか」と言う手紙をもらったりした。当時橘氏は森岡氏からでも頼まれ、華北総合研究所の非常勤委託研究員のような形で、三民主義の研究を始めることになっていたのでもあろうか。われわれにはそんな風に思われた。
困却した鈴江さんは、這般の事情を今田新太郎氏に話した。鈴江さんは私に、「今田氏に、やむを得ず中江さんの名を出して頼みましたよ」と語っていた。というのは「もし中江さんが生きていたら、自分(鈴江)が、こういう意味の三民主義の研究をするのを許さないだろう」との言葉を今田氏に話したのである。
今田氏は了承して、長文の手紙を森岡氏に書き送り、森岡所長から「鈴江君は、どういう研究テーマをやっても良い」ということになった。
こうして鈴江さんは難関を切り抜けることが出来たが、この研究所入りを斡旋した私も、鈴江さんの生涯にその晩年の清節に汚点を残さずに済んだかと、ホントに安堵した。
しかし鈴江さんは難関を切り抜けた物の、この頃から病気がちになり、研究所に出勤する日が稀であった。一つは気が進まなかったこともあろう。出勤しないで、月給だけもらうのを非常に心苦しく思っていた鈴江さんは、私が慰留するのも聞かず、間もなく辞表を出して研究所をやめてしまった。売り食いの生活に入ったのである。
上海に残してきた彼の蔵書を、親交のあった中国の友人胡氏によって、少しづつ手放していた。その中には彼が収集した太平天国の乱に関する図書も入っていた。鈴江さんは、笑って、夫人に、自分が戦争の後、もし日本に戻るようなことがあったら、古本屋を開業して生活する、と語ったことがある。
私は鈴江さんから、中国の画家斉白石の、彼の得意とする蝦を描いた絵を一枚おくられたことがある。鈴江さんは、この中国の画家と親交があった。鈴江さんが私のために斉白石に書かせた物であり、斉白石の小倉先生に送る云々の賛があった。総合研究所入りを斡旋した私へのお礼の意もあるのであろうかと思われた。
さて、今田将軍についてであるが、将軍はニューギニヤ戦線で終戦を迎え、東京に帰還したが、数年ならずして他界した。将軍もまた私にとって実に「忘れ得ざる人」である。
p.189~p.192
いくつか小倉氏の勘違いがあるようなので修正。
・森蓮→森赳。陸軍士官学校28期(大正5年)卒、陸軍大学校39期(昭和2年)卒。今田新太郎(陸士30期卒(大正7年)卒、陸軍大学校37期(大正14年卒))から見ると士官学校なら2期上、大学校なら2期下。
・森岡阜→森岡皐。陸軍士官学校22期卒、陸軍大学校32期(大正9年)卒であの武藤章と同期。なお、石原莞爾の次に第16師団長を務めた人物であり、彼の在籍時に16師団はフィリピン戦線に投入され、作戦の失敗により約10000人いた師団の内帰国できたのは森岡を含めた600人程度だったという…ちなみにこの時あの辻政信が無謀な作戦を提案したことからケンカしたらしい。
PR
本日紹介させて頂く本は『中江丑吉という人』(阪谷芳直編 大和書房)です。
他の中江本と違うこの本の特徴は「年表」が載っていること。これにしか出てこない今田情報も多い…。
ではまいる。
長くなってしまったので、続く。
他の中江本と違うこの本の特徴は「年表」が載っていること。これにしか出てこない今田情報も多い…。
ではまいる。
1937年日中戦争勃発の年に、おさな友達であった今田新太郎中佐(のち少将)にこの戦争の失敗すべき所以を手紙で説き、参謀本部の石原莞爾等を通じて拡大の防止を勧告したというようなことである。だがこのことはすぐ翌年、「中江は如何なる努力ももはや無益であり、日本がひとたび破滅にいたり付くまでいわば『病理学者』の立場を取るほか無いと判断した」という、同書(※ばんない注 『中江丑吉書簡集』)附録の年表の叙述につながる。同文は同じ本のp.121にも登場する。
p.40
