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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回は、前回までの『片倉衷氏談話速記録』に関連した史料『戦陣随録』の紹介です。
一度触れたことがありますが、『談話速記録』が1982~83(昭和57~58年)に発行されたのに対し、こちらはそのほぼ10年前の1972年(昭和47年)に書かれた物です。

ではまいる。

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9月13,4日頃、チョウ南で中村事件調査の帰途奉天に立ちより、奉天特務機関花谷少佐と一夕会食したことがあったが、花谷少佐は沈痛な面持ちで酒杯を捨てて長嘆息し、計画は中止となった、俺は除外された、として鬱憤を漏らしたことがあった。もちろんその計画については何も語らなかった。
p.24
補足
・チョウ南:チョウはさんずいに「兆」
・中村事件:中村大尉暗殺事件 のちの柳条湖事件の伏線となる
実は花谷証言とも異なるこの内容(花谷証言では「自分は直前まで謀議に参加していた」とする)。但し、花谷が途中から板垣・石原に忌諱されていたのはどうも事実らしい(『昭和史探訪』1「満州事変の立会人」元朝日新聞記者・武内文彬の証言)。
9月18日、私は夕刻同期生若干と旅順大和ホテルで久方ぶりで会談したが、従前からの諸般の経緯に鑑み「何か今夜辺り起きはしないか」との予感に駆られ落着かなかった。午後9時頃帰宅、夜半に至るや、日直将校小西貞治大尉から電話があり、奉天特務機関からの軍機電報入手「奉天付近事件発生日支兵衝突」のことを知り、直ちに参謀長官舎へ電報を持参せしめ、更に武田、中野、新井各参謀、竹下調査班長にそれぞれ電話連絡して参謀長官舎へ急遽集合を要請し、私服のまま駆けつけた。軍服姿は石原参謀一人であった。更に軍司令官官舎に三宅参謀長は電話したが、目下入浴中とのことで、直ちに軍司令部に集合せよとの指示が住友副官から伝えられた。
軍司令部へ行く途中、参謀長官舎の左前に柳の木があった。新井、武田、中野の各参謀と私は、立話であったが、新井参謀が「どうもこれは謀略臭い」といい、武田、中野各参謀もこれに和し、私もそう思った。板垣、石原参謀が外の参謀達を度外視してやったことには何かの考慮があったのでは無いかと思われたが、無視された無念さは胸一杯であった。しかし、今や満蒙の自体は危殆に瀕している。私は「大局から見て今や協力する以外にないでしょう、第二の河本事件としたらもはや総退却です」と発言し、新井参謀も異口同音これに賛し、我らの決意は決まった。
p.26
補足
・小西貞治:板垣、石原の仙台幼年学校の後輩。同校の校歌「山紫に水清き」の作詞者。最終階級は大佐(東京通信兵学校校長)
・住友副官:詳細未詳
・無視された無念さ:いや、怒るポイントはそこなのかよ、って。
・河本事件:当時「満州某重大事件」今「張作霖爆殺事件」と言う事件 主犯は関東軍高級参謀だった河本大作大佐。満州国発足後、満州国関連の会社社長となる。
当時奉天に於ける当初の爆破は、後に日本側の極めて一分子、即ち板垣、石原両参謀画策の基に、直接的には今田新太郎大尉これを主催し、独立守備第二大隊の一部将校、駐剳第二師団在奉第二十九連隊の一部将校及び民間一部有志により決行されたことが判明したが、当時もちろん本庄司令官、三宅参謀長及び軍参謀大部の関知するところではなく、また第二師団長、独立守備隊司令官、独立守備第二大隊長、歩兵第29連隊長もまたいずれも何ら謀議に参画せず、平素準備した応変の作戦準備によって行動したのであった。p.28
私は早速奉天機関に飛び、花谷少佐を訪ね、室内に入るや開口一番、押っ取り刀で「貴下は先日私を偽ったな、私を騙したな」と血相替えて詰め寄った。花谷少佐は私の気迫に押されて、寝台の上に仰向きに仆れ、「いや、自分も疎外されて知らなかった」として謝意を表せられた。
