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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介させて頂くのは、石原莞爾の敵ヾ(^^;)大谷敬二郎という人物による『昭和憲兵史』と言う本です。
※大谷がどれくらい石原莞爾を敵視していたかについては拙ブログのこの辺とか
 またこの記事に紹介した本は、この『昭和憲兵史』を参考資料としている
日本憲兵正史』と言う本によると、大谷は満州事変時には奉天で憲兵を務めていました。この時にどうも石原莞爾や花谷正にかなり不快な目に遭わされたようで、その時から石原を個人的に敵視していたように思えます。

タイトルでも分かるように、この人は憲兵出身で、戦後は東京裁判により刑に服しますが、その後釈放されていわゆる「軍内幕暴露系」の作家になったという人です。ただ、悪名高い憲兵の「名誉回復」を図っておられたようで、その点記述には注意が必要かと思います。

ざっと読んだ限り、結構今田の関連記述は多かった。
ではまいる。

さて、すでに、しばしば述べたように、荒木陸相当時の皇道派青年将校の無軌道ぶりはひどかった。軍の首脳はその同志であったし、憲兵さえ皇道派に奉仕している。彼らは有頂天になって国家の志士を気取り、真面目に隊務にいそしむ勤勉な将校を職業軍人とけなし、我一人国家の運命を背負うていると自負し、著しい独善に陥っていた。(中略)
こんな事から、一部幕僚の中から、青年将校の政治策動を禁止せよとの声が起こってきた。昭和9年秋の青年将校と中央部幕僚との懇談会は、このためにもたれたものである。
この年11月6日より16日まで、九段上の富士見荘の会合に始まって、後、陸軍偕行社の会合に終わった、中央部幕僚将校と在京隊付青年将校(統制派尉官を含む)との懇談会は軍事予算問題を機会として、首脳部の推進と少壮青年将校の大同団結促進を目標に開催されたと理解されているが、実は、その頃、統制派幕僚達によって、青年将校の政治運動(国家改造運動)を禁止し、これに代わって陸軍首脳部が、国家改造運動に熱意を示し、軍全体の組織をもって革新に邁進すべきだとの方向を決定し、これがため、青年将校と先ず胸襟を開いて話し合い、そこに彼らの反省を求めようとしたものであった。
11月6日には、中央部側からは、影佐禎昭中佐、満井佐吉中佐、馬奈木少佐、今田新太郎少佐、池田純久少佐、青年将校側からは、常岡大尉、権藤大尉、辻政信大尉、塚本誠大尉、目黒茂臣大尉、柴有時大尉、それに海軍の末沢少佐も参加し、懇談は進められたが、この会合には、始めからまずい空気が流れていた。
(中略)
その後、山口大尉や柴大尉の肝いりで、真の大同団結のために、どうしていけばよいかといった方向に、討議は進められたが、両者、平行線を辿って結論が出なかった。とうとう、最後の日、16日には、中央から、牟田口廉也、清水規矩、土橋勇逸、影佐、下村、満井、田副の各中佐、池田、田中、今田、片倉の各少佐、青年将校側からは、常岡、山口、柴、目黒、大倉、村中、磯部の各大尉等が参会し、特に中央部からは錚錚たる中堅幕僚の大部分が席を列ねて会議は進められたが、席上、村中が
-それでは、軍中央部は、我々の運動を弾圧するつもりか
と、問題をえぐり出してしまった。影佐中佐はこれに答えて
-そうだ。今後、軍の方針は、今話した方針で進む。これに従わなければ、断固として取り締まるであろう。もし、どうしても政治運動を望むならば、軍籍から身をひいてやるがよい。
といいきった。これで彼らの説得を期した懇談会もとうとう物別れに終わった。
p.119~120
この話は林秀澄の回想でも登場。
全軍の総意の形で宇垣を蹴落としたが、実際は総意ではなかった。軍務局幕僚の2,3の音頭に省部の中堅幕僚が踊った。そしてこれに突き上げられて首脳部も大勢に順応して、前代未聞の宇垣内閣流産に凱歌を上げたのであった。では、この体制を作り上げた者は誰か、またその演出者は誰か、いささか、この問題を掘り下げてみよう。