柔道家の牛島辰熊氏には、政治に関係せず軍人の道具に使われず柔道一途に励めとアドバイスし、曹(※ばんない注 曹如霖)には「支那事変」の世界史的意義を説いて実業方面以外には出馬すべきではないと忠告して、カイライや買弁となる危険から救った。反東条の驍将と言われた今田少将が北支派遣軍の参謀長に内々擬せられたとき、関係者がそろって訪れると、彼は相手が言う前に「今田(チンデン)を参謀長にするというんだろう。あれを妙な政治に引き出してくれるな。戦場で死なせてやってくれ」とズバリ言って抑えたという。おそろしいカンであると同時に友への優しい情がにじんでいる。
p.94~p.95
昭和41年(1966年)5月8日付書簡より書簡の送り主は加藤惟孝(中江丑吉の弟子の一人)、受取人は阪谷芳直。
(中略)
また蒋介石が、もちろん制限付きながら、よく評価されている点は、歴史の理解に意義深い物があると思います。
中江さんが今田(新太郎)宛てに「蒋介石を明の太祖たらしめるなかれ」と書いたのは、蒋へのこういう評価無しには理解されえないもので、あなたも何度か中江さんの蒋評価に言及されていると記憶しますが、当然のことでありながら、今日十分に我が国でそういう観念が成立しているとは言えないので、その点も今日有益だと考えます。
p.145
昭和43年(1968年)6月13日付書簡より
小生は近頃は中江さんの記録を書いておりませんが、もちろん書きたい気持ちは強く持っております。危なくて(書き誤りはしないかと)ペンが重くなる感じが増してきてなりません。若いとき臆面もなくもっと書いておくべきだったのかも知れません。ただ「病側の日記」だけは大兄のためにも、早く清書しておきたいと、これは(大学)紛争による気分の大疲労が静まり次第実行する考えでおります。
先月かその前か、「週刊新潮」?かで、東条首相暗殺未遂事件の実話物に、牛島辰熊氏(彼と津野田少佐-中江さんの没後、今田さんの紹介でよく貢院の家に来ました-との二人がその犯人?)からの聞き書をもとにした読み物が出ていました。その中に、牛島氏が、東条暗殺の根本動機は「北京の大学者中江丑吉先生の教えから感銘を受けた」事にあるというイミの話が出ていました。幼いときからの旧知である今田さん(新太郎少将、石原莞爾派)は別としても、何故こういう人々(右翼の大者小者)にとって中江さんが強い力を持っていたかという点は、まだ誰もよく記録していません。晩年のそういう事実だけは小生が一番良く知っているというわけですが、これをよく説明することは難しくてうまくいきません。つまりは人間論というところまで来ると小生などには能力が無く、いたずらに優れた文学者を待望するのみ、と言うわけでありましょう。-そういうこともふくめて中江さんのことを何でも彼でも大兄宛に手紙で書き送っておこうかという気の起こることもあります。もう中江さんより5つ以上も生きていると思うと、そんなに長いはずのない自分の残生で出来るだけ多く記録を残すとすれば、そういう形が一番書きやすいのでは無かろうか、と言う訳なのですが。
p.147~148
昭和46年(1971年)11月4日付書簡よりこの2通は上と同じく加藤惟孝発阪谷芳直宛書簡。この2つの書簡にあるように、加藤氏は中江丑吉の晩年と今田新太郎、牛島辰熊、津野田知重の絡む論文を上梓しようとされていたようなのだが、昭和47年、癌のため死去された。なので、「我が東条英機暗殺計画」のもうひとつの側面とか、それより何より満州事変以外の今田新太郎の姿などを知る手がかりは永久に失われてしまったのである…
私はいろいろな要因から、中江さんのことをもう少し積極的に書こうと考え、その手始めを今まで誰も余り書かなかった「今田新太郎のことなど」(仮称)-即ち、中江さんの外伝の一つである国士列伝?又は任侠列伝?-にすることにして準備を始めたのですが、以前『書簡集』の発行後、今田さんの令妹渡部桜夫人から私に贈られた中江さんの今田氏宛未発表書簡二通を原稿用紙に写しているうち、その見事さを今さら痛感し、これを更に写してあなたにプレゼントしようと思いました。…
