拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
では前回の続き
中江関連書籍の中でも数少ない、今田新太郎に関するかなり長文の貴重な思い出の記録である。メインは中江丑吉の一番の友人であり、丑吉姪・浪子の夫であった鈴江言一だが、彼に絡んだ今田の行動などに、今田の説得力とか行動力とか思いやりなどは偲ぶことが出来よう。
いくつか小倉氏の勘違いがあるようなので修正。
・森蓮→森赳。陸軍士官学校28期(大正5年)卒、陸軍大学校39期(昭和2年)卒。今田新太郎(陸士30期卒(大正7年)卒、陸軍大学校37期(大正14年卒))から見ると士官学校なら2期上、大学校なら2期下。
・森岡阜→森岡皐。陸軍士官学校22期卒、陸軍大学校32期(大正9年)卒であの武藤章と同期。なお、石原莞爾の次に第16師団長を務めた人物であり、彼の在籍時に16師団はフィリピン戦線に投入され、作戦の失敗により約10000人いた師団の内帰国できたのは森岡を含めた600人程度だったという…ちなみにこの時あの辻政信が無謀な作戦を提案したことからケンカしたらしい。
中江関連書籍の中でも数少ない、今田新太郎に関するかなり長文の貴重な思い出の記録である。メインは中江丑吉の一番の友人であり、丑吉姪・浪子の夫であった鈴江言一だが、彼に絡んだ今田の行動などに、今田の説得力とか行動力とか思いやりなどは偲ぶことが出来よう。
忘れ得ぬ人 小倉倉一
(中略)
太平洋戦争の進行とともに、国内のみならず、外地においてもファッショ的な思想弾圧が始まった。満州が一番早かった。関東軍憲兵隊により大がかりな満鉄調査部事件がでっち上げられ、検挙者数は拡大した。後に判明したように事件は根拠のない物であったのだが。
北京における中江丑吉氏の告別式、それから後始末を了して上海に帰っていった鈴江さんも、17年9月検挙されて、満州に送られた。のちに大連にいた伊藤武雄氏も検挙された。
爾来ハルピンの憲兵隊に留置されていた鈴江さんは、昭和18年夏釈放された。留置生活中、彼は老子や荘子などを読んでいたらしい。満鉄を退職となった鈴江さんは、北京に住むことになった。東京から夫人の浪子さんも北京に移ってきた。この頃私は北京にいた。鈴江さんは、あの肥満の体躯が大いにやせていた。しかし気持ちは元気であった。
鈴江さんがハルピン(留置)にいるころ、当時山西省路(※ばんない注 正しくはさんずいに「路」)安で師団参謀長をしていた今田新太郎大佐(後少将)が、東京の日本憲兵隊本部総務部長森蓮少将にあて、満州の憲兵隊の手にある鈴江さんのことに関し、強烈な手紙を書き送っていた。森氏と今田氏は陸大の同期生であった。森氏から今田氏に、事件は自分の担当でなく、直接タッチしていないが、関係方面に連絡して調査するから、との返信が来た。それは封緘ハガキにかなり細かく書かれていた。この返信は、北京に出てきた折の今田氏から見せられて知った。それはまだ鈴江さんが留置中のことであった。
今田将軍は、彼の深く尊敬する中江さんを介して鈴江さんともよく知っていた。また森将軍は、後に終戦時の近衛師団長で、叛乱将校によって射殺されている。
鈴江さんが、一人先んじて突然ハルピン憲兵隊から釈放されることになったのは、どういう事実関係に基ずくのか知る由もない。しかし私は、今田、森両氏の往復書簡のことを時折思い起こすのである。
北京に住むことになった鈴江さんは、生活の道を考えなければならなかった。私は北京に創設された華北総合調査研究所の研究員はどうかと思い、これを鈴江さんに語り、またたまたま山西省から出張し来たり、しばらく北京に滞在していた今田新太郎氏に話した。
今田氏は承諾し、早速同研究所の所長をしていた森岡阜中将(予備役)に話し、森岡氏を承諾させた。鈴江氏は研究所に採用になったのはよいが、ここに一つの面倒なことが起こった。というのはこうである。