言うまでもなく宇垣組閣を阻止した原動力は軍務課政策班にあった。班長は佐藤賢了少佐であったが、彼が着任日も浅いというので満州班長片倉少佐がこれを補佐していた。(中略)宇垣排撃旋風の中心の目はこの片倉であった。
この片倉を中心とした政策班は、既に1月22日、宇垣、南、荒木、大角、山本、勝田は次期総理として好ましくないと決めている。(中略)政策班としては、近衛と林を無条件に望んでいたことになる。
(中略)軍がこの近衛を担ぎ出そうとするのは、その名門によって予期される政治力と革新性にあった。(中略)近衛は未知数としても林はロボットに適する人であった。
(中略)林の後には陸相時代からの浅原建三がいたし、軍には満州グループといった満州建国組の同志がいた。これが片倉を表面に出して、その裏でからみ合って政治的に動いていたと見るのは僻目だろうか。
私はここで推理を弄しているのではない。この宇垣内閣流産劇の中心は片倉少佐にあったが、その楽屋裏には浅原建三や石原大佐等の満州グループが介在していたと信じている。その意味で宇垣流産は一つの陰謀であった。
最近、当時の兵務課長田中新一氏の書かれたもの(石原莞爾の世界観、「文藝春秋」40.2)に、
「弱体無能の広田内閣は反乱直後の鎮静役がせいぜいで、12年1月総辞職した。石原は好機至れりとして彼の意中の人物、林銑十郎陸軍大将を後継首班に押すことにした。しかし大命は宇垣陸軍大将に降下した。
その日、彼は兵務課長室に筆者を訪れて言うには、宇垣では国政改革は出来ない、また三月事件や十月事件の関係者である宇垣が内閣の首班となることは軍統制上支障となる、宇垣首班の絶対阻止が必要だ、と。
筆者も同感だ。そこで二人はすぐ寺内大臣を大臣室に訪ねたところ、折良く梅津次官も同室だったので、宇垣首班阻止の趣旨を説明。当初は大臣も次官も渋っていたが、最後には軍内粛清の前には宇垣阻止もやむを得ぬと納得した。」
とある。石原の林大将担ぎだしのための宇垣阻止工作であった。
p.254~255
<補足>
・田中新一:のち石原莞爾の部下となるも、対中国不戦派だった莞爾と対立して足を引っ張り、太平洋戦争直前には武藤章の部下となるも、対米国不戦派だった武藤と対立して足を引っ張り、太平洋戦争中は参謀本部第一部長として実質的な陸軍の責任者となるが、戦局がまずくなると東条英機首相を面罵して左遷された(このことは『日本憲兵史』にも登場)。西浦進曰く「芝居を打って責任を逃れたのだと言う噂だった」(「西浦進氏談話速記録」)事実、戦後は東京裁判の被告にならなかった。
・宇垣:宇垣一成
・寺内大臣:寺内寿一
・梅津次官:梅津美治郎 石原莞爾最大の敵だったのは拙ブログで頻出
林大将の私邸は千駄ヶ谷にあった。当時赤坂憲兵分隊長だった私は、しばしば大将を訪問して先輩への礼を尽くしていた。(中略)組閣が難航していると伝えられいた31日夜遅く、私の官舎をたたく者があった。出てみると林大将からの使者で
「大将がぜひ隊長にお目にかかりたいと言われるので、すぐ迎えの自動車で組閣本部に来てもらえないか」
と言うのである。(中略)そこで大将はこういった。
「今まで組閣に努力してきたが、ある一点について難関に逢着している。(中略)実は陸軍大臣の問題だが、陸軍の三長官は中村孝太郎を推薦してきている。ところが十河君は陸軍大臣に関東軍の板垣少将を要求している。しかも大変強硬なのだ。(後略)」
と、その苦渋をしみじみと語られた。私はこの話を聞いているうちに、大将が私を呼びつけた意味が飲み込めた。十河という組閣参謀をどのようにして追放するか、その追放に憲兵の協力を求めたい心組みなのだと分かった。(中略)何も憲兵を煩わすことでもあるまいと言う、私の意思表示だった。ところが大将は
「それがね、そう簡単にいきそうにもないのだよ、どうも十河君の裏には何人かがいてこれを操っているのだ」
と心配気だった。
十河には秘書がついてきていた。この秘書がしばしば外に電話して組閣の進行状況を知らせている。相手の電話番号は銀座の○○○○番だ。(中略)