書簡二について一つ解説を要するところがあるでしょう。この後半で三人の人物評をしており、牛島(辰熊)、岡部(平太)の両氏はご存じの訳ですが、残るもう一人の「めいご洞けんてき居士」は、前北支派遣軍司令官多田駿中将(のち大将)です。文の「小恵小仁」「美言美行」というのは、多田氏が旧友辻野朔次郎氏の死去の時現役の官職の形で辻野家を訪れあまつさえ葬列に加わり(この警備が大変なはた迷惑でしたが)、辻野家の老ボーイを召し出して息子の就職を保証すると言い、「これが最後の友情だ」と大変な美言を吐いたことを指しています。のちに中江さんの発病就床の時、次の司令官岡村(寧次)大将が「司令官はお見舞いに行けないから」と、代理人の人(小山貞知氏)を訪れさせたとき、中江さんは岡村氏を讃め、それに比して多田氏は司令官の器ではないというイミのことを申しました。文章にするときはもう少し書くことがありますが、右の通り。尚、牛島氏はこの書簡二のとき、中江さんから「この戦争は負けだ」といわれました。今田氏宛に、真珠湾以来当初の疾風迅雷ぶりを讃め、ただこれから後を謝るなと書いているのとそれを対比すれば、武田泰淳が、相手によってかき分ける中江さんの絶妙な高等戦術、と言うようなことを『書簡集』の書評で言っていたのが思い出されます。(後略)
p.156~157
長くなってしまったので、続く。
…軽薄なタイトルで済みません…
今田新太郎が第36師団に左遷されたとき、部下にやってきたのがこの津野田知重というまだ新米さんの参謀で、そのうち津野田が今田に私淑するようになってしまった…というのはこの時代に詳しい人なら有名な話だろう。
そして、その感情は今田が所属する第36師団ごと西ニューギニアの激戦地に送られたことで爆発、更に異動先の大本営で太平洋戦争の真の姿を知り、今田つながりで知り合いだった牛島辰熊(最強の柔道家と知られている木村正彦の師匠らしいです)と共謀、さらに石原莞爾の了承を得て東条英機を暗殺しようとしたという…
ぶっとびすぎてる。
ただ東条暗殺計画自体は海軍でも検討している人がいたみたいなんで、まあ当時においては朝起きて顔あらう程度の普通の発想だったんでしょう(ヲイ!)
ところで、津野田の今田に対する感情というのは中々熱いです。というか、知重さんの兄の忠重さんがこういう熱血スポ根タイプの文章書く人だったんだろうか…
ところで、検索したらこんなのを見つけてしまった。
プレビューで一部が見られるので、ご興味のある方は見て頂きたいのだが
はっきり言って何が何やら分かりませぬヾ(--;)
こんなの弟子に持ってた今田って…それとも莞爾を師匠にし中江丑吉を兄と思っていた今田にしてこの弟子なのか。
あ、でも末尾の津野田さんの遺族による後書きはかなり感動的です。いろいろあったのね、津野田さん。
おまけ1
牛島辰熊と今田新太郎と言えば、以前検索でこんなネタを見つけたのだが
※ちなみに増田俊也は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
』の著者
おまけ2
津野田忠重・知重兄弟の父・是重さん
今田新太郎が第36師団に左遷されたとき、部下にやってきたのがこの津野田知重というまだ新米さんの参謀で、そのうち津野田が今田に私淑するようになってしまった…というのはこの時代に詳しい人なら有名な話だろう。
そして、その感情は今田が所属する第36師団ごと西ニューギニアの激戦地に送られたことで爆発、更に異動先の大本営で太平洋戦争の真の姿を知り、今田つながりで知り合いだった牛島辰熊(最強の柔道家と知られている木村正彦の師匠らしいです)と共謀、さらに石原莞爾の了承を得て東条英機を暗殺しようとしたという…
ぶっとびすぎてる。
ただ東条暗殺計画自体は海軍でも検討している人がいたみたいなんで、まあ当時においては朝起きて顔あらう程度の普通の発想だったんでしょう(ヲイ!)
