拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回の続きです。
興味深い話が多いので、今田関連以外の話もピックアップしています。
ではまいる。
興味深い話が多いので、今田関連以外の話もピックアップしています。
ではまいる。
ところで、浅原は有馬と何度も会っているが、あるとき二人で近衛文麿の人物論について語り合ったことがある。「有馬」こと有馬頼寧侯爵はこの文にあるように筑後久留米藩主の末裔。人道主義で貧者救済などに尽力し、戦前は政治的活動が目立つ(それもどちらかというと左寄りに見られていた)のはかなり有名かと。この当時は近衛内閣で農林大臣。浅原は同郷と言うこともあり有馬とはかなり親しくしていたと『反逆の獅子』p.163にはある。
「近衛さんとはどういうお方だと、侯爵はお考えですか」
浅原は率直にたずねてみた。
「そうだねえ、私たちの仲間、殿様の仲間で名君とはどういう人だと、馬鹿話をしたことがある」
有馬は筑後久留米藩主の長男で、家族、貴族院議員でもある。
「名君というものは、自分は余り偉くないけれども、名臣を自由に働かせる。それがどうも名君のようだ。ところが、公卿の場合は身命を賭するような名臣を持った名公卿の話は一つも聞かないんだ。身命を賭して働いてくれる名臣も持たず、諫めてくれる忠臣も持たず、自分だけが聡明というのが、どうも名公卿らしい」
近衞家は五摂家の筆頭で、日本の歴史の中で、摂政、関白、太政大臣を出してきた家柄である。
「近衛君は名公卿の典型だね」
皮肉を込めた言い方だった。
もっとも、有馬は近衛とは近い関係にあり、後の大政翼賛会の初代事務総長をつとめた。戦後は中央競馬会の理事長などにも就いて、年末恒例の「有馬記念競馬」は彼にちなんだレースである。
その有馬から「近衛に具申する」という力強い言葉を受けとってからしばらくして、ある新聞記事が浅原の目に留まった。荻窪にある近衛の私邸「荻外荘」で、有馬が三時間にわたって、近衛と懇談したという内容が書かれていたという。
(よくやっていただいているんだな)
浅原はありがたく思った。実際、すぐさま有馬から連絡があった。
「近衛君は自分の意見を聞いてくれた。だから戦争取りやめ。それから内閣総辞職という肝を決めてくれたものだと私は思う」
確かに、有馬は近衛とそういう話をし、近衛から「戦争とりやめ」とも「総辞職」とも聞いたのであろう。ところが、有馬は最後にこう付け加えた。
「だけれども、近衛君だからね…」
最後の一句が浅原の耳の底にやけに残った。実際、この後近衛の心はまたも二転三転し始めるのである。
p.172~173
それにしてもこの有馬による近衛評はかなり興味深いので、全く今田には関わりないのだがピックアップしてみた。実は近衛文麿は、拙ブログのメインテーマ・島津家とはとても深く関わりがあるのはこのエントリなど他いろいろ書いています。
浅原は武藤章にもあった。結果は予想通りであった。武藤はこう主張した。ようやく今田さん登場(^^;)
「石原さんは敗北主義者になる。影佐のいうように陸軍において傷がつく。敗北主義者の汚名を受けたんじゃ、あの満州も、石原さんも、余りに惨めな結末になるんじゃないか。石原さんは支那を過大評価されている。そして、恐ソ病にとりつかれている」
武藤も影佐と全く同意見だった。石原の考えは「反戦思想である」という。「敗北主義者」とも決めつけていた。浅原の見たところ、陸軍将校で石原の考えに最後まで同調したのは中佐の今田新太郎だけだった。
p.183
この文章には長い前置きがありまして、石原莞爾が日中戦争回避のために支那通軍人として著名だった影佐貞昭を参謀本部支那班班長に昭和12年7月就任させたのだが、逆に影佐は陸軍主流派の主戦派に煽られてしまって、浅原健三に莞爾を説得するように頼み込む始末。これでは駄目だと浅原は参謀本部作戦課長の武藤章の所に行くのですが、予想通りの上記の結果となったわけです。8月に第2次上海事変が勃発するともう石原莞爾の手におえない状態となり、莞爾は自らを関東軍参謀副長に左遷していきます。
