拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
津野田が南京にて苦手な後方補給の仕事をしていた昭和18年11月26日、とんでもない情報が入ってくる。-それは、今田のいる第36師団がニューギニアに飛ばされるという話であった。-津野田はまず上海に島流しに遭っていた浅原健三に連絡を取った。浅原はかつて石原莞爾のブレーンだった男。実は、今田から紹介状は貰っていたが、この時点で浅原健三と津野田が会ったことはまだない。ここからの津野田くん(ヲイ)の行動力はすごい
しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎる
そして、この熱情は津野田を更に暴走させる
…遂に仕事をさぼったか…(-_-;)
さて、暴走先のヾ(--;)上海の今田の宿舎には先述の浅原健三と、そして牛島辰熊がやってきておりました。この後、浅原は激戦地のニューギニアに飛ばされる今田の為に、フランス租界南にある自邸で壮行の宴を開くのですが(※浅原は日本追放されてから上海で一旗揚げてとても大金持ちになってます)
これに津野田は堪えられなかったのか
今田よ、ここまで思ってくれる人がいて幸せ者だな(但し「乱暴参謀」だがw)
これを目の前で見せられた浅原と牛島はどう思ってたんだろ…
しかし、ついに別れの日がやってきた。
あのな、師匠と弟子というのはな、もっと殺伐としているものだ。例えば牛島辰熊と木村政彦の例を挙げてみよう、言うこと聞かない弟子は真剣で追い回すものだ(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』)…これもたいがいか(^^;)
…女の腐った目で見た感想ですが、津野田は今田に「魅せられた」というより、今田に「落ちた」んだと思います。
今田の方は…多分、津野田を不憫と思ったんではないかなあ…傍若無人のために陸大の成績をわざと次席にされる、暴言であの武藤章と猛ゲンカする…余りにも師匠の石原莞爾と似てますしね。
あと、石原莞爾に近いと見られていた今田は、東条英機全盛のこの時期はやはり他の同僚からは避けられていたと思われますし、そんな中、そういう事情をお構いなしに今田に懐いてきた津野田はやっぱり可愛かったんでしょう、きっと。
この後、今田は所属の第36師団と共に西ニューギニアのサルミに向かい、激闘の末、その後消息を絶ちます(○。○)
一方、昭和19年5月、津野田は大本営第一部第三課への転属を命じられます。作戦の中枢である第一部への転勤は大栄転と言ってもよい物で、実はこれが東条英機の声がかりだったことを後で知ることになります…が、この大本営で、津野田はこの戦争の「真の姿」を知ることになります。それは連戦連敗を繰り返しているのに、その大損害は伝えられずに、いつの間にやら「連戦連勝」と胡麻化されている姿でした。津野田は、この状態を突破するには「宮様を首班とする内閣を作り、和解に持ち込む」「それが不可能な場合はともかく東条を暗殺する」(○。○)と言う結論にたどりつき、牛島辰熊と共謀、東条暗殺の計画を練ります。
この時、この計画書を石原莞爾と小畑敏四郎に渡しましたが、今田や牛島も関係している東亜連盟の主催者である石原はともかく、小畑は「?」です。この本に依れば「小畑敏四郎中将は今田新太郎の推奨してやまなかった人物であったから」(p.107)だそうだが…。ついでに津野田は宮様の何人かをこの計画に巻き込むことを計画し、東久邇宮稔彦王、そして…三笠宮崇仁親王を巻き込みます-これが石原莞爾が警告したように「墓穴」となるのです。
この後の経過は、ネットでもよく書かれているのでご存じの方が多いと思うので、かいつまんで。
その後、二人は東条英機を毒殺することに決定(○。○)津野田が陸軍から「茶瓶」と言われる毒ガスを入手し、牛島が通勤途中の東条にそれをぶっかけて暗殺(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』によると、実行犯は牛島の弟子・木村政彦だったらしい)…と計画しますが、土壇場になって東条内閣は宮中クーデターにより崩壊。この計画は実行されず、そのまま闇に消える…はずでした。
