拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
またまた石原莞爾本から紹介。
今回は石原莞爾の日記です…が、莞爾の日記って事項の簡単な羅列だけで、色気も素っ気もないんだわな。
余り期待せずにどうぞ(^^;)
・参照したのは『石原莞爾選集9 書簡・日記・年表』です 昭和4~6,10~12、14~16年分が載っています
それ以降も日記が残っているようですが(鶴岡市立図書館所蔵)、自筆本のみで翻刻されていないようです。
…ま、今田は18年以降ニューギニアに飛ばされてしまって出てくる可能性は0なんで_| ̄|○
・本文は漢字カタカナ交じり文ですが、入力がめんどくさいので(をい)漢字ひらがな交じり文にしております 御了承下さい
昭和6(1931年)
(中略)
4/4 午後、今田君来る、一泊。
4/5(日) 板垣さんを今田と共に訪問
昼食大和ホテル、夕食弥生
(中略)
5/31(日) 朝、花谷、今田両氏来り板垣大佐宅にて謀略に関する打ち合わせ
午後、雄峰会に出席、終電車にて帰る
(中略)
8/2(日) 午前10時半林総領事訪問、物別れとなり、直ちに中央部に打電、午後、今田訪問、玉翠にて御馳走になり8時半出発
(中略)
8/26 奉天にて病臥中の花谷にあひ後、今田と守備隊訪問
急行にて安奉線へ、鶏冠山泊り
(中略)
9/14 長春検閲
今田帰る
15日の会議を約し今田かえる
9/15 奉天検閲第一日
午後9時半より機関にて会議、これに先立ち建川来る飛電あり午前3時にまでの議論の結果中止に一決
9/16 出発前三谷をよぶ
今田、中野氏より18日に決定
遼陽巡視
夜、今田、中野来り打合せ
本夜緒戦
9/17 遼陽検閲終了
河村大佐へ依頼
9/18 緒戦は成功せざりしが如し
朝甘粕来る
<ばんない注>
・板垣さん:板垣征四郎
・大和ホテル:満鉄経営の高級ホテルチェーン。ここに出てくるのは旅順か奉天のヤマトホテル。
・雄峰会:満州青年協会と並んで在満州の有力な日本人団体の一つ。その後満州国の運営にも参画するが、ケンカ別れする。ちなみに満州青年協会の有力メンバーの一人が小沢開作(あの小澤征爾の父)
・林総領事:林久次郎奉天総領事(当時)。当時のメモは書籍化されている。(満州事変と奉天総領事―林久治郎遺稿 (1978年)
)
・建川:建川美次参謀本部第1本部長(当時)。戦後の花谷正証言では謀略に賛成していたとするが、今村均が当時聞いた話では「全然聞いてなかった!」とのこと(『今村均回想録』)。
・三谷:三谷清奉天憲兵分隊長(当時) 後に事変のどさくさに紛れて東北軍閥の親族・張作涛の財産を横領していたことがばれる。
・中野:中野良次関東軍参謀(当時)
・河村:河村大作予備役大佐。あの張作霖爆殺事件の首謀者である。
・甘粕:甘粕正彦予備役大尉。有名すぎて書くこと無いけど、この後満州国の"帝王"となり、石原莞爾と対立。
昭和12年(1937年)
(中略)
3/9 甘粕来る
和、浅、今と懇談
(後略)
<ばんない注>
・和:和田勁予備役大尉、当時満州国協和会幹部。戦後あの辻政信をかくまったらしい…万死に値する(ヲイ)
・浅:浅原健三、満州国協和会幹部にして石原莞爾のブレーンの一人。『反逆の獅子―陸軍に不戦工作を仕掛けた男・浅原健三の生涯
』に詳しい。
昭和14年(1939年)
(中略)
5/1 白柳氏より資金につきの来信宮崎氏に頼む大橋忠一、中山優、今川氏、今田より来信
(中略)
6/29 今田より鷲崎のことにつき航空便あり直ちに返信
新任学ム部長来訪
神田一の照会にて佐藤清作氏来り司令部にて中食してかへる
與論指導要領中
「東亜共同体論につき」
なる馬鹿げた一項あり
今川の紹介にて蒙彊の菅沼青年来る
(中略)
8/1 午後4時発表
多田将軍及今田より来信
(中略)
9/2 平林、中村源彦、白柳、牛島、今田、杉浦等来る
今田呼び出されたる理由驚く外なし
(中略)
9/4 今田、牛島と共に来り取調のことを聞く
(中略)
9/19 川越大佐の砲操典講話
午前11時頃平林君来訪左件依頼
1 阿南中将に
2 飯村中将に 今田
3 忠霊塔の件
<ばんない注>
・白柳氏:白柳秀湖 この当時は歴史研究家
・宮崎氏:宮崎正義 満鉄調査部からヘッドハンティングされた経済専門家。石原莞爾のブレーンの一人。
・大橋忠一:ハルピン総領事(当時)戦後は衆議院議員。
・中山優:建国大学教授(当時)莞爾等の三顧の礼を以て教授就任。その直後に莞爾に「満州事変って関東軍のヤラセなんでしょ」と言ったとかいう勇者。
・今川氏:不詳 恐らく後述の「今川」と同一人物かと
・鷲崎:不詳
・神田一:不詳
・佐藤清作:不詳
・今川:不詳。後述の菅沼青年の紹介者であるところから見て蒙彊連合自治政府の関係者?