ところで、津野田の今田に対する感情というのは中々熱いです。というか、知重さんの兄の忠重さんがこういう熱血スポ根タイプの文章書く人だったんだろうか…
恋しい女に会いたいという女々しい心情とは雲泥の差師とも仰いでいた今田新太郎が上海にいるのである。前にも紹介したことあるけど、どう見ても「私たちの間を誤解して下さい」という文章であるヾ(--;)
(中略)
思わず今田新太郎の手を、しっかりと握(※ばんない注 後半が省略されてしまってるが、恐らく「握りしめ」辺りだろう)
http://books.google.co.jp/books?ei=16mZUefRIYLjlAWI7IG4Dw&hl=ja&id=KCFOAAAAMAAJ&dq=%E6%88%91%E3%81%8C%E6%9D%B1%E6%9D%A1%E8%8B%B1%E6%A9%9F%E6%9A%97%E6%AE%BA%E8%A8%88%E7%94%BB&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E#search_anchor
ところで、検索したらこんなのを見つけてしまった。
プレビューで一部が見られるので、ご興味のある方は見て頂きたいのだが
はっきり言って何が何やら分かりませぬヾ(--;)
こんなの弟子に持ってた今田って…それとも莞爾を師匠にし中江丑吉を兄と思っていた今田にしてこの弟子なのか。
あ、でも末尾の津野田さんの遺族による後書きはかなり感動的です。いろいろあったのね、津野田さん。
おまけ1
牛島辰熊と今田新太郎と言えば、以前検索でこんなネタを見つけたのだが
牛島辰熊先生と今田新太郎少佐(当時)が腕の血をすすり合って義兄弟の契りを結んだように、http://blog.goo.ne.jp/judojapan09/e/5986c9a872298f807f8306896dc05376増田俊也よマジかその話は
※ちなみに増田俊也は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
おまけ2
津野田忠重・知重兄弟の父・是重さん
エリート街道を進んでいたが、いろいろな逸話を残し、頭が良すぎたために大正8年少将になったとたん陸軍辞めさせられる。どう見ても石原莞爾そのものでございます本当にありがとうございました
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tsunoda_k.html
続きです。まだまだあるぞ~。
彼(※ばんない注 中江丑吉)は曹如霖から研究の資を給され、後には兆民の友、西園寺公望から研究の援助を受け、また西園寺の斡旋や今田新太郎の仲介で満鉄の学術研究奨励費の中から補助を受けたこともあった。
p.305
北京に住んだ鈴江言一や加藤惟孝は中江に師事し、満鉄の伊藤武雄や今田新太郎は中江に傾倒して措かなかった。今田は当時「陸軍の黒ひょう」とあだなされ後に反東条をもって鳴った慓悍な一将軍であった。
p.309
彼(※ばんない注 中江丑吉)は幼な友達の友情にふれて、こうのべている。
「今田(新太郎)が、自分に心服し、付いてくるのは、自分が優れた理論を言うからとか、高い識見を持っているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致の所を自分の行動を見て、それで付いてくるのである。」
p.351
彼(※ばんない注 中江丑吉)によれば日中戦争は日本にとって命取りの癌であり、もはや治療方法はないと見ていた。だが決して超越的傍観を楽しんでいたのではない。事変の「不拡大方針」の頃、訪れた守屋典郎氏に、この戦争を世界戦争への序曲だと断定しながらも、今田新太郎中佐に対華戦争の失敗すべき事を説き、参謀本部の石原莞爾派に拡大を防止するように勧告したらしい。