ところが、千原楠蔵という朝日新聞の記者が書いた軽率な記事から石原莞爾のマークが更にきつくなっており、そこに牛島辰熊が出かけたことをきっかけとして上記の計画が発覚、更に、三笠宮が津野田からもらった「東条暗殺計画書」が憲兵の手に渡るに及んで、津野田、牛島、更にとばっちりを受けて浅原健三まで逮捕されます。三人は何とか死は免れた物の、牛島は郷里の熊本に隠棲、浅原は上海の膨大な資産を放棄する羽目になり、津野田は禁固2年執行猶予2年の刑を受け、当然陸軍は解雇、すべての官位勲章も剥奪されることとなります。
この後が、実は一番面白いところで、津野田は東条の息のかかった憲兵に更に命を狙われることとなり、それから逃れる為に、なんと上海に脱出することを決意します。既に昭和20年、日本の敗色は決定的となっていた頃の話です。友人達の助けを借りながら、敵の攻撃、そして敵より怖い憲兵達の攻撃をすり抜けながらの脱出行は、実にスリリング。そして、遂に脱出成功…したのに、昭和20年8月15日。日本の敗戦が決定します…津野田はその翌年に中国から強制送還されるのでした…
-さて、この後ですが、津野田と今田が再会できたのか?と言う事については、この本は全く触れておりません_(。_゜)/ 津野田が中国に脱出中、浅原健三からの連絡で「今田がシンガポールに捕虜として捕らわれている」と言うことは聞いていたようなんですが(p.221)。
あそこまでの中だったのに、今田と再会できなかったとしたら、もし再会できたとしてもそれが今田の死体だったとしたら、余りにも哀しい…(※今田は昭和21年に復員するも昭和24年8月29日死去)
その後津野田は転職を繰り返し、母方の縁により就職していた(財)電力経済研究所時代に、大きな仕事を成し遂げます。アメリカからのテレビチャンネルの返還に成功したのです。…このチャンネルが「東京12チャンネル」現在の「テレビ東京」です。放送当時は「日本科学技術振興財団」という非公益法人の運営で、津野田はその専務理事でした。…しかし、これにより放送内容に制約を受けた東京12チャンネルの経営は厳しい物で、後に大赤字の責任を取って津野田はテレビ局を去ります。その後の人生はかなり苦労を重ねたようです(『原法則』あとがき)。
晩年の津野田とつき合っていた幼なじみの回想によりますと、かつての津野田は酔っぱらうとバイロンの詩を歌ったりしていたのですが、この頃は浦敬一の漢詩とかをそらんじたらしいです(解説 p.241)…それは今田の趣味だ。
…趣味まで今田化した津野田さんは、昭和57年に外出先で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました…
はっきり言って、今田の影響で東条英機暗殺しようとまででした津野田、その結果、人生は波瀾万丈、そしてその結末も決して世間一般の幸せとは遠い物のように感じましたが…津野田が死んで30年、あの世で今田と幸せに語らっているのだろうか?
知重は、心を弾ませて、今田新太郎が南京へ来るのを待った。…これどう見てもデートだろヾ(--;)
その日が来た。南京着の今田新太郎を出迎えた知重は、用意した舟へ誘い、二人だけで揚子江を渡った。懐かしかった。積もる話は知重の宿舎へ入っても尽きなかった。
p.79
しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎる
しかし、今田は総司令部へ挨拶したならば、すぐその足で上海へ帰らねばならない身である。時間の余裕はなかった。知重は名残惜しかったが、挨拶を済ませた今田を上海へ見送った。だが、これであきらめるような津野田ではない。
p.79
師とも仰いでいた今田新太郎が上海にいるのである。陸路開設の指揮をしていても、会いたい気持ちは、知重を落ち着かせなかった。恋しい女に会いたいという女々しい心情とは雲泥の差の、猛々しい気持ちで胸が疼いた。何なんだよ、この「私たちの間を誤解して下さい」という文章はヾ(--;)。読んでるこっちの方がドキドキするじゃないの。…これはこの本の著者(津野田知重の兄・忠重)の表現がちょっとおかしいのか、それとも知重がこれに匹敵するくらいの熱情持って兄にしゃべったのか…(;¬_¬)