・菅沼青年:「蒙彊の」と書いてあるところから見て蒙彊連合自治政府の関係者?
・午後4時発表:この日正式に石原莞爾に対して中将への進級と第16師団長付任命が決まった
・多田将軍:多田駿
・平林:平林盛人 石原莞爾とは士官学校同期であったが、この頃から親交が深まり、莞爾が亡くなるまで無二の親友だった。
・中村源彦:不詳
・牛島:牛島辰熊 今田の友人で、「最強の柔道家」木村政彦の師匠。
・杉浦:杉浦晴雄 石原莞爾の秘書。そのぶっ飛びぶりは拙ブログのこの辺りで。
・川越大佐:不詳
・阿南中将:阿南惟幾 石原莞爾が頭が上がらなかった数少ない軍人。
・飯村中将:飯村譲 日米戦争は必敗すると報告したが東条英機に無視されたらしい…戦時中の日本ってこんなのばっかり
昭和15年(1940年)
(中略)
2/9 今田より来信「東亜連盟」未見との事直ちに木村氏に要求
(後略)
<ばんない注>
・木村氏:木村武雄 衆議院議員、東亜連盟初代代表
昭和6年については満州事変ネタで散々取り上げたので略
その他についてちょっと気になること
今回は石原莞爾の日記です…が、莞爾の日記って事項の簡単な羅列だけで、色気も素っ気もないんだわな。
余り期待せずにどうぞ(^^;)
・参照したのは『石原莞爾選集9 書簡・日記・年表』です 昭和4~6,10~12、14~16年分が載っています
それ以降も日記が残っているようですが(鶴岡市立図書館所蔵)、自筆本のみで翻刻されていないようです。
…ま、今田は18年以降ニューギニアに飛ばされてしまって出てくる可能性は0なんで_| ̄|○
・本文は漢字カタカナ交じり文ですが、入力がめんどくさいので(をい)漢字ひらがな交じり文にしております 御了承下さい
昭和6(1931年)
(中略)
4/4 午後、今田君来る、一泊。
4/5(日) 板垣さんを今田と共に訪問
昼食大和ホテル、夕食弥生
(中略)
5/31(日) 朝、花谷、今田両氏来り板垣大佐宅にて謀略に関する打ち合わせ
午後、雄峰会に出席、終電車にて帰る
(中略)
8/2(日) 午前10時半林総領事訪問、物別れとなり、直ちに中央部に打電、午後、今田訪問、玉翠にて御馳走になり8時半出発
(中略)
8/26 奉天にて病臥中の花谷にあひ後、今田と守備隊訪問
急行にて安奉線へ、鶏冠山泊り
(中略)
9/14 長春検閲
今田帰る
15日の会議を約し今田かえる
9/15 奉天検閲第一日
午後9時半より機関にて会議、これに先立ち建川来る飛電あり午前3時にまでの議論の結果中止に一決
9/16 出発前三谷をよぶ
今田、中野氏より18日に決定
遼陽巡視
夜、今田、中野来り打合せ
本夜緒戦
9/17 遼陽検閲終了
河村大佐へ依頼
9/18 緒戦は成功せざりしが如し
朝甘粕来る
<ばんない注>
・板垣さん:板垣征四郎
・大和ホテル:満鉄経営の高級ホテルチェーン。ここに出てくるのは旅順か奉天のヤマトホテル。
・雄峰会:満州青年協会と並んで在満州の有力な日本人団体の一つ。その後満州国の運営にも参画するが、ケンカ別れする。ちなみに満州青年協会の有力メンバーの一人が小沢開作(あの小澤征爾の父)
・林総領事:林久次郎奉天総領事(当時)。当時のメモは書籍化されている。(満州事変と奉天総領事―林久治郎遺稿 (1978年)
・建川:建川美次参謀本部第1本部長(当時)。戦後の花谷正証言では謀略に賛成していたとするが、今村均が当時聞いた話では「全然聞いてなかった!」とのこと(『今村均回想録』)。
・三谷:三谷清奉天憲兵分隊長(当時) 後に事変のどさくさに紛れて東北軍閥の親族・張作涛の財産を横領していたことがばれる。
・中野:中野良次関東軍参謀(当時)
・河村:河村大作予備役大佐。あの張作霖爆殺事件の首謀者である。
・甘粕:甘粕正彦予備役大尉。有名すぎて書くこと無いけど、この後満州国の"帝王"となり、石原莞爾と対立。
昭和12年(1937年)
(中略)
3/9 甘粕来る
和、浅、今と懇談
(後略)
<ばんない注>
・和:和田勁予備役大尉、当時満州国協和会幹部。戦後あの辻政信をかくまったらしい…万死に値する(ヲイ)
・浅:浅原健三、満州国協和会幹部にして石原莞爾のブレーンの一人。『反逆の獅子―陸軍に不戦工作を仕掛けた男・浅原健三の生涯
昭和14年(1939年)
(中略)
5/1 白柳氏より資金につきの来信宮崎氏に頼む大橋忠一、中山優、今川氏、今田より来信
(中略)
6/29 今田より鷲崎のことにつき航空便あり直ちに返信
新任学ム部長来訪
神田一の照会にて佐藤清作氏来り司令部にて中食してかへる
與論指導要領中
「東亜共同体論につき」
なる馬鹿げた一項あり
今川の紹介にて蒙彊の菅沼青年来る
(中略)
8/1 午後4時発表
多田将軍及今田より来信
(中略)
9/2 平林、中村源彦、白柳、牛島、今田、杉浦等来る
今田呼び出されたる理由驚く外なし
(中略)
9/4 今田、牛島と共に来り取調のことを聞く
(中略)
9/19 川越大佐の砲操典講話
午前11時頃平林君来訪左件依頼
1 阿南中将に
2 飯村中将に 今田
3 忠霊塔の件
<ばんない注>
・白柳氏:白柳秀湖 この当時は歴史研究家
・宮崎氏:宮崎正義 満鉄調査部からヘッドハンティングされた経済専門家。石原莞爾のブレーンの一人。
・大橋忠一:ハルピン総領事(当時)戦後は衆議院議員。
・中山優:建国大学教授(当時)莞爾等の三顧の礼を以て教授就任。その直後に莞爾に「満州事変って関東軍のヤラセなんでしょ」と言ったとかいう勇者。
・今川氏:不詳 恐らく後述の「今川」と同一人物かと
・鷲崎:不詳
・神田一:不詳
・佐藤清作:不詳
・今川:不詳。後述の菅沼青年の紹介者であるところから見て蒙彊連合自治政府の関係者?