この時私は大将にこういった。
「憲兵は政治に関与し、事に政局の渦中に入ることは絶対に禁物だとされている。だから私はこの際十河氏に因縁を付けて憲兵隊に引き上げたり、何か裏の策動があるからとてこれに手を付けると言ったことは、この複雑な政局では出来ないことです。だからそういったことの依頼でしたら、残念ながらお断りします。しかし憲兵は事治安に関しては常に大きな関心を持っています。治安上必要とあらば堂々と介入します。そこで閣下は、もはや躊躇することなく、十河氏をあなたの意思で追い出してしまいなさい。その結果、十河氏、あるいはその背後の勢力が閣下の組閣を妨害したり、閣下の身辺に危険を及ぼすおそれがあれば、それは明らかに治安問題ですから、私の責任に於いて善処します。(後略)」
とすすめた。大将はその翌朝十河を組閣本部から追放した。そして何事もなく組閣は順調に完了したのだった。この時私は大将に"あなたは十河氏をどうして組閣参謀にしたのか、以前からの知り合いか"と訊ねたが、大将は”これまで一面識もなかったが、今度ある人の推薦で-”と言葉を濁していた。
(中略)
当時、私は浅原健三が林大将の陸相当時腰巾着のようにくっついていたことは知っていた(中略)翌13年私は浅原健三一味を検挙した。そのことは詳しく後述するが、これら一連の動きの底に、浅原を含む所謂満州組の策謀があり、片倉も今田も石原もそのグループで、それは板垣を政界に押し出す秘密工作であったのである。
板垣少将のような若手を大臣にという声は2.26事件直後にあったことは既に書いておいた。この板垣少将説を提案した幕僚が誰だったか、おそらく今田新太郎少佐辺りと、私は見当を付けているが、これが広田内閣瓦解となると、林によって板垣を政界に送り出そうとした。林ならば浅原の操縦で意のままに動かせると、十河を代表として組閣本部に送り込んだ。これが筋書きだった。私が満州組の陰謀というのはこれである。
梅津次官の"陰謀"説は流石に炯眼であった。林内閣の杉山陸相は、宇垣騒動に動いた人々を中央より漸次追放した。世に梅津の粛清と言われる物で、石本虎三軍務課長も片倉少佐も、その夏頃までには中央を追われた。だが、これがあってから石原と梅津の中は犬猿の間柄になったと言われている。
p.258~259
<補足>
・板垣少将のような若手を大臣に~:「原田日記」(『西園寺公と政局』と改題)によると、2.26事件直後に秩父宮が「中堅将校の意見は現在の大将級はみなさん辞めてもらって板垣少将ぐらいが次の大臣に(以下略)」と原田熊雄に語っていたという(p.230)
・梅津次官の"陰謀"説:松村秀逸『三宅坂』によると、大命降下後、組閣本部を出た林銑十郎は閑院宮邸に向かった。それを松村から聞いた梅津美治郎次官は「陰謀だ、よく分かった」と言って部屋を出て行ってしまった。梅津は進退窮まった林が参謀総長だった閑院宮に泣きついて陸軍を抑えて板垣を引き抜き陸軍大臣に据えるのではと睨んでいたが、それは思い過ごしだった。(p.257)
この当時たかだか一憲兵分隊長だった大谷に林銑十郎が泣きつくとはかなり考えがたく、事実、実際には林銑十郎には右翼上がりの補佐役がついていたという話も聞いたことが(出典元失念)。
さて、浅原健三という左翼労働者上がりの、もちろん九州民憲党員として普選以来2期も代議士を務めた男であるが、この労働者出身の闘士が、すっかり政治から手を引いて多くの軍人とつながりを持っていることに疑問を持った憲兵は、早速内偵を始めた。13年5月の始めであった。そしてその内偵はまず彼が出入りして協和会東京事務所に向けられた。
(中略)
憲兵はこれまでの協和会中心の隠密な内偵をやめて、浅原個人に集中した直接尾行によって浅原の身辺を洗うことにした。その結果一応の成果は
1 浅原は省線大崎駅近くの海軍大学校の正門近くにささやかな別宅を持っているが、虎ノ門の海軍省裏の、とある旅館に事務所をもち、ここを連絡場所としていること、またしばしば現役将校等と新橋その他の料亭に出入りしていること