その当時は南京に汪兆銘政権が樹立され、重慶政権とは異なる、汪兆銘流の孫文主義、三民主義、国民党主義の旗が掲げられていた。同政権の尻押しをしている日本側にも、中国の「現状」、華北の「現状」に適応するような三民主義の解釈と「研究」が行われる必要があった。華北総合調査研究所も、そうした「研究」をおこなうことになったらしい。
入所間もない鈴江さんに右のような主旨の絡む三民主義の研究が、森岡所長によって依頼された。これには鈴江さんも閉口した。なんとか研究テーマを他に転換してもらうべく鈴江さんは森岡所長に掛け合いに行った。これには私も同行した。
しかしこの予備役陸軍中将に、転換を求める理由を納得させるのは難しかった。森岡氏は
「君(鈴江)は、孫文伝の立派な著書もあるように、十分にその実力を持っているのだから、まあ、やってみてくれたら」
とのみいうのだった。
他方、この頃、鈴江さんは、橘撲氏から「三民主義の研究を、いっしょにやろうじゃないか」と言う手紙をもらったりした。当時橘氏は森岡氏からでも頼まれ、華北総合研究所の非常勤委託研究員のような形で、三民主義の研究を始めることになっていたのでもあろうか。われわれにはそんな風に思われた。
困却した鈴江さんは、這般の事情を今田新太郎氏に話した。鈴江さんは私に、「今田氏に、やむを得ず中江さんの名を出して頼みましたよ」と語っていた。というのは「もし中江さんが生きていたら、自分(鈴江)が、こういう意味の三民主義の研究をするのを許さないだろう」との言葉を今田氏に話したのである。
今田氏は了承して、長文の手紙を森岡氏に書き送り、森岡所長から「鈴江君は、どういう研究テーマをやっても良い」ということになった。
こうして鈴江さんは難関を切り抜けることが出来たが、この研究所入りを斡旋した私も、鈴江さんの生涯にその晩年の清節に汚点を残さずに済んだかと、ホントに安堵した。
しかし鈴江さんは難関を切り抜けた物の、この頃から病気がちになり、研究所に出勤する日が稀であった。一つは気が進まなかったこともあろう。出勤しないで、月給だけもらうのを非常に心苦しく思っていた鈴江さんは、私が慰留するのも聞かず、間もなく辞表を出して研究所をやめてしまった。売り食いの生活に入ったのである。
上海に残してきた彼の蔵書を、親交のあった中国の友人胡氏によって、少しづつ手放していた。その中には彼が収集した太平天国の乱に関する図書も入っていた。鈴江さんは、笑って、夫人に、自分が戦争の後、もし日本に戻るようなことがあったら、古本屋を開業して生活する、と語ったことがある。
私は鈴江さんから、中国の画家斉白石の、彼の得意とする蝦を描いた絵を一枚おくられたことがある。鈴江さんは、この中国の画家と親交があった。鈴江さんが私のために斉白石に書かせた物であり、斉白石の小倉先生に送る云々の賛があった。総合研究所入りを斡旋した私へのお礼の意もあるのであろうかと思われた。
さて、今田将軍についてであるが、将軍はニューギニヤ戦線で終戦を迎え、東京に帰還したが、数年ならずして他界した。将軍もまた私にとって実に「忘れ得ざる人」である。
p.189~p.192
いくつか小倉氏の勘違いがあるようなので修正。
・森蓮→森赳。陸軍士官学校28期(大正5年)卒、陸軍大学校39期(昭和2年)卒。今田新太郎(陸士30期卒(大正7年)卒、陸軍大学校37期(大正14年卒))から見ると士官学校なら2期上、大学校なら2期下。
・森岡阜→森岡皐。陸軍士官学校22期卒、陸軍大学校32期(大正9年)卒であの武藤章と同期。なお、石原莞爾の次に第16師団長を務めた人物であり、彼の在籍時に16師団はフィリピン戦線に投入され、作戦の失敗により約10000人いた師団の内帰国できたのは森岡を含めた600人程度だったという…ちなみにこの時あの辻政信が無謀な作戦を提案したことからケンカしたらしい。
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