・菅沼青年:「蒙彊の」と書いてあるところから見て蒙彊連合自治政府の関係者?
・午後4時発表:この日正式に石原莞爾に対して中将への進級と第16師団長付任命が決まった
・多田将軍:多田駿
・平林:平林盛人 石原莞爾とは士官学校同期であったが、この頃から親交が深まり、莞爾が亡くなるまで無二の親友だった。
・中村源彦:不詳
・牛島:牛島辰熊 今田の友人で、「最強の柔道家」木村政彦の師匠。
・杉浦:杉浦晴雄 石原莞爾の秘書。そのぶっ飛びぶりは拙ブログのこの辺りで。
・川越大佐:不詳
・阿南中将:阿南惟幾 石原莞爾が頭が上がらなかった数少ない軍人。
・飯村中将:飯村譲 日米戦争は必敗すると報告したが東条英機に無視されたらしい…戦時中の日本ってこんなのばっかり
昭和15年(1940年)
(中略)
2/9 今田より来信「東亜連盟」未見との事直ちに木村氏に要求
(後略)
<ばんない注>
・木村氏:木村武雄 衆議院議員、東亜連盟初代代表
昭和6年については満州事変ネタで散々取り上げたので略
その他についてちょっと気になること
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今回は中江丑吉本ではなく、石原莞爾本から。
『秘録 石原莞爾』は莞爾の友人の一人・横山臣平による莞爾の伝記ですが、参考文献の引用がかな~り緩い。どこからどこまでが本人が見聞きした話かはっきりせん。莞爾関連論文や関連本では絶対と言うほど引用されている本ですが、取り扱い要注意かも。
ではまいる。
・多田中将:多田駿 支那通軍人として知られる。トラウトマン工作で反対派の米内光政海軍大臣ほか宮中グループと対立、号泣しながら説得するも屈した話は割と有名かも。「めいご洞けんてき居士」。川島芳子の「パパ」ヾ(--;)。東条英機によって予備役編入後、あの甘粕正彦と四国をお遍路したという噂を聞いたが本当か?
・河辺大佐:河辺虎四郎 最後の参謀次長、戦後も「河辺機関」などで活動した。多分仕事が出来る人なんだと思う。『今村均回想録』では、この不拡大路線に反対する関東軍(この時今村均は関東軍参謀副長に左遷中)に説得に赴き、更に今村に対して道理がなってない旨(満州事変時、不拡大を説く今村が参謀本部課長だったときに、事変を起こした石原が関東軍参謀という逆の立場だった)を言った話は割と有名かも。
・高嶋中佐:高嶋辰彦 今田とは士官学校、陸軍大学校と同期で、「追悼録」(士官学校第30期生)でも今田の追悼文を書いた。多分同期では今田と一番仲良かった親友なんではないかと思う。同期なのに既に1階級上なのは、高嶋は陸大首席卒だからではないかな。
・堀場少佐:堀場一雄 服部卓四郎、西浦進と並んで「陸軍三羽がらす」と言われた人らしい…濃いメンツだな。今田同様に50代で早世。
・武藤章:A級戦犯として処刑された人の一人として知られている。実は、石原莞爾がドイツ留学時代に熱心に日蓮宗に引き込もうとしたらしい(○。○)(『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』)。莞爾は武藤の才気を買ってたようだが、この文章のように「飼い犬に手を噛まれ」た状態となり、莞爾は左遷される。どうもこれを根に持たれてたんじゃないの~? しかし、武藤も後には…。
・冨永大佐:冨永信政 こういう人らしい。経歴見てると学校ばっかりで余り現場仕事に向いてない人のような…。
・高橋担:誰か御教示御願いしますヾ(--;)
・後宮軍務局長:後宮淳「うしろくじゅん」という。「あとみや」じゃないのか。ちなみに京都出身らしい、どすえ。東条英機のコピーと呼ばれ、米内光政はじめ多くの人に嫌われていたようだ。なので、この時は莞爾側だったというのはかなり意外。
・柴山軍務課長:柴山兼四郎 実は満州事変の時の張学良顧問。と言う事は今田はこの人の輔佐…だったはずなのだが、どうも一緒に仕事してた形跡がない…。経歴も民間の大学(拓殖大)中退からの途中編入、しかも影の薄い軸重兵科出身とかなり異色の人。士官学校で河辺虎四郎の同期。
・杉山大臣:杉山元 「ゆる元」とか「ぐず元」とか…あんまり良い評価聞いたこと無い人なんだが、これでも一応元帥閣下なのですはい
・梅津次官:梅津美治郎 石原莞爾本では必ず登場する、実は東条英機よりこっちの方が莞爾最大の敵。満州事変での莞爾の「下克上」な行動を憎んでいたからとも。だから、ここで「日和見的」と横山臣平が評しているのは意外。
・田中新一:日中戦争、太平洋戦争とずっと強硬派の人。太平洋戦争の時なんかは先述の武藤章は回避派だったのに、部下の田中が押し切ったような物である。しかし、戦後戦犯になったのは上司の武藤で、田中は全くのおとがめ無しであった。後に東条英機と大げんかしたのが有利になったとも。