2 協和会事務所は五郎丸保が事務を主催しているが、浅原は嘱託であるに関わらずこれが実権をにぎっていること
3 浅原と軍人との接触は主として軍務局満州班の将校であるが、参謀本部の今田少佐とは公私の交際が密で、また、しばしば参謀次長多田中将に会って、国内問題でいろいろと意見具申をしていること
4 協和会事務所には本庄大将始め満州建国に働いた関東軍在職経歴者が出入りすることが多く、先の五郎丸も本庄の推薦による者だが、浅原とは内心反撥していること
といった物で、これといった収穫もなかった(後略)
p.316~317
「今田と公私にわたって親しかった」というのは、浅原やその家族の回想とも一致しています。(拙ブログこの辺など)
また、五郎丸保が浅原に反感を持っていたというのは、拙ブログのこの記事にも出て来ました。
石原の新京に転じてからは、主として多田参謀次長の下に出入りし、いろいろと献策していた。浅原を多田に紹介したのは、多田次長の腰巾着と言われた今田新太郎少佐である。満州事変当時、参謀本部部員で、旅順にいた今田は、事変謀議の一人で、事変後は自治指導部生みの親、だから協和会運動には最も熱心だった。のち石原に従って東亜連盟運動の同志として働いていた。
p.323~324
と大谷は書いているが、多田和尚大将閣下と今田の仲って実際どうだったんでしょうか(^^;) 兄のように慕っていた中江丑吉には多田についての悩みを相談したことがあったようですが。
また、事変謀議の1人で自治指導部生みの親、と言う所までは同意するのですが、協和会運動に最も熱心だったかどうかは「?」というのが私の今のところの見解。今田は協和会の母体・満州青年協会と対立していた大雄峰会に近かったようですし。
また、柔道家連盟という物が、東京や京都に、協和会の後援でつくられていた。協和会と柔道家の組み合わせは、いささか奇妙であるが、その狙いはこうである。
おおよそ柔道家は思想的には純真無垢で単純な人々が多い。その上彼らには必ず弟子がいる、一人の教師には少なくとも十数人の門弟がいる。だから柔道家100人を得れば千数百人の門弟も同時に獲得できる。そこで日本柔道を満州にも導入するという目的で日満柔道家連盟をつくり、協和会の協力団体としていた(後略)
p.325
と、大谷は書いているが、複雑に考えすぎのような。これは今田の親友・牛島辰熊がらみでしょう。なお今田と柔道と東亜連盟の関係についてはこういういい論文が既にある。→「武道家福島清三郎と石原莞爾」(pdf)
その頃、浅原事件で内地を追われた浅原健三は、上海に落ち着いていた。家族を呼び実業に精だし、上海の中国実業者と手を組んで広く貿易事業に乗り出していた。しかし彼が上海にいることは東京にも伝わる。それだけでは無く、浅原が京都の石原を訪問し、何事か画策しているといったデマを流す者もいて、それらが、そのままに東条の耳に入る。東条はカンカンになって怒った。彼は豊島憲兵司令官を呼びつけて、浅原の軍占領地の滞留はまかりならぬ、さっそく追い払えと命令した。15年10月頃のことであった。
憲兵司令官も困惑した。その頃司令部警務課長だった東条の腹心四方大佐も、この無謀な命令には不賛成だった。だが、一徹の東条に翻意を促がすことは容易ではない。豊島中将は一策を案じた。当時特高課長の私を上海に出張させて、浅原の実際の行動を現認せしめ、この報告によって、東条の翻意を求めようというのである。このため、私は、その秋上海に飛んだ。浅原とは一年半ぶりの対面だった。私は滞在数日で東京に帰り、一片の報告書を書いた。
「浅原は上海に滞留以来、かつて交友のあった将校、石原、多田、今田、片倉等には、事件によって迷惑を掛けたことを謝し、この際、しばらく交際を遠慮する旨の挨拶状を送った事実はあるが、その後、政治と名のつくものには、一切触れず、言々と実業方面に新天地を開拓しありて、かつての将校との接触回復は、今のところ認められない。しかし、いつまでも、寄りを戻さぬと言うのではないから、これらの将校との接近には、なお、よく注意を怠ってはならない。」