「世外の一書生よりも見るも、現在の情勢の如くんば嘗つて昨年小生申し上げたる通りの結果を実現しつつある訳にて全く憂慮に不堪、機断を加ふる以外には如何なる『手』も無しと確信致居候」(昭和13年8月11日付、今田宛、『書簡集』348頁)。果たして、如何なる断を加えよと言うのか。参謀本部で石原らに回覧熟読されたという、その書簡は既にない。
p.366~367
「十余年の歳月は其間幾多の紆余曲折はありたるも、其泉流は今や滔々たる流れとなって闇黒の裡に海口に注がんとしつつあり、暗黒にあるも颯々たる潮風やホウ(※ばんない注 さんずいに「崩」)渤たる波濤の声はも早や如何なる愚人の耳や心をも欺く不能」(昭和16年3月3日付、今田宛、『書簡集』352頁)この年の末に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発し、ますます日本は転落していきます。満州事変のトリガーを引き、そして日中戦争を身体を張って止めようとした今田はこの一文をどう受け取ったか、気になるところですが…返事が残ってない(T∀T)
p.372~373
今回から、いろんな本に出てくる今田新太郎を捜してみようと思う。-まとまった史料がないので…
今回取り上げる本は『中江丑吉の人間像-兆民を継ぐ者』阪谷芳直・鈴木直編 風媒社刊
なお、中江本は色々あり、同じ文が再掲されることが多く、重複することもあるかと思いますがご容赦下さい。
長くなったのでここでいったん切ります。
今回取り上げる本は『中江丑吉の人間像-兆民を継ぐ者』阪谷芳直・鈴木直編 風媒社刊
なお、中江本は色々あり、同じ文が再掲されることが多く、重複することもあるかと思いますがご容赦下さい。
昭和17年8月30日北京の旧宅で、無宗教告別式が行われた。曹如霖氏と阪谷希一氏とが主催した。大正岡村寧次の姿も見えた。武官時代の知合であろう。少将今田新太郎はかねて反東条派として山西省路(※正しくはさんずいに「路」)安に追いやられていたが、激越な弔文を寄せた。残念ながらこの弔文は残ってないようだ…読みたかった
p.32
蘆構橋事件が起こったとき、中江さんは海水浴のため九州小浜海岸について2,3日目であったが、そくざに1ヶ月の予定を切り上げて北京に帰ってしまわれた。長期の戦乱が来たのに避暑することはつつしむべきだというのであった。やはりそのころ少時から親しんだ後輩の今田新太郎大佐宛に、今度の事変は蒋介石を明の太祖たらしめるものだ、と言う意味の手紙を送っていられる。
p.80~81
7月24日~7月27日
(中略)
27日。午前中、7度台に下る。今田氏(新太郎大佐)より加藤(※ばんない注 惟孝、丑吉の弟子の一人で後東京教育大教授)宛の手紙、「そんなマヅイ食物ばかり差上げないで、鯛の茶漬とか鯵の干物とかもっとオツリキなものを工夫すべし」と書いてある。中江さんいわく「オツリキで栄養のない物を食ったら死んでしまう。まずいのは病気にとって当然だ。ジンギスカンなら狩りをする気で戦争したろうが、近代戦に苦痛(シュメルツ)はつきものだ。自分はシュメルツに耐えて戦争する也、と返事に書いてくれ。」
p.151
7月30日。
(中略)
…他の人へは返事は書いてくれたか。」今田老人(新太郎大佐の老母)がまだだから、食物の話(7月27日参照)を書いた息子さんの手紙を同封してあげましょうかというと、「イカンイカン、お前はどこかに抜けたところがある。今田はオッカサンの前ではあんなくだけた態度は見せない。親子の間のそういう秘密が分からなくては駄目だ。」