『秘録 石原莞爾』は莞爾の友人の一人・横山臣平による莞爾の伝記ですが、参考文献の引用がかな~り緩い。どこからどこまでが本人が見聞きした話かはっきりせん。莞爾関連論文や関連本では絶対と言うほど引用されている本ですが、取り扱い要注意かも。
ではまいる。
石原は少年時代から世界史の研究を重視し、士官学校の時には同郷の先輩で海軍きっての国防論の大家、佐藤鉄太郎(後の中将、海軍大学校長)を訪ねて教えを受けていたが、陸大入学後もしばしば佐藤中将と会談して、日本国防論について意見を交換していた。余談ですが、佐藤鉄太郎は満州事変の時、石原莞爾が高い功績を挙げて帰国したにも関わらず、何も言わず表に出ないようにしているのを見て、それを誉めています。が、その一方で「満州事変が今後の日本に暗い影を落とす」と見抜いた数少ない軍人でもあります。(『石原莞爾 生涯とその時代』)…事変の真相を知ったらひっくり返っただろうな。
当時は日本の国防問題について、「北守南進論」などが論議された時代であったから、佐藤にとっても、石原が無二の話し相手であった。
石原が筆者によく話してくれた海軍としての日本の国防論は、石原のかねての構想に、佐藤の意見が強く反映している点が少なくなかったように感ぜられた。
陸大では毎週1回、海軍軍令部員の海軍作戦に関する講義を受けたが、その際最も多く質問するのは石原で、よく海軍部員の説明に対する急所に触れて、適切な点を突いていた。
要するに石原の日本国防論には、海軍特に佐藤の主張する国防理論が多く加味されていたことは事実で、石原が仙台の歩兵第4連隊長の時、参謀本部第1課の今田新太郎少佐(満州事変計画者の一人で、石原が最も信頼せる硬骨漢)から「石原は海軍論者であるという上官が多いから、陸海総合の国防意見書を書いてくれ」と要求され、石原はこれに対し「軍事上より見たる我が国の国策、並びに国防計画要綱」と言う意見書を提出している。(昭和8年6月)
p.111~112
昭和6年6月、参謀本部は関東軍参謀長三宅少将を招致して、中央の方針を伝え、張政権との間に事件が起こっても、極力局限し、大事にならぬよう厳戒したのであった。
ところが石原参謀等は、この中央の方針を耳にするや、「腰抜け」とののしり、不服の態度を示し、独断専行癖の強い石原は静かに情勢の推移を観じつつ、関東軍独自の対策に耽っていた。
これにまず同調したのは、特務機関の花谷正少佐であった。板垣参謀は初め、関東軍単独解決案に不賛成であったが、石原の理論と熱意に動かされて、石原と行動を共にすることになり、この三人で現地解決の方法を内密に研究したのである。後に張学良顧問府輔佐の今田新太郎大尉を加え、この四人だけで満州事変という大事業に着手して、細部の計画を立案したのである。
この他には朝鮮軍参謀の神田中佐にだけ大要をあかし、その協力を求めて賛成を得た。
なお永田軍事課長、建川第一部長、小磯軍務局長、橋本欣五郎中佐、根本新聞班長などに打ち明けて、原則的に協力を約束したなどの記録があるが、いずれも憶測に過ぎない。
ただここに問題となることは、このような驚天動地の大計画を、直属上官の本庄軍司令官にも三宅参謀長にも事前に打ち明けていないことで、軍律上から見れば、越権、下克上の行為として許すべからざる大問題であるが、これに関しては後に述べることにする。
この計画は、石原参謀着任の時から着々と進められ、昭和6年初めには既に完成し、ただ実施期日を決定するのみであった。
この期日は、本庄軍司令官の各部隊初度巡視(司令官が任地到着後、部下各隊を視察する物)終了後に実行することは確定的であったが、9月28日との説もあった。それを18日に繰り上げ実行したのは、中央部が関東軍の陰謀を予知して「留め男」として派遣した参謀本部第一部長建川少将が18日に奉天着との電報に接したからである。
石原等が建川を説得することは難しくないが、もしも天皇の中止命令を携えてこられると、事面倒になるのを心配し、18日に繰り上げたとの説がある。又板垣と石原は建川の話を聞いた上で後図を策する考えであったが、今田大尉はこれに服さず、花谷を説き、同意がなければ単独で爆破を決行して事変を誘発するの決意が伺われた。花谷も遂に同意し、直ちに板垣と石原に伝えて説得し、建川が奉天着の18日夜10時30分、奉天の西北方約800mの柳条溝で満鉄の線路を爆破した。これが満州事変の口火であった。
p.151~153
これらの派閥対策に於いて、特に注目すべき事は、真崎(※ばんない注 甚三郎)、荒木(※ばんない注 貞夫)等の皇道派の首脳者達は若い将校の懐柔に意を用い、話術巧みに私恩を売り、これら将校の間に人気を博して派閥勢力の拡大を図ったことである。今田が皇道派将校から嫌われていたのは以前書いたことがあるが、もしかしてこれも原因?