と言った、毒にも薬にもならない不得要領の物であった。
p.429
<補注>
・豊島司令官:豊島房太郎 のち第二軍司令官となり、今田の上司となるなど実は縁がある。
・四方大佐:四方諒二 憲兵の重職を歴任。東条英機の腰巾着として在任中は悪名高かった。
支那派遣軍総軍に津野田知重という少佐参謀がいた。中支に勤務する前は、北支山西地区のある兵団の参謀だった。参謀長は今田新太郎大佐、言うまでもなく、今田は石原の直系、浅原とも昵懇の間柄だった。東亜連盟運動推進者の一人である。この若い参謀は、今田参謀長の下でいろいろと教えられたが、中でも東亜連盟思想については、大変啓蒙を受けた。そして、これに共鳴し堅い信者になっていた。ところが、中支への転任に当たっては、総軍参謀として板垣総参謀長の下で連盟運動に活躍していた辻政信参謀に紹介され、また、上海には同志浅原健三にあってその教えに接するよう指導された。こうして津野田少佐は南京に赴任し辻の指導を受け、また、上海に浅原を訪ねその意見を聞いた。当時、浅原は実業家ではあったが、在上海支那財閥とも交際を持ち、現地軍の占領地行政指導には強い批判的態度を持っていた。もともと、彼は政治家であり政治が好きなこととて、鋭い政治感覚に恵まれていたので、東条政権の対支政策ないし国内政治にも何かと意見を述べた。津野田は浅原の識見に敬服したが、これから得た物は、強い反東条意識であった。
p.468
津野田本人の回想によると、今田からは強く影響は受けた物の、板垣とは多分面識はなく、辻はどちらかというと軽蔑していたくらいで、人物関係に関する大谷の憶測は外れていたようです。あ、ついでに言うと、大谷は「津野田は浅原健三の教えを受けた」としていますが、津野田に依れば浅原とも面識が出来たのは今田がニューギニアに飛ばされる直前からのようで、教えを受けたというわけではないようです。

今田に関係するのはこのくらいでしょうか。


以下は今田は直接登場しないが、関係しそうな所とか 文が長いので要点抜粋します
・大正8年8月、大川周明らは「猶存社」を結成、翌9年1月には中国にいた北一輝を招聘して「革命的日本の建設」「アジア民族の解放」をスローガンとした。この猶存社には西田税、笠木良明、安岡正篤、中谷武世らがおり、同志も増えてきてその後は…と思いきや、北と大川が喧嘩したことで分裂。北は西田と合流、ご存じのように隊付の青年将校に人気を得た。一方の大川は参謀本部に多くの支持者がいた。小磯国昭、岡村寧次、板垣征四郎、土肥原賢二、多田駿、河本大作、佐々木到一、重藤千秋など、特に支那課出身の幕僚と親交があった。(p.71~72)
・対ソ派と容共派:昭和8年(1933年)6月、荒木貞夫陸軍大臣は省部の幕僚を集め「国防上の見地から、我が国に最も脅威を感ずる相手国を想定して、これに対して完全な自衛方法を研究する」会議を行った。この時、「軍事的見地から抗日・侮日盛んな支那をたたいた後でソ連に備えるべきだ」と発言したのが永田鉄山だった(実はこれは永田の意見ではなくて部下の武藤章の意見だった)。ところがこれに怒ったのが小畑敏四郎で「ソ連一国に対する自衛すら困難なのに、更に支那まで相手にするのは無理だ!支那とは事を構えず和協の道を求めるべきである」と主張。しかしこれが永田・小畑の喧嘩で終わらず、その後の皇道派と統制派の対立の原因になった。さらに、この時の話を元に皇道派は統制派のことを「対ソ妥協派」「容共派」と攻撃するようになった。ついでに統制派という物もなかった。しかし、近衛文麿はこの皇道派の軍人達の言うことを鵜呑みにして間違った判断をした(p.226~227)
・近衛文麿を陸軍のロボットという人がいるが、それはとんでもない間違い。あと近衛は陸軍嫌いという人もいるがそれも間違い。皇道派の軍人達はむしろブレーン。(p.251~253)
