拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
続きです。まだまだあるぞ~。
彼(※ばんない注 中江丑吉)は曹如霖から研究の資を給され、後には兆民の友、西園寺公望から研究の援助を受け、また西園寺の斡旋や今田新太郎の仲介で満鉄の学術研究奨励費の中から補助を受けたこともあった。
p.305
北京に住んだ鈴江言一や加藤惟孝は中江に師事し、満鉄の伊藤武雄や今田新太郎は中江に傾倒して措かなかった。今田は当時「陸軍の黒ひょう」とあだなされ後に反東条をもって鳴った慓悍な一将軍であった。
p.309
彼(※ばんない注 中江丑吉)は幼な友達の友情にふれて、こうのべている。
「今田(新太郎)が、自分に心服し、付いてくるのは、自分が優れた理論を言うからとか、高い識見を持っているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致の所を自分の行動を見て、それで付いてくるのである。」
p.351
彼(※ばんない注 中江丑吉)によれば日中戦争は日本にとって命取りの癌であり、もはや治療方法はないと見ていた。だが決して超越的傍観を楽しんでいたのではない。事変の「不拡大方針」の頃、訪れた守屋典郎氏に、この戦争を世界戦争への序曲だと断定しながらも、今田新太郎中佐に対華戦争の失敗すべき事を説き、参謀本部の石原莞爾派に拡大を防止するように勧告したらしい。
「世外の一書生よりも見るも、現在の情勢の如くんば嘗つて昨年小生申し上げたる通りの結果を実現しつつある訳にて全く憂慮に不堪、機断を加ふる以外には如何なる『手』も無しと確信致居候」(昭和13年8月11日付、今田宛、『書簡集』348頁)。果たして、如何なる断を加えよと言うのか。参謀本部で石原らに回覧熟読されたという、その書簡は既にない。
p.366~367
「十余年の歳月は其間幾多の紆余曲折はありたるも、其泉流は今や滔々たる流れとなって闇黒の裡に海口に注がんとしつつあり、暗黒にあるも颯々たる潮風やホウ(※ばんない注 さんずいに「崩」)渤たる波濤の声はも早や如何なる愚人の耳や心をも欺く不能」(昭和16年3月3日付、今田宛、『書簡集』352頁)この年の末に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発し、ますます日本は転落していきます。満州事変のトリガーを引き、そして日中戦争を身体を張って止めようとした今田はこの一文をどう受け取ったか、気になるところですが…返事が残ってない(T∀T)
p.372~373
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