浅原は当時満州国協和会東京事務所を取り仕切る事実上の主催者であった。この後、石原莞爾が満州から無断帰国(実際は予備役願いを出していた物の受理されなかった)した隙を狙って、東条英機の息がかかった憲兵によりこの事務所は一切捜索され、浅原も逮捕されてしまう。今田もその余波を食らって左遷されてしまうのだが…。
事務所は満州国大使公邸の一角にあり、所長は駐日満州国大使が兼務することとなっていた。しかし、単なる嘱託にすぎない浅原が実権をにぎり、事務所員のほかに、何人かの工作員を雇い、隠密の軍部工作にあたっていたのである。
出入りしていたのは、陸軍大将の本庄繁をはじめ、参謀次長の多田駿、少佐の今田新太郎、陸軍省の片倉衷たちで、陸軍将校等とは月1回の会議をこの事務所でひらいていた。
p.198~199
しかし、このメンバー。多田駿以外は満州事変の関係者ばっかりである。
余談になるが、その頃、参謀本部に勤める少佐の今田新太郎は、奇妙な事業にとりくんでいる。ほとんど知られてないと思いますが、今田が古紙再生事業の企業化に関わった話です。wikipedia「岩畔豪雄」ではこれが岩畔が単独でやったことになってしまっていますが、その当の岩畔が、『追悼南喜一』に寄せた追悼文で「(古紙再生事業は)親友の今田新太郎君から引き継いだ物で、本来は自分の所轄ではなかったのだが」と書いており、当初陸軍側で担当していたのは今田なのは確実です。
古新聞の再生事業である。
今田が石原の直系の軍人であることは既に触れたが、この事業には浅原の友人であった水野成夫や南喜一等が加わっていた。水野は戦後、フジテレビや産経新聞の社長などを歴任し、南も戦後はヤクルトの会長にもなった。
浅原傑さんは父・健三からこんな話を聞いている。
「水野さんも南さんも、昭和の初め頃には共産党活動をしていて、父とはその頃からつきあいがあったのです。ある時、南さんが新聞紙からインクを抜く実験をしていて、それに成功しました。古新聞再生の技術が出来たわけですね。それを父が石原さんに頼み、やがて参謀本部の今田さんが担当となり、軍の予算で事業化を図ったんです。南さんは当時、共産党活動で監獄にいたらしく、その門前まで参謀本部の自動車が迎えにきたという話を南さんの自伝で読んだことがありました」
南の技術で出来た新聞紙再生事業は、昭和15年に「大日本再生製紙」と言う国策会社の設立に結びついた。南は社長、水野は副社長であった。これがのちに国策パルプ工業に合流した。
昭和13年に今田を中心に南や水野がひんぱんに相談を繰り返していた場所が、浅原の定宿である芝虎館であった。新聞紙再生事業の打ち合わせに過ぎなかったのだが、何しろ浅原も、南も、水野も左翼の闘士として官憲からマークされていた存在だった。それだけに、浅原を監視する憲兵の目には、軍の満州グループと左翼グループとが思想的な会合を持っている物と映った。
p.200~201
…しかし、上記の文で分かるように、これが今田左遷のきっかけになったのですが…
憲兵隊は容疑者を南や水野まで広げてみたが、芝虎館で行っていたのは、左翼革命の相談ではなく、古新聞の再生事業についてであり、それは参謀本部の今田の指導にもとづいたものだった。憲兵隊の取り調べを受けた人物の中には、十河信二や満州重工業の鮎川義介も含まれていたが、鮎川にしても創立したばかりの満業の経営に奔走していたにすぎない。左翼革命うんぬんとは、まるで無関係であった。十河信二は今まで何回か出てきましたが、満鉄の参事から、この当時は石原莞爾のブレーン、戦後は国鉄総裁となり新幹線事業の推進をしたのは余りにも有名。鮎川義介も有名すぎて書くこと無いが、NISSANの創業者と書くのが一番分かりやすいかな。この当時は新興財閥として満州国の事業をほぼ一手に任されていたのですが、確か鮎川は「ニキサンスケ」という満州国東条閥の一員だったはずで…あれれ?
p.207
長くなったのでここでいったん切ります。
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