拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
タイトルみていかにも古そうかつお堅そうなこの本、実は戦前参謀本部がおん自ら出版した満州事変公式記録本…になる予定だったのですが、その後すぐに日中戦争が始まってしまい、当初予定した半分も作れなかったという曰く付きの資料なのです。
入手した本は戦後の昭和47年に再版された物。
奥付みてると
それと、発行所が株式会社厳南堂書店。この本屋、私のような戦国島津ヲタにとってはとっても馴染みのあるところで、あの『鹿児島県史料』の取次店なのだ。こんな物もつくってたのか…。
さて、これに今田はどのように登場するのだろうか?
入手した本は戦後の昭和47年に再版された物。
奥付みてると
昭和十年三月二十五日第一刷発行と37年ものタイムラグがある。あと第2刷が「9月18日」発行というのは柳条湖事件勃発日と引っかけてるんだろうな、きっと。
昭和四十七年九月十八日第二刷発行
それと、発行所が株式会社厳南堂書店。この本屋、私のような戦国島津ヲタにとってはとっても馴染みのあるところで、あの『鹿児島県史料』の取次店なのだ。こんな物もつくってたのか…。
さて、これに今田はどのように登場するのだろうか?
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今回紹介するのは表題の本。
昭和12年~昭和13年、石原莞爾が参謀本部作戦部長となり、軍での権勢のピークを迎えた後、自らを左遷して関東軍参謀副長となり、東条英機と対立して失脚するまでを、莞爾が残したかなり汚い筆跡のヾ(^^;)メモ帳を元にたどったものです。
…いや、本当に汚いんだから(^^;) これ後で本人読めたのかしら
これに今田が何カ所か登場するようです。
後今田が関係ない部分でも興味深い文はピックアップしていきたいなと。
ではまいる。
昭和12年~昭和13年、石原莞爾が参謀本部作戦部長となり、軍での権勢のピークを迎えた後、自らを左遷して関東軍参謀副長となり、東条英機と対立して失脚するまでを、莞爾が残したかなり汚い筆跡のヾ(^^;)メモ帳を元にたどったものです。
…いや、本当に汚いんだから(^^;) これ後で本人読めたのかしら
これに今田が何カ所か登場するようです。
後今田が関係ない部分でも興味深い文はピックアップしていきたいなと。
ではまいる。
前の話はこちら
前のエントリで
「どうして当時皇道派将校だった鈴木貞一に「統制派」将校の今田がつるんでいたのか分からない」
と言うようなことを書いておりましたが
…
この論文を読んで解決。
「昭和8~9年の軍部と「鈴木貞一日記」」(『史学雑誌』86(10))
実はこれ、前のエントリで紹介した『鈴木貞一日記』の解説論文。…何で一緒に入手しなかったんだ_| ̄|○
これに鈴木貞一の略歴が載っていた。
結構長いので、箇条書きで紹介。
・明治21年(1888年)12月16日 千葉県現芝山町生まれ 実家は富農。
・地元で初等教育を終えた後、横芝の私塾に進む(貞一が長男のため,父親が遠方にやらなかった)
・親類の青年に刺激されて、東大進学を目指す
・が、腕試しに受けた陸軍士官学校に何と合格してしまう
・おじ・加瀬倭武が既に陸軍軍人だったため、その勧めにより陸士に進学することに
・陸士は22期。同期生には村上啓作、牟田口廉也、鈴木率道、笠原幸雄、安田銕之助など。一期上に石原莞爾など。一期下に根本博など。
・明治43年、陸士卒業。同年12月少尉任官、豊橋歩兵第18連隊付に配属。
・明治45(大正元年)~大正2年 天津駐屯軍
・大正2年12月 中尉昇進
・大正3年12月 陸軍大学校入学 同期に町尻量基、牟田口廉也、佐々木到一など
英語と支那語を専攻。ちなみに支那語専攻者は非常に少なく、鈴木を入れて3人しかいなかったらしい…
・大正6年11月卒業 歩兵第18連隊に復帰(小隊長)
・大正7年7月 参謀本部出向支那班庶務
・大正8年1月~10月 研究生として大蔵省派遣
・大正8年10月~ 私費で中国旅行 この時同行したのが井上三郎侯爵(井上馨の養嗣子)
・大正9年4月 大尉昇進、参謀本部部員(支那班)
・大正9年4月~10月 尼港事件調査のためニコライエフスク出張
・大正9年11月~11年2月 上海駐在武官補助官
・大正11年2月~ 参謀本部作戦課
・大正11年夏 支那班の酒井隆と共に北京へ出張 目的は張作霖軍立て直し
・大正12年8月 参謀本部附(北京駐在)直接上司に重藤千秋(後板垣征四郎)
・大正15年2月 久留米歩兵第48連隊付
・昭和2年1月 宇垣陸軍大臣の命を受けて武漢出張(蒋介石工作)
・昭和2年6月 山梨半蔵と共に北京出張(張作霖工作)
・昭和2年7月 参謀本部作戦課 「木曜会」結成に参画、政治家(例えば森恪、近衛文麿など)、官僚とつながりを持つ
・昭和4年2月~10月 イギリス出張(満蒙問題解決のための情報収集)
・昭和6年1月 兵器本廠付(軍務局) 政治的活動が主となり、9月の満州事変に於いては小磯国昭・永田鉄山と共に外務省の谷正之亜細亜局長などと密接に連絡を取り陸軍の要求の実現に尽力
(以下省略)
ぶっちゃけてまとめると
「鈴木貞一は参謀本部・支那班に於ける今田新太郎の先輩」
しかも、鈴木の経歴は全体を通してまさしく「陸軍の中の支那通」と言える物で、今田にとってはかなり重要な先輩だったことは確かだろう。
…まあ、鈴木は後に支那そっちのけで政治大好きになってしまいますが…
しかし、鈴木はいつ頃まで今田とつながり持ってたのでしょうかね?
