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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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まだ続く。多分これで終われるかな?

まずは史料から。
昭和21年8月3日に行われた中江丑吉5回忌の議事録です。
ちなみに今田はこの時抑留中で(田中隆吉はシンガポールとしているが、ニューギニア戦線と言うところから見るとホーランジアの間違いでは無かろうか?後考を期す)、この会には参加できませんでした。
一般経過報告 高木基安
胡・中江先生の後事に関し、北京の告別式執行後のだいたいの経過をご報告申し上げます。後事については、それぞれ若干の異動はありますが、阪谷希一氏、鈴江言一氏、伊藤武雄氏、今田新太郎氏、小倉倉一氏、中下魁平氏、加藤惟孝氏など北京関係の人々及び東京の嘉治隆一氏などの人々により決定かつ実行されてきた物であります。
p.243
この後、中江丑吉の北京の自宅や大量の蔵書がどう処分されたとか、子供無き中江家が絶家となったとか、いろいろ興味深い話が続いています。また、こういう事の決定に関与してきたという今田新太郎と中江丑吉との間がどれくらいの物だったかが伺えます。
追憶談(9) 小倉倉一
(中略)そして今田新太郎将軍のことを、「彼がもし自分に服しているところがあったら、学問などでは無しに、自分のそういうところに服しているんだ」と云われたと思います。私は今田将軍から、その大尉時代に北京で中江さんの本を校正しに一緒に行った時、中江さんが、「自分の文は人が切れる、切ったら血が出るんだ」と言われたと聞きましたが、今の言葉を思い合わされます。そして遂にお目にかかりませんでしたが、石本さん(※ばんない注 石本憲治、南満州鉄道理事)や今田将軍の人柄が偲ばれます。
p.259
今田の大尉時代といったら、もしかしたら満州事変の頃(○。○) ちなみにこの前後に今田がよく中江丑吉の所に遊びに行っていたのは今田の母・町の日記にも書かれています。

ところで、「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」(『中江丑吉の肖像』阪谷芳直著所収)によると、昭和22(1947年),23(1948年)の中江忌には今田は参加しているようなんだが、その時の議事録は残っているんだろうか?あと、翌24年(1949年)の中江忌にもぎりぎり参加していそうなんだが…(今田は昭和24年8月29日死去)