p.79~80
そして、この熱情は津野田を更に暴走させる
そこで数日後のある日、上海にある東亜同文書院への用務を作って、上海に赴いた。⊂(。Д。⊂⌒`つ
p.80
…遂に仕事をさぼったか…(-_-;)
さて、暴走先のヾ(--;)上海の今田の宿舎には先述の浅原健三と、そして牛島辰熊がやってきておりました。この後、浅原は激戦地のニューギニアに飛ばされる今田の為に、フランス租界南にある自邸で壮行の宴を開くのですが(※浅原は日本追放されてから上海で一旗揚げてとても大金持ちになってます)
この時に、今田新太郎が初めて口にした言葉は、知重の胸中に深く突き刺さって棘のような痛みを感じさせた。…やはり、行き先が行き先なだけに、その雰囲気はかなり深刻な物にならざるを得なかったようです。(※別の資料では、今田がこの時点で戦死を覚悟していたことも伝えられています)
「支那が片付かんから南方へ手を出した。こっちも泥沼だが、南方も同じだ。これで戦争の見通しは完全に立たなくなった。一体、誰がこれを収拾するというのか」
浅原と牛島も、今田の言葉には同感だったようだ。表情を引き締めて、痛憤らしい色を掃いていた。
(中略)
しばらく沈黙の時が流れた。座を白けさせたのを悔やんでか、今田新太郎は豪快な笑いを飛ばして、知重らへ声をかけた。
「おいおい、何だ三人とも。深刻そうな顔をして、さあ、大いに飲み、食うことにしよう。ニューギニアに行っては、うまい物は口にできんからな」
p.80~81
これに津野田は堪えられなかったのか
知重の胸中に、激情が走った。たまらなくなった。思わず今田新太郎の手を、しっかりと握った。何なんだよ、このをとめヾ(--;)
「今田大佐(いまださん)、死なんで下さいよ」
「当たり前だ。誰が死ぬもんか」
「木に齧りついてでも、生きていて下さい」
「わかった」
p.81
今田よ、ここまで思ってくれる人がいて幸せ者だな(但し「乱暴参謀」だがw)
これを目の前で見せられた浅原と牛島はどう思ってたんだろ…
しかし、ついに別れの日がやってきた。
この後、数日して今田新太郎は、ニューギニアへ発っていったが、上海埠頭へ見送りに行った知重と交わした言葉は、互いに万感の籠もったこの一言ずつだけであった。だからお前らどういう関係なんだよヽ(`Д´)ノ
「今田大佐。お互いの関係は、師一人、弟子一人のような物でした…」
「そうなるな。だがな、津野田。浅原の宅でもいったが、俺は、決して死にはせんぞ。生きて再び、貴様と会うのを楽しみにしているぞ」
p.81~82
あのな、師匠と弟子というのはな、もっと殺伐としているものだ。例えば牛島辰熊と木村政彦の例を挙げてみよう、言うこと聞かない弟子は真剣で追い回すものだ(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』)…これもたいがいか(^^;)
…女の腐った目で見た感想ですが、津野田は今田に「魅せられた」というより、今田に「落ちた」んだと思います。
今田の方は…多分、津野田を不憫と思ったんではないかなあ…傍若無人のために陸大の成績をわざと次席にされる、暴言であの武藤章と猛ゲンカする…余りにも師匠の石原莞爾と似てますしね。
あと、石原莞爾に近いと見られていた今田は、東条英機全盛のこの時期はやはり他の同僚からは避けられていたと思われますし、そんな中、そういう事情をお構いなしに今田に懐いてきた津野田はやっぱり可愛かったんでしょう、きっと。
この後、今田は所属の第36師団と共に西ニューギニアのサルミに向かい、激闘の末、その後消息を絶ちます(○。○)
一方、昭和19年5月、津野田は大本営第一部第三課への転属を命じられます。作戦の中枢である第一部への転勤は大栄転と言ってもよい物で、実はこれが東条英機の声がかりだったことを後で知ることになります…が、この大本営で、津野田はこの戦争の「真の姿」を知ることになります。それは連戦連敗を繰り返しているのに、その大損害は伝えられずに、いつの間にやら「連戦連勝」と胡麻化されている姿でした。津野田は、この状態を突破するには「宮様を首班とする内閣を作り、和解に持ち込む」「それが不可能な場合はともかく東条を暗殺する」(○。○)と言う結論にたどりつき、牛島辰熊と共謀、東条暗殺の計画を練ります。