p.154
もちろん、私などには、そのヘンリンも見せてくれなかったが、中江さんのこの頃の(※ばんない注 蘆構橋事件の頃)気持ちの中には、支那事変の始末をどうするかと言うことで、支那を知らない日本軍部のやり方に大きな批判があったようである。親しい参謀本部付の今田少佐への手紙にうかがわれる。8月11日付の今田少佐への手紙には
「世界の一書生より見るも、現在の情勢の如くんば嘗つて昨年小生申し上げたる通りの結果を実現しつつある訳にて全く憂慮に不堪、機断を加ふる以外には如何なる”手”もなしと確信致居候
然し乍ら四億万と一億に近き人間が機に水を隔つるのみ(に)て生存せる事実は、如何なる力を持ってするも抹殺し得科からざる事実也、目前一時の情勢には勿論悲観するも大局上は毫も悲観の用なし、一日も早く大道に復興する日を熱望するのみにて候」…
とある。
その註に「事変の拡大方針の決定前後に中江は今田少佐に、拡大すると長引いて大変な結果になるぞ、と言う意味の書簡を送った。その文中に”蒋介石をして明の太祖たらしむる勿れ”という言葉のあったことを今田が口にしており、これを今田は参謀本部で石原莞爾その他と、廻覧し熟読したと言うが、この書簡は見あたらない」
p.209~210
帝国陸軍の天才と謳われた石原莞爾中将については、その鋭い頭脳、禅僧のような克己、予言者的性格に加えて、「反東条」に由来する悲運の故に、今なお信仰者が絶えないが、私(※ばんない注 阪谷芳直のこと)自身にあっても、父(※ばんない注 阪谷希一)が満州建国で生死を共にした数多い軍人中、高い評価を与えていた唯一の軍人が石原であった影響もあり、稚い頭の中でこの人だけは特別の軍人だというイメージが、いつの間にか根を張っていた。中江さんが幼時から親しみ後輩として導いた人に、石原莞爾の一の子分と称され、「陸軍の黒豹」と渾名された剽悍な一将軍今田新太郎少将があり、日華事変末期から太平洋戦争勃発にかけて、「反東条」をもって鳴っていたのを睨まれ、山西省路安に追いやられていたことなどから、私は中江さんも当然石原将軍に好意と同情を寄せている物と決め込んでいた。(後略)なお、この後阪谷芳直との会話の中で、中江は「バカなことを言うな!東条の石原処断は正しい。石原といえども軍律に違背すれば、容赦なく処断すべきが当然だ。君はこんな事を見誤っちゃあいかんよ。」と阪谷をしかり飛ばしたそうだ。
p.260
中江さんは軍人との交友もあった。私(※ばんない注 小倉倉一 のち札幌大学教授)は中江宅で、居合わせて、二度ほど今田新太郎将軍(当時大佐)にあったことがある。今田は中江さんに心服している軍人の一人だった。中江さんの死後、私はこの将軍と親しくつき合うようになった。人間としてすぐれた人だったが、終戦後幾ばくもなく他界した。この文を書いた小倉倉一(のち札幌大学教授)は晩年の今田の事を良く知っていた一人と思われるが、残念な事に晩年の今田新太郎についてはこれくらいしか文章を残していない。やはり昭和32年(1957年)の花谷正証言で柳条湖事件の実行犯であることがばれ、話すことがはばかられるようになったことが起因していると思われる。
p.299
さきのべた今田将軍は、「火の玉」とあだ名された果断のタイプの軍人であったが、その今田を例にとり、中江さんは次のように言ったことがある。
「今田が、自分に心服し、ついてくるのは、自分がすぐれた理論を言うからとか、高い識見を持っているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致のところを、自分の行動を見て、それでついてくるのである。」
p.302
長くなったのでここでいったん切ります。