(中略)
今田新太郎大尉(張学良補佐役として在満当時、石原と共に満州事変密造計画に参画し、後石原作戦課長の下に勤務した有為の将校)が甲府の歩兵連隊に勤務していたとき、真崎大将が特命検閲使として来府の際、同連隊の将校が駅頭に検閲使を出迎えた。
大将は、将校一同の敬礼を受けると「今田大尉はいるか」と言葉を書け、今田は満座の中でその肩をたたかれ、一般将校の注目を浴びた。これなどは公私混同も甚だしく、熱血漢今田にとっても迷惑至極であったと言われる。
p.248~249
石原の不拡大方針に対し、中央部内の意見は大きく二つに分かれた。いい加減な人物説明
参謀本部では、参謀次長の多田中将は石原と共に不拡大派の「リーダー」である。他に直接作戦に関係ある部員では、戦争指導課長の河辺大佐、高嶋中佐、今田少佐、堀場少佐等が不拡大を支持した。
これに対し最も露骨に石原に反対したのは作戦課長の武藤章大佐(後の中将)で、支那の抗日撫日の打倒を叫び、今こそそのチャンスであると強硬に激論した。
庶務課長の富永大佐が武藤に同調して拡大積極論者であったが、支那班長の高橋担中佐が短期解決説を発表したのは意外であった。
陸軍省では後宮軍務局長と柴山軍務課長外少数の者が石原を支持し、特に柴山は熱心に杉山大臣と梅津次官の説得に努めた。これに対し軍事課長の田中新一大佐は拡大派の急先鋒であった。
杉山と梅津は表面は事件の早期解決を希望していながら、省内の強硬派を押さえるだけの確固たる勇断が無く、大勢順応的であった。
p.288~289
・多田中将:多田駿 支那通軍人として知られる。トラウトマン工作で反対派の米内光政海軍大臣ほか宮中グループと対立、号泣しながら説得するも屈した話は割と有名かも。「めいご洞けんてき居士」。川島芳子の「パパ」ヾ(--;)。東条英機によって予備役編入後、あの甘粕正彦と四国をお遍路したという噂を聞いたが本当か?
・河辺大佐:河辺虎四郎 最後の参謀次長、戦後も「河辺機関」などで活動した。多分仕事が出来る人なんだと思う。『今村均回想録』では、この不拡大路線に反対する関東軍(この時今村均は関東軍参謀副長に左遷中)に説得に赴き、更に今村に対して道理がなってない旨(満州事変時、不拡大を説く今村が参謀本部課長だったときに、事変を起こした石原が関東軍参謀という逆の立場だった)を言った話は割と有名かも。
・高嶋中佐:高嶋辰彦 今田とは士官学校、陸軍大学校と同期で、「追悼録」(士官学校第30期生)でも今田の追悼文を書いた。多分同期では今田と一番仲良かった親友なんではないかと思う。同期なのに既に1階級上なのは、高嶋は陸大首席卒だからではないかな。
・堀場少佐:堀場一雄 服部卓四郎、西浦進と並んで「陸軍三羽がらす」と言われた人らしい…濃いメンツだな。今田同様に50代で早世。
・武藤章:A級戦犯として処刑された人の一人として知られている。実は、石原莞爾がドイツ留学時代に熱心に日蓮宗に引き込もうとしたらしい(○。○)(『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』)。莞爾は武藤の才気を買ってたようだが、この文章のように「飼い犬に手を噛まれ」た状態となり、莞爾は左遷される。どうもこれを根に持たれてたんじゃないの~? しかし、武藤も後には…。
・冨永大佐:冨永信政 こういう人らしい。経歴見てると学校ばっかりで余り現場仕事に向いてない人のような…。
・高橋担:誰か御教示御願いしますヾ(--;)
・後宮軍務局長:後宮淳「うしろくじゅん」という。「あとみや」じゃないのか。ちなみに京都出身らしい、どすえ。東条英機のコピーと呼ばれ、米内光政はじめ多くの人に嫌われていたようだ。なので、この時は莞爾側だったというのはかなり意外。
・柴山軍務課長:柴山兼四郎 実は満州事変の時の張学良顧問。と言う事は今田はこの人の輔佐…だったはずなのだが、どうも一緒に仕事してた形跡がない…。経歴も民間の大学(拓殖大)中退からの途中編入、しかも影の薄い軸重兵科出身とかなり異色の人。士官学校で河辺虎四郎の同期。
・杉山大臣:杉山元 「ゆる元」とか「ぐず元」とか…あんまり良い評価聞いたこと無い人なんだが、これでも一応元帥閣下なのですはい
・梅津次官:梅津美治郎 石原莞爾本では必ず登場する、実は東条英機よりこっちの方が莞爾最大の敵。満州事変での莞爾の「下克上」な行動を憎んでいたからとも。だから、ここで「日和見的」と横山臣平が評しているのは意外。
・田中新一:日中戦争、太平洋戦争とずっと強硬派の人。太平洋戦争の時なんかは先述の武藤章は回避派だったのに、部下の田中が押し切ったような物である。しかし、戦後戦犯になったのは上司の武藤で、田中は全くのおとがめ無しであった。後に東条英機と大げんかしたのが有利になったとも。
終戦の日なので、それっぽいネタを。
今田新太郎が最後に配属されたのが第36師団(コードネーム"雪")なのだが、そこの最後の師団長を務めたのが田上八郎中将である。
ところがこの人、今田どころじゃないくらい情報がない。
今のところ私が入手できた唯一の第36師団関係の本『戦場の聴診器―ニューギニア戦で6回死んで90歳、「おお先生」は今日も走る