この時、この計画書を石原莞爾と小畑敏四郎に渡しましたが、今田や牛島も関係している東亜連盟の主催者である石原はともかく、小畑は「?」です。この本に依れば「小畑敏四郎中将は今田新太郎の推奨してやまなかった人物であったから」(p.107)だそうだが…。ついでに津野田は宮様の何人かをこの計画に巻き込むことを計画し、東久邇宮稔彦王、そして…三笠宮崇仁親王を巻き込みます-これが石原莞爾が警告したように「墓穴」となるのです。
この後の経過は、ネットでもよく書かれているのでご存じの方が多いと思うので、かいつまんで。
その後、二人は東条英機を毒殺することに決定(○。○)津野田が陸軍から「茶瓶」と言われる毒ガスを入手し、牛島が通勤途中の東条にそれをぶっかけて暗殺(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』によると、実行犯は牛島の弟子・木村政彦だったらしい)…と計画しますが、土壇場になって東条内閣は宮中クーデターにより崩壊。この計画は実行されず、そのまま闇に消える…はずでした。
ところが、千原楠蔵という朝日新聞の記者が書いた軽率な記事から石原莞爾のマークが更にきつくなっており、そこに牛島辰熊が出かけたことをきっかけとして上記の計画が発覚、更に、三笠宮が津野田からもらった「東条暗殺計画書」が憲兵の手に渡るに及んで、津野田、牛島、更にとばっちりを受けて浅原健三まで逮捕されます。三人は何とか死は免れた物の、牛島は郷里の熊本に隠棲、浅原は上海の膨大な資産を放棄する羽目になり、津野田は禁固2年執行猶予2年の刑を受け、当然陸軍は解雇、すべての官位勲章も剥奪されることとなります。
この後が、実は一番面白いところで、津野田は東条の息のかかった憲兵に更に命を狙われることとなり、それから逃れる為に、なんと上海に脱出することを決意します。既に昭和20年、日本の敗色は決定的となっていた頃の話です。友人達の助けを借りながら、敵の攻撃、そして敵より怖い憲兵達の攻撃をすり抜けながらの脱出行は、実にスリリング。そして、遂に脱出成功…したのに、昭和20年8月15日。日本の敗戦が決定します…津野田はその翌年に中国から強制送還されるのでした…
-さて、この後ですが、津野田と今田が再会できたのか?と言う事については、この本は全く触れておりません_(。_゜)/ 津野田が中国に脱出中、浅原健三からの連絡で「今田がシンガポールに捕虜として捕らわれている」と言うことは聞いていたようなんですが(p.221)。
あそこまでの中だったのに、今田と再会できなかったとしたら、もし再会できたとしてもそれが今田の死体だったとしたら、余りにも哀しい…(※今田は昭和21年に復員するも昭和24年8月29日死去)
その後津野田は転職を繰り返し、母方の縁により就職していた(財)電力経済研究所時代に、大きな仕事を成し遂げます。アメリカからのテレビチャンネルの返還に成功したのです。…このチャンネルが「東京12チャンネル」現在の「テレビ東京」です。放送当時は「日本科学技術振興財団」という非公益法人の運営で、津野田はその専務理事でした。…しかし、これにより放送内容に制約を受けた東京12チャンネルの経営は厳しい物で、後に大赤字の責任を取って津野田はテレビ局を去ります。その後の人生はかなり苦労を重ねたようです(『原法則』あとがき)。
晩年の津野田とつき合っていた幼なじみの回想によりますと、かつての津野田は酔っぱらうとバイロンの詩を歌ったりしていたのですが、この頃は浦敬一の漢詩とかをそらんじたらしいです(解説 p.241)…それは今田の趣味だ。
…趣味まで今田化した津野田さんは、昭和57年に外出先で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました…
はっきり言って、今田の影響で東条英機暗殺しようとまででした津野田、その結果、人生は波瀾万丈、そしてその結末も決して世間一般の幸せとは遠い物のように感じましたが…津野田が死んで30年、あの世で今田と幸せに語らっているのだろうか?
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