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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回は中江丑吉本ではなく、石原莞爾本から。
『秘録 石原莞爾』は莞爾の友人の一人・横山臣平による莞爾の伝記ですが、参考文献の引用がかな~り緩い。どこからどこまでが本人が見聞きした話かはっきりせん。莞爾関連論文や関連本では絶対と言うほど引用されている本ですが、取り扱い要注意かも。

ではまいる。

石原は少年時代から世界史の研究を重視し、士官学校の時には同郷の先輩で海軍きっての国防論の大家、佐藤鉄太郎(後の中将、海軍大学校長)を訪ねて教えを受けていたが、陸大入学後もしばしば佐藤中将と会談して、日本国防論について意見を交換していた。
当時は日本の国防問題について、「北守南進論」などが論議された時代であったから、佐藤にとっても、石原が無二の話し相手であった。
石原が筆者によく話してくれた海軍としての日本の国防論は、石原のかねての構想に、佐藤の意見が強く反映している点が少なくなかったように感ぜられた。
陸大では毎週1回、海軍軍令部員の海軍作戦に関する講義を受けたが、その際最も多く質問するのは石原で、よく海軍部員の説明に対する急所に触れて、適切な点を突いていた。
要するに石原の日本国防論には、海軍特に佐藤の主張する国防理論が多く加味されていたことは事実で、石原が仙台の歩兵第4連隊長の時、参謀本部第1課の今田新太郎少佐(満州事変計画者の一人で、石原が最も信頼せる硬骨漢)から「石原は海軍論者であるという上官が多いから、陸海総合の国防意見書を書いてくれ」と要求され、石原はこれに対し「軍事上より見たる我が国の国策、並びに国防計画要綱」と言う意見書を提出している。(昭和8年6月)
p.111~112
余談ですが、佐藤鉄太郎は満州事変の時、石原莞爾が高い功績を挙げて帰国したにも関わらず、何も言わず表に出ないようにしているのを見て、それを誉めています。が、その一方で「満州事変が今後の日本に暗い影を落とす」と見抜いた数少ない軍人でもあります。(『石原莞爾 生涯とその時代』)…事変の真相を知ったらひっくり返っただろうな。
昭和6年6月、参謀本部は関東軍参謀長三宅少将を招致して、中央の方針を伝え、張政権との間に事件が起こっても、極力局限し、大事にならぬよう厳戒したのであった。
ところが石原参謀等は、この中央の方針を耳にするや、「腰抜け」とののしり、不服の態度を示し、独断専行癖の強い石原は静かに情勢の推移を観じつつ、関東軍独自の対策に耽っていた。
これにまず同調したのは、特務機関の花谷正少佐であった。板垣参謀は初め、関東軍単独解決案に不賛成であったが、石原の理論と熱意に動かされて、石原と行動を共にすることになり、この三人で現地解決の方法を内密に研究したのである。後に張学良顧問府輔佐の今田新太郎大尉を加え、この四人だけで満州事変という大事業に着手して、細部の計画を立案したのである。
この他には朝鮮軍参謀の神田中佐にだけ大要をあかし、その協力を求めて賛成を得た。
なお永田軍事課長、建川第一部長、小磯軍務局長、橋本欣五郎中佐、根本新聞班長などに打ち明けて、原則的に協力を約束したなどの記録があるが、いずれも憶測に過ぎない。
ただここに問題となることは、このような驚天動地の大計画を、直属上官の本庄軍司令官にも三宅参謀長にも事前に打ち明けていないことで、軍律上から見れば、越権、下克上の行為として許すべからざる大問題であるが、これに関しては後に述べることにする。
この計画は、石原参謀着任の時から着々と進められ、昭和6年初めには既に完成し、ただ実施期日を決定するのみであった。
この期日は、本庄軍司令官の各部隊初度巡視(司令官が任地到着後、部下各隊を視察する物)終了後に実行することは確定的であったが、9月28日との説もあった。それを18日に繰り上げ実行したのは、中央部が関東軍の陰謀を予知して「留め男」として派遣した参謀本部第一部長建川少将が18日に奉天着との電報に接したからである。
石原等が建川を説得することは難しくないが、もしも天皇の中止命令を携えてこられると、事面倒になるのを心配し、18日に繰り上げたとの説がある。又板垣と石原は建川の話を聞いた上で後図を策する考えであったが、今田大尉はこれに服さず、花谷を説き、同意がなければ単独で爆破を決行して事変を誘発するの決意が伺われた。花谷も遂に同意し、直ちに板垣と石原に伝えて説得し、建川が奉天着の18日夜10時30分、奉天の西北方約800mの柳条溝で満鉄の線路を爆破した。これが満州事変の口火であった。
p.151~153
これらの派閥対策に於いて、特に注目すべき事は、真崎(※ばんない注 甚三郎)、荒木(※ばんない注 貞夫)等の皇道派の首脳者達は若い将校の懐柔に意を用い、話術巧みに私恩を売り、これら将校の間に人気を博して派閥勢力の拡大を図ったことである。
(中略)
今田新太郎大尉(張学良補佐役として在満当時、石原と共に満州事変密造計画に参画し、後石原作戦課長の下に勤務した有為の将校)が甲府の歩兵連隊に勤務していたとき、真崎大将が特命検閲使として来府の際、同連隊の将校が駅頭に検閲使を出迎えた。
大将は、将校一同の敬礼を受けると「今田大尉はいるか」と言葉を書け、今田は満座の中でその肩をたたかれ、一般将校の注目を浴びた。これなどは公私混同も甚だしく、熱血漢今田にとっても迷惑至極であったと言われる。