この論文によると鈴木貞一の日記は昭和9年分までは残っているのだが、それ以降の分は保管していた人が誤って処分してしまい(○。○)残っていないようだ…
あと、ちょっと気になる昭和6年(満州事変勃発年)の時の日記などは残ってはいるが非公開非翻刻らしい_| ̄|○
※この論文を見ると、伊藤隆氏らは中身を見たようですが
他今田と直接関係ないけど、この論文の気になることなど
前のエントリで
「どうして当時皇道派将校だった鈴木貞一に「統制派」将校の今田がつるんでいたのか分からない」
と言うようなことを書いておりましたが
…
この論文を読んで解決。
「昭和8~9年の軍部と「鈴木貞一日記」」(『史学雑誌』86(10))
実はこれ、前のエントリで紹介した『鈴木貞一日記』の解説論文。…何で一緒に入手しなかったんだ_| ̄|○
これに鈴木貞一の略歴が載っていた。
結構長いので、箇条書きで紹介。
・明治21年(1888年)12月16日 千葉県現芝山町生まれ 実家は富農。
・地元で初等教育を終えた後、横芝の私塾に進む(貞一が長男のため,父親が遠方にやらなかった)
・親類の青年に刺激されて、東大進学を目指す
・が、腕試しに受けた陸軍士官学校に何と合格してしまう
・おじ・加瀬倭武が既に陸軍軍人だったため、その勧めにより陸士に進学することに
・陸士は22期。同期生には村上啓作、牟田口廉也、鈴木率道、笠原幸雄、安田銕之助など。一期上に石原莞爾など。一期下に根本博など。
・明治43年、陸士卒業。同年12月少尉任官、豊橋歩兵第18連隊付に配属。
・明治45(大正元年)~大正2年 天津駐屯軍
・大正2年12月 中尉昇進
・大正3年12月 陸軍大学校入学 同期に町尻量基、牟田口廉也、佐々木到一など
英語と支那語を専攻。ちなみに支那語専攻者は非常に少なく、鈴木を入れて3人しかいなかったらしい…
・大正6年11月卒業 歩兵第18連隊に復帰(小隊長)
・大正7年7月 参謀本部出向支那班庶務
・大正8年1月~10月 研究生として大蔵省派遣
・大正8年10月~ 私費で中国旅行 この時同行したのが井上三郎侯爵(井上馨の養嗣子)
・大正9年4月 大尉昇進、参謀本部部員(支那班)
・大正9年4月~10月 尼港事件調査のためニコライエフスク出張
・大正9年11月~11年2月 上海駐在武官補助官
・大正11年2月~ 参謀本部作戦課
・大正11年夏 支那班の酒井隆と共に北京へ出張 目的は張作霖軍立て直し
・大正12年8月 参謀本部附(北京駐在)直接上司に重藤千秋(後板垣征四郎)
・大正15年2月 久留米歩兵第48連隊付
・昭和2年1月 宇垣陸軍大臣の命を受けて武漢出張(蒋介石工作)
・昭和2年6月 山梨半蔵と共に北京出張(張作霖工作)
・昭和2年7月 参謀本部作戦課 「木曜会」結成に参画、政治家(例えば森恪、近衛文麿など)、官僚とつながりを持つ
・昭和4年2月~10月 イギリス出張(満蒙問題解決のための情報収集)
・昭和6年1月 兵器本廠付(軍務局) 政治的活動が主となり、9月の満州事変に於いては小磯国昭・永田鉄山と共に外務省の谷正之亜細亜局長などと密接に連絡を取り陸軍の要求の実現に尽力
(以下省略)
ぶっちゃけてまとめると
「鈴木貞一は参謀本部・支那班に於ける今田新太郎の先輩」
しかも、鈴木の経歴は全体を通してまさしく「陸軍の中の支那通」と言える物で、今田にとってはかなり重要な先輩だったことは確かだろう。
…まあ、鈴木は後に支那そっちのけで政治大好きになってしまいますが…
しかし、鈴木はいつ頃まで今田とつながり持ってたのでしょうかね?
この論文によると鈴木貞一の日記は昭和9年分までは残っているのだが、それ以降の分は保管していた人が誤って処分してしまい(○。○)残っていないようだ…
あと、ちょっと気になる昭和6年(満州事変勃発年)の時の日記などは残ってはいるが非公開非翻刻らしい_| ̄|○
※この論文を見ると、伊藤隆氏らは中身を見たようですが
他今田と直接関係ないけど、この論文の気になることなど
前回予告したとおり、『「挫折」の昭和史』に登場する花谷正のエピソードです。
この人と今田のつながりというと、柳条湖事件、そして昭和32年にこの事件の実態を秦郁彦のインタビューで”暴露”した「花谷証言」に尽きます。
まず結論から先に書いちゃいますと
「やっぱり花谷って酷い人間だよねー」
ということです。
あと、片倉衷についてもいろいろ書いてられるので、それも取り上げていきます。
ではまいる。
この人と今田のつながりというと、柳条湖事件、そして昭和32年にこの事件の実態を秦郁彦のインタビューで”暴露”した「花谷証言」に尽きます。
まず結論から先に書いちゃいますと
「やっぱり花谷って酷い人間だよねー」
ということです。
あと、片倉衷についてもいろいろ書いてられるので、それも取り上げていきます。
ではまいる。