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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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今回紹介する史料は、前回のこのエントリ関連。
あちこちの図書館を探して貰って、やっと探しあてた『稲田正純氏談話速記録』です。
というか、国立国会図書館にあったのだが何故か「copy禁止」_| ̄|○
同類の『片倉衷氏談話速記録』とか『岩畔豪雄氏談話速記録』はOKだったのに?(゜_。)?(。_゜)?

パッと見た感じ、口は確かにかなり悪いですが、話し上手な人かなという印象です。でも自分が当事者なのに当事者感が薄い(^^;)よく言えば第三者的、悪く言えば他人事という風情。
ではまいる


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問 そういう立場から見ておられて、やはり非常に真剣な者であると言うことはお考えになりましたか。
答 みんなそれぞれに真剣にやっておりましたよ。しかし、それで事変が片付きそうに思えるほど「これはいいな」と思ったことはありませんな。
問 トラウトマン工作があって、それから…
答 トラウトマン工作というのは全然知りません。あれは軍務局長以上くらいで秘密工作をやっておりました。
それで、私は悪いことをしたと思うのですが、トラウトマン工作がばれたのは、海軍が一番先に嗅ぎつけたのです。海軍の下僚が気が付いて参謀本部にどなり込んできたのですよ。河辺虎四郎の課に。それで、堀場という名前をご存じでしょうな、私が出た後は堀場が中心になってやっておったのですが、堀場の他には高島という気狂いみたいなのがおりましたが、堀場、高島、それから今田新太郎という支那ゴロがおりましたが、そこらがやっておったですね。
堀場が私に電話をかけてきまして、「ちょっとこい」というので行ったのですが、「あんた、我々に隠して内緒事をやっているな」、「なんだい」と言ったら、海軍がこういう事を言ってきた。参謀本部がやっている仕事に違いない。参謀本部がやっているのなら堀場お前がやっているのだろうと言ってくるが、あれは一つも知らない。上の人に聞いても課長も知らんと言う。「陸軍省がやっていることだろう」というから、「わしはなんにも知らん」と言ってやりましたが、私もちょっと腹が立ちましてね。「けしからん奴だ、支那事変終結のために、解決のためにこれほど心配しているのに、我々に黙って上の奴がやるなんてけしからん」と思って腹を立てまして、佐藤賢了や河村参郎に聞いてみたら、何も知らないのです。
それで、佐藤と河村と三人そろったときでしたか、町尻軍務局長の所へ怒鳴り込みましたよ。「あなた方は私らを出し抜いて下らないことをやっている」と言ったら、「知らん」というのです。「知らんと言うことがあるもんか、軍務局長が知らんと言うことはない」、「いや知らん」、「それなら大臣に聞いてきて下さい」、「よし、聞いてきてやる」と言って、何か相談して話を付けてきたのでしょうね。帰ってきて、いろいろ言って我々を宥めました。この事件は夏頃不拡大を言っておられたことは分かっているし、私らも不拡大で行かねばならぬ事は分かっているけれども、あの時は南京攻略華やかなる時分ですね、のぼせ上がっているときで、「こんな時にそんな事をやったところで、そんな条件でうまく収める自信があるか」と言ったら、自信もありやせんのですね。「もう一ぺん検討しましょうや、我々に検討さしてください」と言って、それで検討を始めたのです。私らは悪くするつもりで検討を始めたのではないが、下僚の耳に入ったら、あっちからもこっちからも注文が出始めてね。例の賠償金の問題、あれには梅津さんが熱心でしてね、賠償金を入れるとか、揚子江の利権がどうであるとか、海軍の奴が南支那の利権を持ち出しますしね。海軍は機会主義者の最たるものです。支那事変になんにも同意ではないのですよ。但し支那事変を海軍の支那における地盤確立のために利用することだけにおいて同意なんですね。他のことには反対しますけれども、事ひとたび海軍の利害問題に関したら陸軍どころではない強硬になるのですよ。米内某がね。米内を初め山本次官、あの次官が強かったのですよ。あの当時海軍はガリガリ亡者がそろっておりましたからね。そしていろいろな注文が出てくるのです。それでだんだん条件が難しくなって、トラウトマンを困らしたのですよ。償金などもわれわれのところで随分口を酸っぱくして「お止めなさい」と意見具申をしましたが、梅津さんはあの時には頑張りましたね。償金と言っても戦争の償金と言うよりは損害賠償ですよ。あすこには日本人が余計行っておりましたからね。そしたら、だんだん緩和されて、後になってきたら、翌年の暮れになったら、「あすこにある個人の損害も補償してやれ」ということになりましたね。こっちだけが損害をしているのではないので、支那人の方がもっと大きな損害をしておるのですから、お互いにパアにしたってよさそうなものですが、あまりそんなこといわんほうがいいと思いましたけれども、梅津さんはやはり陸軍事務官でしてやかましく言った物です。
p.184~186
<あてにならない補足>
・そういう立場:昭和13~14年頃、稲田正純は軍事課高級課員。稲田曰く「軍事課というのは金を握っておりますからね」(p.183)