p.30
だがしかし繰り返すが、昭和32年の花谷証言(『別冊知性』)では疎外されてるどころかメインで参加している花谷。
翌9月21日午後0時2分、朝鮮軍司令官からの来電で、朝鮮軍は混成第39旅団を独断出動せしめたとの通報を受け、関東軍は朝鮮軍に感佩し、向後の対策樹立を焦眉の急務とし、時局収拾の方途の研究に努力を傾注した。吉林方面では大迫中佐の政治的、軍事的工作は着々成功しつつあった。
元来、吉林省長は張作相で、張景恵、張作霖と共に緑林の三傑であったが、張学良とともに、当時北戴河方面に行って、その留守は凞洽参謀長が代行していた。凞洽は満州旗人であり、張学良とは必ずしもよくなかった。大迫中佐は凞洽を説得し、多門師団長また使者を派した。多門師団は軍の吉林派兵の決断に伴い吉林無血入城に成功した。
9月22日、板垣大佐は今田新太郎大尉を吉林に急派し、9月23日多門師団長、大迫中佐などと協議せしめ、凞洽をして新吉林政府を組織することを約束させた。
p.36
補注
・大迫中佐:詳細不明
・張作相:こういう人
・張景恵:後満州国首相
・凞洽:こういう人 満州人で日本への留学経験もあり、張学良の支配に反発していた可能性は確かに高い。
・多門師団長:多門二郎第二師団長 この2年後予備役に。
また板垣参謀は9月20日在奉天張景恵をその自宅におとない、彼の決心を即し、同月23日新井宗治とともに哈市へ帰還させた。そして9月25日には、今田新太郎大尉をチョウ南に派遣し、チョウ南満鉄公所長河野正直氏を通し、張海鵬と連絡、河野氏は張海鵬を説得して、帰順を進言し、これを承諾させた。石原参謀も9月24日大矢進計を干シ山の許に差遣し連絡に任じさせた。
p.42
補注
・河野正直:のち満鉄参事
・大矢進計:未詳
干シ山:シはくさかんむりに「止」
1932年1月9日、中央当局は参謀本部第一課長東条英機大佐及び清水規矩中佐、鈴木宗作中佐などを派遣し、諸般の連絡に任ぜしめたが、その際、中央部は、軍参謀長を長とする、軍と特務部設置を提案し、関東軍側は石原参謀と私とが協議に辺り、軍参謀長の兼務は不適当なること、文官を部長とするも中央と短絡の懸念無きことなどについて反論したが、2月にいたり、軍特務部設置に決定し、軍参謀長の兼任となった。当時、統治部長は財政顧問の駒井徳三氏が就任しており、建国と共に軍特務部に改変せられてその転出は明らかであった。
しかし、当時建国工作担当の和知参謀は自治指導部の笠木良明氏などの協力を得て、日系人事の検討もしており、駒井氏の総務長官起用については必ずしも賛意を表していない。
また、駒井氏も着奉以来の行動はその性格から不羈奔放のところが多く、組織的活動能力に欠けており、統治部の統括指導は必ずしも十分とは言いがたい物があった。しかしその着想は、時として卓抜であり、創意に富むこともあり、建国早々の満州においては一つの適材たる資格はあった。
叙上の状況裡に、軍司令官、三宅参謀長、板垣、石原の両参謀は、この際総務長官に駒井氏支持に一決して、推挙した。私もまた従来の成り行きから見て已むを得ざる人事と思った。しかし、そこにその後、建国後の人事紛糾の素因が伏在していたのであった。
p.141
補足
・東条英機:『石原莞爾 生涯とその時代』によると満州事変賛成派で、本省で色々やっていたらしい。
・清水規矩:こういう人
・鈴木宗作:こういう人
・駒井徳三:こういう人 後「参議府参議」として満州国経営から敬して遠ざけられ、日本に帰国。
・和知参謀:和知鷹二 こういう人
・笠木良明:大雄峰会の会長。…つまり、今田の所に居候していろいろやらかしている片岡、奥戸のボスという
満州事変突発に伴い、9月19日旅順発の北行列車内で、私は石原参謀と謀り、嚮後の参謀部内の分掌業務を決定し、その分担を定め、本庄軍司令官の承認を求めた。その内容は
総務課 板垣参謀、片倉大尉(主として重要政策、謀略、生涯、庶務)
第一課 石原参謀、武田参謀、中野参謀その他(作戦用兵、通信、交通、兵站)