・近衛は第一次内閣の時に当初の杉山元陸軍大臣を辞めさせて板垣征四郎を後任にするが、本当の意中の人物は小畑敏四郎だった。それは先述の昭和8年の会議の内容が中国には曲解されて伝わり「小畑は支那友好派」で現地では通っており、日中戦争を終わらせたかった近衛には都合が良かったから。(p.283)
・上記の近衛人事に怒ったのが梅津美治郎陸軍次官で、さらに近衛が「板垣の次官には皇道派の柳川平助を」と考えていることを知り更に激高、「近衛如きに陸軍を振り回されてたまるか」と朝日新聞に記事を横流しはするし、とどめに自分の後釜(※梅津は板垣の先輩だったので慣例により留任できなかった)には東条英機を推薦して陸軍省を去った(p.285)
・浅原事件で、浅原健三を検挙したとき、一番喜んだのは何故か真崎甚三郎だった。その理由は「教育総監だった当時、ライバルだった林銑十郎陸相の裏には"アカ"がいるとずっと言っていたが、これでようやく自分の言っていたことが正しかったと証明された」から(p.320)
・太平洋戦争末期、石原広一郎(石原産業の総帥、戦前は政治運動に熱心だった)と話をする機会があったが、「アメリカから紀州出身の男が故郷に帰ってきたという話を聞いたよ」大谷が(日本は制海権がないのにどうして話の男は日本に帰って来れたんだろう?)と不思議でたまらず石原広一郎に「何でその男は今頃日本に帰ってきたんでしょうね?」と質問してみると広一郎曰く「何だって強制送還されたらしいよ、アメリカで支那人と間違われたらしい」大谷「支那人として送還されたものがなんで日本に帰ってきたんでしょうか」「支那で調査をされたところ日本人だと分かって、支那側の行為で日本軍占領地に放置された、それから日本軍の斡旋で日本に帰って来たそうだよ」「不思議な話ですなあ」…大谷は(石原氏の話した男はアメリカのスパイだ)と直感したが、その後調査をしたつもりですっかり忘れてしまったらしい…ちなみに戦後知った話だが、連合軍は日本の本土や周辺に数百名に上るスパイ団を送り込んでいたとか(p.390~392)
・東条英機は首相になったときに田中隆吉を兵務局長にしたが、何であんな人事をしたのか分からない 兵務局は軍の軍紀・風紀の元締めなのに田中隆吉と言えば札付きの謀略家で大言壮語と手前味噌の広言で不軍紀で定評のある人なのに。(p.424)
大谷は「田中が東条が関東軍参謀長の時に部下だったからかなあ」と、軍紀命の東条が軍紀シラネの田中隆吉を重職に据えたことに疑問しきり。昭和16年春、大谷は京都憲兵隊長になるが、その時偶然に田中隆吉の友人である浪人が訪問したので苦情をひとしきり伝えるようにと言ったところ、悪口言ってただろ~と流されてしまったらしいです… あ、そういえば東条は辻政信も贔屓してましたが、辻も田中隆吉とは軍紀シラネでは良い勝負でしたね。



以前読んだ『日本憲兵正史』などの記述から「偏向してるんだろうな」と実は余り期待してなかった大谷敬二郎の本。実際読んだら、まあ普通でした_(。_゜)/ あれほど嫌っていた石原莞爾についても「(第16師団長の頃は)立派な将帥であった」(p.425)「戦史研究では世界的な第一人者」(p.426)と評価しています。ただ、自分が逮捕に深く関わった浅原健三、そしていわゆる”満州グループ"のこととなると「あれは"赤"の陰謀だった」「石原のブレーンだった満鉄調査局員・宮崎正義はモスコー大学での共産主義者」とかたくなに自分を擁護しているように感じられます。
しかし読んで一番驚いたのは、近衛文麿と皇道派軍人をこれでもかとこき下ろしていること。下手したら石原莞爾より遙か下に低評価かも知れない。特に皇道派が「統制派は計算ずくで日本を戦争に導いた犯人!それは統制派がソ連の息がかかっていてソ連の言うとおりに動いたから!」と言っていたことに対しては怒りを通り越して呆れているような様子でした…私も唖然でしたが(爆)でも同じような陰謀論を言っている学者先生、今でもいたような気が。

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