』にわずかに出てくる情報+ネットで拾った情報から田上さんがどんな人か見てみよう。
今田新太郎が最後に配属されたのが第36師団(コードネーム"雪")なのだが、そこの最後の師団長を務めたのが田上八郎中将である。
ところがこの人、今田どころじゃないくらい情報がない。
今のところ私が入手できた唯一の第36師団関係の本『戦場の聴診器―ニューギニア戦で6回死んで90歳、「おお先生」は今日も走る
かなり前に、検索で調べていたときに
「2.26事件の首謀者・村中孝次と磯部浅一が今田新太郎のことを糾弾していた」
という話をどこぞで見て、「どうして?何で?」と、気にはなっていたのだが…
ネタ元はこれのようだ。
粛軍ニ関スル意見書
そもそも何故この文書が作られたかというと、「陸軍士官学校事件」と言う陸軍内の大派閥抗争があり、その結果「皇道派」という派閥に属するとされた村中と磯部が処罰されたという事件があったのですな。
…ところが、どうもこれは濡れ衣というか誘導作戦にのってしまったというか…。村中と磯部は本当は無実だったようで、この告発書によると「一番悪いのは片倉衷と辻政信!」らしいです。
片倉に辻ですか…確かに胡散臭いメンバーですな(^^;)。
で、怒りの村中と磯部は上記の文書にて「陸軍内の害悪」として28名の名前を列挙したのでした。
※雑誌『維新』昭和10年1月号にうっかり載ってしまったのがひとくくりにされた理由のようです
ともかく、まだ歩兵第49連隊所属の平軍人(ヲイ)なのに南次郎(当時関東軍司令官)や松井石根(当時軍事参議官)その他ビッグメンバーと一緒に挙げられた今田君おめでとう…そういう問題か?ヾ(--;)
…というか、因縁の片倉とか辻とかと一緒にされたくないよね…。
おまけ
今田新太郎は神兵隊事件に関わったという噂があり、村中、磯部を初めとする皇道派将校達に宜しく思われていなかったようです。同じく「粛軍ニ関スル意見書」のこちら
ところで前から気になってたが「恩賜の拳銃」なんていつもらったんだ今田 恩賜の刀なら知ってるけど…(陸軍大学校卒業時に上位6名だけもらえる)
おまけ2
村中、磯部は昭和8年(1933年)の11/6~16に行われた宴会での内容も問題視しているようです。この宴会のメンバーも中々味わい深い。あの牟田口簾也が出席してる
「2.26事件の首謀者・村中孝次と磯部浅一が今田新太郎のことを糾弾していた」
という話をどこぞで見て、「どうして?何で?」と、気にはなっていたのだが…
ネタ元はこれのようだ。
粛軍ニ関スル意見書
そもそも何故この文書が作られたかというと、「陸軍士官学校事件」と言う陸軍内の大派閥抗争があり、その結果「皇道派」という派閥に属するとされた村中と磯部が処罰されたという事件があったのですな。
…ところが、どうもこれは濡れ衣というか誘導作戦にのってしまったというか…。村中と磯部は本当は無実だったようで、この告発書によると「一番悪いのは片倉衷と辻政信!」らしいです。
片倉に辻ですか…確かに胡散臭いメンバーですな(^^;)。
で、怒りの村中と磯部は上記の文書にて「陸軍内の害悪」として28名の名前を列挙したのでした。
関東軍司令官 南次郎大将 軍事参議官 松井石根大将…でもこの28人、よくよく見たら余りつながりがないというか…
第五師団長 小磯国昭中将 第十師団長 建井美次中将
第二十四旅団長 東条英機少将 関東軍参謀副長 板垣征四郎少将
三島重砲兵連隊長 橋本欣五郎大佐 第十一師団参謀長 重藤千秋大佐
歩兵第四十一連隊長 樋口季一郎大佐 第六師団参謀 佐藤幸徳中佐
第十六師団参謀 長勇少佐 駐支武官 影佐貞昭少佐
歩兵第四十六連隊 今田新太郎少佐 関東軍参謀 田中隆吉中佐
新聞班長 根本博大佐 前調査班長 坂西一良大佐
前調査班長 池田純久少佐 調査班 田中博少佐
露西亜班長 神田正種中佐 在広東 臼田寬三中佐
対満事務局 片倉衷少佐 軍事参議官 渡辺錠太郎大将
朝鮮軍司令官 植田謙吉大将 豪湾軍司令官 寺田寿一中将
関東軍憲兵司令官 岩佐緑郎少将 橋本次官 永田軍務局長 橋本軍事課長
※雑誌『維新』昭和10年1月号にうっかり載ってしまったのがひとくくりにされた理由のようです
ともかく、まだ歩兵第49連隊所属の平軍人(ヲイ)なのに南次郎(当時関東軍司令官)や松井石根(当時軍事参議官)その他ビッグメンバーと一緒に挙げられた今田君おめでとう…そういう問題か?ヾ(--;)
…というか、因縁の片倉とか辻とかと一緒にされたくないよね…。
おまけ
今田新太郎は神兵隊事件に関わったという噂があり、村中、磯部を初めとする皇道派将校達に宜しく思われていなかったようです。同じく「粛軍ニ関スル意見書」のこちら
ところで前から気になってたが「恩賜の拳銃」なんていつもらったんだ今田 恩賜の刀なら知ってるけど…(陸軍大学校卒業時に上位6名だけもらえる)
おまけ2
村中、磯部は昭和8年(1933年)の11/6~16に行われた宴会での内容も問題視しているようです。この宴会のメンバーも中々味わい深い。あの牟田口簾也が出席してる
まだ続く。多分これで終われるかな?