p.248~249
今田が皇道派将校から嫌われていたのは以前書いたことがあるが、もしかしてこれも原因?
石原の不拡大方針に対し、中央部内の意見は大きく二つに分かれた。
参謀本部では、参謀次長の多田中将は石原と共に不拡大派の「リーダー」である。他に直接作戦に関係ある部員では、戦争指導課長の河辺大佐、高嶋中佐、今田少佐、堀場少佐等が不拡大を支持した。
これに対し最も露骨に石原に反対したのは作戦課長の武藤章大佐(後の中将)で、支那の抗日撫日の打倒を叫び、今こそそのチャンスであると強硬に激論した。
庶務課長の富永大佐が武藤に同調して拡大積極論者であったが、支那班長の高橋担中佐が短期解決説を発表したのは意外であった。
陸軍省では後宮軍務局長と柴山軍務課長外少数の者が石原を支持し、特に柴山は熱心に杉山大臣と梅津次官の説得に努めた。これに対し軍事課長の田中新一大佐は拡大派の急先鋒であった。
杉山と梅津は表面は事件の早期解決を希望していながら、省内の強硬派を押さえるだけの確固たる勇断が無く、大勢順応的であった。
p.288~289
いい加減な人物説明
・多田中将:多田駿 支那通軍人として知られる。トラウトマン工作で反対派の米内光政海軍大臣ほか宮中グループと対立、号泣しながら説得するも屈した話は割と有名かも。「めいご洞けんてき居士」。川島芳子の「パパ」ヾ(--;)。東条英機によって予備役編入後、あの甘粕正彦と四国をお遍路したという噂を聞いたが本当か?
・河辺大佐:河辺虎四郎 最後の参謀次長、戦後も「河辺機関」などで活動した。多分仕事が出来る人なんだと思う。『今村均回想録』では、この不拡大路線に反対する関東軍(この時今村均は関東軍参謀副長に左遷中)に説得に赴き、更に今村に対して道理がなってない旨(満州事変時、不拡大を説く今村が参謀本部課長だったときに、事変を起こした石原が関東軍参謀という逆の立場だった)を言った話は割と有名かも。
・高嶋中佐:高嶋辰彦 今田とは士官学校、陸軍大学校と同期で、「追悼録」(士官学校第30期生)でも今田の追悼文を書いた。多分同期では今田と一番仲良かった親友なんではないかと思う。同期なのに既に1階級上なのは、高嶋は陸大首席卒だからではないかな。
・堀場少佐:堀場一雄 服部卓四郎、西浦進と並んで「陸軍三羽がらす」と言われた人らしい…濃いメンツだな。今田同様に50代で早世。
・武藤章:A級戦犯として処刑された人の一人として知られている。実は、石原莞爾がドイツ留学時代に熱心に日蓮宗に引き込もうとしたらしい(○。○)(『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』)。莞爾は武藤の才気を買ってたようだが、この文章のように「飼い犬に手を噛まれ」た状態となり、莞爾は左遷される。どうもこれを根に持たれてたんじゃないの~? しかし、武藤も後には…。
・冨永大佐:冨永信政 こういう人らしい。経歴見てると学校ばっかりで余り現場仕事に向いてない人のような…。
・高橋担:誰か御教示御願いしますヾ(--;)
・後宮軍務局長:後宮淳「うしろくじゅん」という。「あとみや」じゃないのか。ちなみに京都出身らしい、どすえ。東条英機のコピーと呼ばれ、米内光政はじめ多くの人に嫌われていたようだ。なので、この時は莞爾側だったというのはかなり意外。
・柴山軍務課長:柴山兼四郎 実は満州事変の時の張学良顧問。と言う事は今田はこの人の輔佐…だったはずなのだが、どうも一緒に仕事してた形跡がない…。経歴も民間の大学(拓殖大)中退からの途中編入、しかも影の薄い軸重兵科出身とかなり異色の人。士官学校で河辺虎四郎の同期。
・杉山大臣:杉山元 「ゆる元」とか「ぐず元」とか…あんまり良い評価聞いたこと無い人なんだが、これでも一応元帥閣下なのですはい
・梅津次官:梅津美治郎 石原莞爾本では必ず登場する、実は東条英機よりこっちの方が莞爾最大の敵。満州事変での莞爾の「下克上」な行動を憎んでいたからとも。だから、ここで「日和見的」と横山臣平が評しているのは意外。
・田中新一:日中戦争、太平洋戦争とずっと強硬派の人。太平洋戦争の時なんかは先述の武藤章は回避派だったのに、部下の田中が押し切ったような物である。しかし、戦後戦犯になったのは上司の武藤で、田中は全くのおとがめ無しであった。後に東条英機と大げんかしたのが有利になったとも。

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