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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回の続きです。
興味深い話が多いので、今田関連以外の話もピックアップしています。

ではまいる。

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久々の資料紹介です。
今回は今田の師匠・石原莞爾のブレーンで、親友でもあった浅原健三という人の伝記
反逆の獅子―陸軍に不戦工作を仕掛けた男・浅原健三の生涯
から。
実は平成14年頃に遺族の家から浅原健三の覚え書きが見つかり、それに基づいた今まで知られてなかった記述が多いです。あと、健三の子供達(と言ってもかなりお年ですが)へのインタビューもちらほら。なので、かなりレアな情報が多かった…。
今田新太郎関連以外のことでも気になる部分は抜粋していきたいと思います。

ではまいる。

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こちらのエントリにて「辻ーんが”潜行三千里”から極秘帰国した後、今田新太郎を頼ったところ、うっかり某田中隆吉元少将ヾ(--;)からGHQに密告されてやばかった話」を紹介させて頂いた。

念のため再度調べたところ、確かに『文藝春秋』1955年4月号に「沈難深苦の十年」という記事があった。当該箇所についても前回紹介したのと全く同文であることも確認した。

ところが、この記事。ほかにも興味深い話が紹介されていた。
今田新太郎が神兵隊事件に関係したとして、聴取逃れのために?何故か辻政信をおまけに付けて新疆偵察に出されたという話はこちらでしたことがあるが、それに関する詳しい話が載っていたのである。辻政信談ゆえ多少の演出が入っている可能性もあるが、そのまま紹介してみる。
私が昭和八年、参謀本部にいるとき、中国の新疆省方面の偵察を命ぜられ、中国人の通訳二人と私、それに今田新太郎氏と坂田繁木氏当時いずれも大尉中尉の青年将校だが、その五人で上海からドイツの飛行機に乗って飛立った。ところが、蘭州まで行ったときに共産党につかまり、一週間監禁され、危うく殺されそうな目に会った。その時に同行した中国人通訳の一人が陶孝潔(陶淵明八十三代目の子孫である)という非常な親日家であり、陶君のお陰でようやく助かった。無事に出されて、さらに粛州へ入り、今度はフイフイ教徒に助けられたものの、ついに新疆省には入れず、帰途についた。
こんどは六盤山系の上空で猛吹雪に襲われた。その時の飛行機は百七十馬力の単発で計器も無し、もういかんと思って覚悟を決めた私は、飛行機の中で遺言を書いた。その末尾に「任務を受け、目的を達成せずに死ぬのは残念だが、我々の遺族は国家で救っていただける。しかし同行した二人の中国人は、恐らく売国奴として冷ややかな目で見られるだろう。どうか日本の陸軍の力で、二人の中国人の遺族を、永久に救って下さい。これが死に臨んでの陸軍に対する私のおねがいです」と言う意味のことを書いた。
陶君はすでに死を覚悟し、墜落して死ぬのは痛いから、睡眠薬を飲んで死のう、ということで、薬を飲みかけていたが、私が遺言を書き終えるのを見て、
「日記ですか。見せてください」
と頼むので、見せてやった。
すると、陶君は読み終って、最後の一句を読んだとき、声を挙げて泣き、わたしにとりすがって、
「これほどまでにわれわれのことを考えてくれるのか。もう、いつ死んでも怖くないから、薬を飲むのはやめます」
と。-だが、奇跡的に助かって、南京に辿りつくことができた。
p.227~228
※原文は旧字体旧仮名遣いだが、新字体に改めた


これが、聴取逃れのためにちょっと出かけてらっしゃい…という出張なのか???
「ついでにお前ら死んでこいや」と言う意図があるようにも見えるのだが…
あ、でも辻はここで死んだ方がこの後の日本のためにはよかt(以下自粛)
でも今田さんを巻き添えにされるのは困る、私のネタ的に(ヲイ)

<当てにならない注記>
・坂田繁木:正しくは「佐方繁木」(1899年10月1日~1954年4月8日)熊本県出身。騎兵将校。陸軍士官学校32期、陸軍大学校40期(参考文献『日本陸軍将官辞典』)
・大尉中尉の青年将校:当時今田は37歳。昭和8年(1933年)の常識では青年かどうか怪しいような
・フイフイ教:イスラム教のことを戦前の日本ではこうも言ったらしい
・六盤山系:こちら参照

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先日9/18は、近頃拙ブログのメーンネタである今田新太郎が深く関わった柳条湖事件の勃発日であり、日本のマスコミでも「何かあるのでは」と大騒ぎしていたのだが、中共政府の統制が効いていたのか何もなかったでござる。
ついでに、拙ブログに「○○.×××.cn」なんてIPアドレスから得体の知れないアクセスが集中するとかいう事態を期待恐れてしていたりしたのだが、そういうこともなかった

つまらん!実につまらん!ヾ(^^;)


前回の記事で紹介した『秘録・東条英機暗殺計画』(旧題『わが東条英機暗殺計画 』)。
ここにちょっと引っかかる話が書いてあった。
小畑敏四郎中将は今田新太郎の推奨してやまなかった人物であったから
p.107
小畑敏四郎とは、いわゆる陸軍幼年学校→陸軍士官学校→陸軍大学校たたき上げエリート集団の走りの一人で、大正時代まだ陸軍で威を張っていた長州閥撃退を永田鉄山、岡村寧次と共にドイツの保養地であるバーデン・バーデンで誓ったという一人です。
-その後、長州閥追放まではうまくいった物の、その後の陸軍の方向を巡って永田鉄山と猛対立してしまい、結局終戦まで続く陸軍の派閥対立の元凶を作ってしまった人でもあるのですが…

ここで気になるのが小畑の立ち位置。
小畑敏四郎は荒木貞夫、真崎甚三郎等に近く、いわゆる「皇道派」の幹部だったのですが、
今田はと言うと、その皇道派の将校達に蛇蝎の如く嫌われていたのはこのエントリで述べたとおりで、何で小畑にシンパシーを感じるのか分からない。

ただし、今田はこんな事も言っている。
終わりに故大佐が中尉時代青年将校として南支に活躍した事績は他の何人かに寄って書かれることを希望し、且つ其の時代から今日まで小畑敏四郎中将が此の亡き有為の士に目をかけられしことを併せ記する次第である。
「東宮大佐のことども」『鉄心』4(2)
小畑は対ソビエト重視論で、支那一撃論だった永田鉄山と対立していたようだから、支那フェチ今田としてはこの点で小畑に心情を寄せたのだろうか。
ちなみに上記の『鉄心』にはその小畑も東宮鉄男の追悼文を寄せている。というか、張作霖爆殺事件で予備役編入寸前だった東宮を救ったのが小畑らしい。

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前回の続きです。
タイトルが更に軽薄になったような気がしますが、これも勢いという物ですので余り気にしないで下さいヾ(--;)

ではまいる。
(下の「続きはこちら」をクリック)

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