まずは史料から。
昭和21年8月3日に行われた中江丑吉5回忌の議事録です。
ちなみに今田はこの時抑留中で(田中隆吉はシンガポールとしているが、ニューギニア戦線と言うところから見るとホーランジアの間違いでは無かろうか?後考を期す)、この会には参加できませんでした。
ところで、「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」(『中江丑吉の肖像』阪谷芳直著所収)によると、昭和22(1947年),23(1948年)の中江忌には今田は参加しているようなんだが、その時の議事録は残っているんだろうか?あと、翌24年(1949年)の中江忌にもぎりぎり参加していそうなんだが…(今田は昭和24年8月29日死去)
次に中江丑吉年譜に見える今田さん。
なお、丑吉の姉・千美子によると幼少時の丑吉は「姉に箒で追いかけ回され泣いていた、何事にも不器用で、怒っていることが多く、外で遊んでばかりいて全然勉強できなかった」…そうなのだが、ホントにこんな丑吉のことを見習え!…といわれて新太郎は大きくなったのか?!うーむ
なお、今田は石原莞爾と東条英機との対立の余波を食らって台湾に転出後二度と中央に返り咲くことはなく、第36師団(雪兵団)参謀長就任も左遷人事だったといわれている。
まずは史料から。
昭和21年8月3日に行われた中江丑吉5回忌の議事録です。
ちなみに今田はこの時抑留中で(田中隆吉はシンガポールとしているが、ニューギニア戦線と言うところから見るとホーランジアの間違いでは無かろうか?後考を期す)、この会には参加できませんでした。
一般経過報告 高木基安この後、中江丑吉の北京の自宅や大量の蔵書がどう処分されたとか、子供無き中江家が絶家となったとか、いろいろ興味深い話が続いています。また、こういう事の決定に関与してきたという今田新太郎と中江丑吉との間がどれくらいの物だったかが伺えます。
胡・中江先生の後事に関し、北京の告別式執行後のだいたいの経過をご報告申し上げます。後事については、それぞれ若干の異動はありますが、阪谷希一氏、鈴江言一氏、伊藤武雄氏、今田新太郎氏、小倉倉一氏、中下魁平氏、加藤惟孝氏など北京関係の人々及び東京の嘉治隆一氏などの人々により決定かつ実行されてきた物であります。
p.243
追憶談(9) 小倉倉一今田の大尉時代といったら、もしかしたら満州事変の頃(○。○) ちなみにこの前後に今田がよく中江丑吉の所に遊びに行っていたのは今田の母・町の日記にも書かれています。
(中略)そして今田新太郎将軍のことを、「彼がもし自分に服しているところがあったら、学問などでは無しに、自分のそういうところに服しているんだ」と云われたと思います。私は今田将軍から、その大尉時代に北京で中江さんの本を校正しに一緒に行った時、中江さんが、「自分の文は人が切れる、切ったら血が出るんだ」と言われたと聞きましたが、今の言葉を思い合わされます。そして遂にお目にかかりませんでしたが、石本さん(※ばんない注 石本憲治、南満州鉄道理事)や今田将軍の人柄が偲ばれます。
p.259
ところで、「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」(『中江丑吉の肖像』阪谷芳直著所収)によると、昭和22(1947年),23(1948年)の中江忌には今田は参加しているようなんだが、その時の議事録は残っているんだろうか?あと、翌24年(1949年)の中江忌にもぎりぎり参加していそうなんだが…(今田は昭和24年8月29日死去)
次に中江丑吉年譜に見える今田さん。
明治28年 6歳ちなみに今田は明治29年(1896年)生まれ。明治35年(1902年)には丑吉の父・兆民の死去のために転居しているので、その頃まではおつきあいがあったんだろうか。
(中略)
今田新太郎の父母(母は剣術の道場主で漢学をたしなんだ)が中江家に親しみ、母の町子(早期の女高師卒、津田梅子等の友人)が新太郎を背負って遊びに来た
p.294
なお、丑吉の姉・千美子によると幼少時の丑吉は「姉に箒で追いかけ回され泣いていた、何事にも不器用で、怒っていることが多く、外で遊んでばかりいて全然勉強できなかった」…そうなのだが、ホントにこんな丑吉のことを見習え!…といわれて新太郎は大きくなったのか?!うーむ
昭和6年 42歳「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」に書かれていますが、この2年前の昭和4年(1929年)に今田(当時33歳)は長年の希望が叶って中国駐在となり、その後暇を見つけては中江丑吉の家に通うようになって交流が復活、それは丑吉が死ぬまで続くのですが…この後の丑吉との友情はかなり緊張感をはらんだ物になったような気がするのだが…