次に中江丑吉年譜に見える今田さん。
明治28年 6歳
(中略)
今田新太郎の父母(母は剣術の道場主で漢学をたしなんだ)が中江家に親しみ、母の町子(早期の女高師卒、津田梅子等の友人)が新太郎を背負って遊びに来た
p.294
ちなみに今田は明治29年(1896年)生まれ。明治35年(1902年)には丑吉の父・兆民の死去のために転居しているので、その頃まではおつきあいがあったんだろうか。
なお、丑吉の姉・千美子によると幼少時の丑吉は「姉に箒で追いかけ回され泣いていた、何事にも不器用で、怒っていることが多く、外で遊んでばかりいて全然勉強できなかった」…そうなのだが、ホントにこんな丑吉のことを見習え!…といわれて新太郎は大きくなったのか?!うーむ
昭和6年 42歳
(中略)
9.18の満州事変勃発。今田大尉が柳条溝爆破の指揮を命じられた当の将校である。中江は木村(※ばんない注 木村英一、京都大学からの留学生)等にこれを世界戦争の前兆として説明した。(後略)
p.304
「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」に書かれていますが、この2年前の昭和4年(1929年)に今田(当時33歳)は長年の希望が叶って中国駐在となり、その後暇を見つけては中江丑吉の家に通うようになって交流が復活、それは丑吉が死ぬまで続くのですが…この後の丑吉との友情はかなり緊張感をはらんだ物になったような気がするのだが…
昭和9年 45歳
(中略)
2月、帰国。嘉治隆一(前年より朝日新聞社)と松方三郎(連合通信社)の世話で東京麻布桜田町59番地に居を定めた。松方幸次郎と知る。今田新太郎の発意で父の知人頭山満と佃信夫と会う。頭山が客の自分を前にして黙っているのを見て席を立って帰ったという。今田の関係で岩田愛之助ら右翼の人々来る。(後略)
p.307
昭和9年時点での今田は日本本国勤務(甲府連隊?)だったかな?しかし今田よずるずると右翼巨頭といわれてしまう人々を連れてきてしまうとはどういう事だ(苦笑)。ちなみに丑吉は日本に半月余りいた物のまた中国に転居してしまいます。最もその理由は「今田が連れてくる客人がうっとうs(略)」ではなくてヾ(--;)年譜によると「東京では勉強できないから」だったらしい。
昭和12年 48歳
(中略)
7月、島原の小浜で避暑中に蘆構橋事件を知り、大事を察してすぐに引き上げ、天津の曹女霖に対処を謝らぬよう事態を説明した。
(中略)
事変の「不拡大方針」の頃訪れた守屋典郎に、この事変を世界戦争の序曲だと断定した。
今田新太郎中佐に対華戦争の失敗すべき事を説き、今田等参謀本部の石原莞爾派に拡大を防止するよう勧告したらしい。(後略)
p.309
昭和13年 49歳
(中略)
鈴江(※ばんない注 鈴江言一)は5月に二度上京、参謀本部今田中佐を訪う。事変の実像を説き和平に導こうとする努力らしい。中江は如何なる努力ももはや無益であり、日本がひとたび破滅にいたり付くまでいわば「病理学者」の立場を取る他はないと判断した。(後略)
p.311
昭和14年 50歳
(中略)
この年、今田新太郎の親友牛島辰熊(柔道八段、石原中将の東亜連盟の関係者)が来る。今田の知人岡部平太(1898年生まれ、柔道家、剣道家。シカゴ大学に学んだオリンピックスポーツの指導者)が満州から海南島顧問となるべく立ちより、スポーツに専念するよう論されて北京に留まる。(後略)
p.311
昭和16年 52歳
(中略)
この年今田大佐(参謀本部から羅南、海南島の部隊長を経る)が山西省路(※ばんない注 正しくはさんずいに「路」)安の雪部隊(師団)参謀長に来任、牛島等と時々訪れる。(後略)
p.313
別の中江本で見たような記憶があるのだが、一時期今田に「北支那方面軍参謀長」が内定し、関係者が事前に中江丑吉を訪問してそのことを知らせたところ、丑吉は「あれを妙な政治に引き出してくれるな、戦場で死なせてやってくれ」と言った、というのだが、それはこの頃のことだろうか。ちなみにこの前年に北支那方面軍司令官は多田駿から岡村寧次(後述)に変わっているので、その辺での話だろうか。
なお、今田は石原莞爾と東条英機との対立の余波を食らって台湾に転出後二度と中央に返り咲くことはなく、第36師団(雪兵団)参謀長就任も左遷人事だったといわれている。
昭和17年 53歳
(中略)
山西省前線の今田大佐の要求で旧知の岡村寧次(大将、北支那方面軍司令官)や安達二十三(中将、北支那方面軍参謀長、小学校時代の下級生)が療養費の提供を申し出たが固辞。岡村等が小山貞知(坂西関係の旧知。橘撲と「満州評論」を創設、新民会顧問)を使いとして見舞う。
(中略)
8月3日、前日より40度、この日41度。午前中に意識が不明瞭となり、午後1時脳症を起こす。六時5分、浪子(※ばんない注 竹内浪子、丑吉の姪で後鈴江言一夫人)と武田(※ばんない注 武田鳳徳、武田信近の兄、医学博士、九州大学医学部病院勤務)の前で死去
p.314~p.315
この後の葬儀で参列できなかった今田が「激越な長文」を送ったというのは前に紹介したかと。しかし、前述の「今田が北支那軍参謀長になり損ねた話」その代わりが安達二十三だったんだろうか。あのタイミングで北支那軍参謀長になっていれば、後のニューギニア行きも多分無く…あ、でもwikipedia「安達二十三」見ると、この人も後に南方に飛ばされてるし…なんともいえん。
昭和18年 
(中略)
秋、阪谷希一と今田新太郎(当時は少将。間もなくニューギニアへ)が、鈴江の生活のため華北総合調査研究所に籍を置かせた。同所に橘撲(もと満鉄。「満州評論」等。中江と知に旧知。)が関係していると聞き、強い忌諱を示した。(後略)
p.316

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