第二課 板垣参謀、新井参謀、その他(情報、宣伝)
第三課 竹下中佐、佐藤主計正、住谷主計、岡部大尉、その他(占拠地行政指導、経済その他)
すなわち、第三課は、主として従前の参謀部調査班の班長竹下中佐以下を充用し、かねて研究の「満蒙占領地統治要綱案」に準拠し、行政指導に任ぜしめんとしたのである。
p.142
当時関東軍側としては、黒竜江省の一角に踏み入り、北満計略の歩を進め、又満蒙自由国設立案大綱も11月初旬策定せられ着々対満蒙政策の検討を行ってきたのである。石原参謀と私がかねて協議したところに従い、右研究の結果、過渡的機関として、軍司令部中心となり、これに統治部を属し、簡明勅裁しかも威力ある独裁的機関とすることとし、軍司令官の承認を求めた。そして在来の第三課を縮小することとした。12月14日頃、軍統治部設置に関し、新たに統治部長に就任せる駒井顧問に対する反感から、今田大尉外数名は、その指揮下に入るを欲せず、板垣参謀に意見を具申するところがあったが、参謀長は、板垣、石原、松井各課長ならびに私を集め協議し、結局予定通り第三課を廃止し、統治部一本とすることに一決し、今田大尉などを説得した。
第三課は事変以来、軍の占拠せる各地に於いて支那側の行政を監督指導し、一視同仁、満蒙在住諸民族の福祉の増進を期し、支那軍閥政治の弊風の芟除に努めた。(中略)産業の復興についても第三課の残した業績は偉大であった。(以下略)
p.144~145
この文から見ると、恐らく第三課の「その他」の中に今田がいて、色々やっていた物と思われ。
そのころ、大臣秘書官室の若松二郎大尉は、同郷の後輩であったが、9月のある日、私を訪ね、現下の時局に対処して、中央幕僚として、有事に即応して何らかの対策を準備するの必要があり、5.15事件直後の荒木陸相には、当時その対策の持ち合わせもなく、前後措置に不徹底だった感もあり、この際是非共、同友の士を糾合して研究を進められたく、付いては服部卓四郎、及び辻政信両氏を紹介するから会談願いたいとのことであった。
もちろん、私はその主旨に於いて異存なく、服部、辻、若松氏などと会談、1933年11月7日同志を糾合し三省舎に初会同して研究会を発足した。三省舎は当時鹿児島県出身将校、候補生などの集会所であった。
この会同に先立ち、1933年10月、私は「瞑想余録」として皇国革新大綱(第3縞)私案を草し、あらかじめ、これを先の人々に分配した。
A.田副(登)中佐、影佐中佐、今田少佐
B.真田大尉、河越大尉、坂間大尉、中山大尉、服部大尉、永井大尉、荒尾大尉、久門大尉、島村大尉、辻大尉、
(以下略)
p.183~184
補注
・そのころ:1933年
・若松二郎大尉:『戦陣随録』によると、1933年11月頃急死したらしい。
・荒木陸相:荒木貞夫
・服部卓四郎:有名なので書くこと無いが(^^;)後ノモンハン事件で大敗を喫するも責任を取らず、戦後は「服部機関」を率いて陸軍再興を謀るが、同じような「辰巳機関」にやぶれ、失意の晩年だったとも。
・辻政信:これまた有名なので書くこと無い(^^;)今田とは因縁の関係なのでこの後いろいろ書くと思う。それにしてもこの頃からノモンハンの極悪コンビ結成されてたのね。
・三省舎:服部→山形出身 辻→石川出身 片倉、若松→熊本出身 何故鹿児島関連の建て物を使ったか未詳
・田副(登):こういう人
・影佐:前にも出たかも知れないが、影佐貞昭 前自民党総裁谷垣貞一の祖父
・真田:真田穰一郎 こういう人
・河越:河越重定 最終階級は少将。後にこの会合から脱落した。
・坂間:坂間訓一 最終階級は少将。最終配属は第一方面軍参謀副長。その後ソ連に連行されて死ぬような目に会ったらしい。
・中山:中山源夫 最終階級少将、最終地位第12軍参謀長
・永井:永井八津次 こういう人
・荒尾:荒尾興功 こういう人
・久門:久門有文 昭和17年戦死
・島村:島村矩康 昭和20年戦死
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