(中略)
9.18の満州事変勃発。今田大尉が柳条溝爆破の指揮を命じられた当の将校である。中江は木村(※ばんない注 木村英一、京都大学からの留学生)等にこれを世界戦争の前兆として説明した。(後略)
p.304
昭和9年 45歳昭和9年時点での今田は日本本国勤務(甲府連隊?)だったかな?しかし今田よずるずると右翼巨頭といわれてしまう人々を連れてきてしまうとはどういう事だ(苦笑)。ちなみに丑吉は日本に半月余りいた物のまた中国に転居してしまいます。最もその理由は「今田が連れてくる客人がうっとうs(略)」ではなくてヾ(--;)年譜によると「東京では勉強できないから」だったらしい。
(中略)
2月、帰国。嘉治隆一(前年より朝日新聞社)と松方三郎(連合通信社)の世話で東京麻布桜田町59番地に居を定めた。松方幸次郎と知る。今田新太郎の発意で父の知人頭山満と佃信夫と会う。頭山が客の自分を前にして黙っているのを見て席を立って帰ったという。今田の関係で岩田愛之助ら右翼の人々来る。(後略)
p.307
昭和12年 48歳
(中略)
7月、島原の小浜で避暑中に蘆構橋事件を知り、大事を察してすぐに引き上げ、天津の曹女霖に対処を謝らぬよう事態を説明した。
(中略)
事変の「不拡大方針」の頃訪れた守屋典郎に、この事変を世界戦争の序曲だと断定した。
今田新太郎中佐に対華戦争の失敗すべき事を説き、今田等参謀本部の石原莞爾派に拡大を防止するよう勧告したらしい。(後略)
p.309
昭和13年 49歳
(中略)
鈴江(※ばんない注 鈴江言一)は5月に二度上京、参謀本部今田中佐を訪う。事変の実像を説き和平に導こうとする努力らしい。中江は如何なる努力ももはや無益であり、日本がひとたび破滅にいたり付くまでいわば「病理学者」の立場を取る他はないと判断した。(後略)
p.311
昭和14年 50歳
(中略)
この年、今田新太郎の親友牛島辰熊(柔道八段、石原中将の東亜連盟の関係者)が来る。今田の知人岡部平太(1898年生まれ、柔道家、剣道家。シカゴ大学に学んだオリンピックスポーツの指導者)が満州から海南島顧問となるべく立ちより、スポーツに専念するよう論されて北京に留まる。(後略)
p.311
昭和16年 52歳別の中江本で見たような記憶があるのだが、一時期今田に「北支那方面軍参謀長」が内定し、関係者が事前に中江丑吉を訪問してそのことを知らせたところ、丑吉は「あれを妙な政治に引き出してくれるな、戦場で死なせてやってくれ」と言った、というのだが、それはこの頃のことだろうか。ちなみにこの前年に北支那方面軍司令官は多田駿から岡村寧次(後述)に変わっているので、その辺での話だろうか。
(中略)
この年今田大佐(参謀本部から羅南、海南島の部隊長を経る)が山西省路(※ばんない注 正しくはさんずいに「路」)安の雪部隊(師団)参謀長に来任、牛島等と時々訪れる。(後略)
p.313
なお、今田は石原莞爾と東条英機との対立の余波を食らって台湾に転出後二度と中央に返り咲くことはなく、第36師団(雪兵団)参謀長就任も左遷人事だったといわれている。
昭和17年 53歳この後の葬儀で参列できなかった今田が「激越な長文」を送ったというのは前に紹介したかと。しかし、前述の「今田が北支那軍参謀長になり損ねた話」その代わりが安達二十三だったんだろうか。あのタイミングで北支那軍参謀長になっていれば、後のニューギニア行きも多分無く…あ、でもwikipedia「安達二十三」見ると、この人も後に南方に飛ばされてるし…なんともいえん。
(中略)
山西省前線の今田大佐の要求で旧知の岡村寧次(大将、北支那方面軍司令官)や安達二十三(中将、北支那方面軍参謀長、小学校時代の下級生)が療養費の提供を申し出たが固辞。岡村等が小山貞知(坂西関係の旧知。橘撲と「満州評論」を創設、新民会顧問)を使いとして見舞う。
(中略)
8月3日、前日より40度、この日41度。午前中に意識が不明瞭となり、午後1時脳症を起こす。六時5分、浪子(※ばんない注 竹内浪子、丑吉の姪で後鈴江言一夫人)と武田(※ばんない注 武田鳳徳、武田信近の兄、医学博士、九州大学医学部病院勤務)の前で死去
p.314~p.315
昭和18年
(中略)
秋、阪谷希一と今田新太郎(当時は少将。間もなくニューギニアへ)が、鈴江の生活のため華北総合調査研究所に籍を置かせた。同所に橘撲(もと満鉄。「満州評論」等。中江と知に旧知。)が関係していると聞き、強い忌諱を示した。(後略)
p.316