・トラウトマン工作:説明すると長くなるのでこちら参照。実は戦争指導課はこのプロジェクトに思いっきり関わっている。
・河辺虎四郎:何回も既出だが、終戦時参謀次長、終戦後も「河辺機関」を作って暗躍するなど切れ者。この当時は参謀本部戦争指導課課長、今田の直属上司。
・堀場:堀場一雄 この人も何回も既出。陸軍士官学校34期、陸軍大学校42期。陸士であの服部卓四郎、西浦進と同期。
・高島という気狂い:こちら参照 しかし何度も言うが「気狂い」とはなんじゃいな…
・今田新太郎という支那ゴロ:言葉は悪いが、稲田から見た今田イメージがどういう物か知るには興味深いかと
・堀場が私に電話をかけてきまして~:トラウトマン工作に実際は戦争指導課が深く関わっている事実から見ると、この堀場の行動自体がフェイントだったとも思われる
・佐藤賢了:有名すぎて書くこと無いけど、後東条英機の腰巾着にして東京裁判で無期懲役となる(けど途中で釈放)
・河村参郎:こういう人 最後シンガポール華僑虐殺事件に関わったとして処刑されたようだが、この事件の実際の首謀者ってあの辻ーんだとか聞いたことが
・町尻軍務局長:町尻量基 石原莞爾の陸軍士官学校同期で数少ない親友の一人。お公家さん。奥さんは皇族。
・梅津さん:梅津美治郎 実は東条英機なんぞよりこちらのほうが石原莞爾最大の敵だと思われる
・米内某:米内光政
・山本次官:山本五十六
しかしこの稲田証言を見る限り、トラウトマン工作をつぶした元凶というのは
・梅津美治郎
・米内光政+山本五十六 と言うかつまり海軍
…ということになる。あれ、米内さんって確か非戦h(以下自粛)
近衛を引っ張り出したのでもそうでしょう。近衛というのは新し好みですからね。近衛が出たときは陸軍の若手はみんな喜んだですよ。「これならやってくれる」と言うことで。何も陸軍が天下を取る気はないですからね。参謀本部でそういうことを言っておった連中でもそういうことは考えていなかった。やってくれればいいのですよ。日本が産業5年計画をやってくれれば、日本が産業立国をして、とにかく我々が何年か先に起こるであろう新しい戦国時代に於ける日本の発言権を持てるだけの日本の底力を作る、それには対ソ関係を一辺忘れさせなければいけないから、満州を固める。もうひとつは内地を固めると言うことであったわけです。
p.121
<ちょっと補足>
・近衛:ご存じ近衛文麿
・産業5年計画:重要産業五ヶ年計画とも言う 日本が総力戦に耐えうる国力を付けるために重工業に注力し、満州での産業開発を進めるetcなどの一種の経済大改造計画であった その達成には5年を予定し、そしてこの5年間は絶対他国と戦争しないことが大前提と成っていた…が、日中戦争(日支事変)が勃発し、この計画も骨抜きと成ってしまう
この稲田の話に依れば、第1次近衛内閣に関わったのは石原莞爾で、それは産業5ヶ年計画の達成のために推進力になってくれそうなのが近衛だった…からのようだ。歴史の現実は…言うまい、近衛に騙されたのは上は西園寺公望から下は一般ピープルまでほぼ日本国民全員だったし(つд`)
それで、第二課に行きましたでしょう。高島という私より1年下の高島という男、私の次の期の優等生ですが、高島を掴えて、「おい石原が産業改革をやるのだから、我々は教育改革をやろうではないか」と言う事で、文部省に押しかけていって、「小学校の教科書を一年生から勉強するから、少し教えてくれ」と言って文部省へ押しかけていき嫌われたりしましたよ。
p.121
なんつー迷惑、なんつー業務妨害(^^;)そりゃ嫌われるわヾ(^^;)
しかしこんな風に巻き込んだ高島(高嶋辰彦)のことを、「気狂い」なんて言っちゃ駄目ですよ稲田さん
私はイギリスやアメリカと戦争するなんということは夢にも思わなかったですね。ロシアとは私は一雨降らさなければならないかなと思っておりました。これは仲良うするために、もう一辺雨を降らさなければ地が固まらないかなと思っておりました。それで張鼓峰やノモンハンをあえてやったわけですね。張鼓峰は私がやったのです。ノモンハンも目をつむってやらしたわけです。はじめはね。
p.122
をいまてそんなどうでもいい理由であれや(張鼓峰事件)やこれや(ノモンハン事件)のとんでもないことをやらかした訳か?こりゃ確かに司馬遼太郎先生が呆れるのも無理はない ちうか、司馬先生、稲田を丸ペンで心ゆくまでつつきまくっていいと思います。私も一緒につつきたいヾ(--;)
『太平洋戦争への道』を見ると、堀場の思想をえらい提灯持ちをして書いてあるけれども、あれは一方の旗頭でも何でもないので、あれは私の部下です。堀場の作った物はみんな私の息がかかった物ばかりです。ただ、堀場の本が今残っておるから文献でそういうことも出るのですが「文献、文献」ということになると堀場は馬鹿に偉い物になるのですが、堀場なんてのは大したものではないですよ
p.125
<一つ補足>
・『太平洋戦争への道』:昭和30年代という戦後10年という早い時期に日本国際政治学会によってまとめられた戦前/戦中に関する記録及び論文集。大きな図書館ではだいたい所蔵していると思う。
それにしてもえらい高飛車にでたな稲田。でも文献というかなんか文にして残さないと、後から「これはオレの物」と言っても後出しじゃんけんになるだけで。つーか、その文を書くのがどれだけ大変か分かってないだろ稲田。
…しかしこの稲田の態度に、どうもインタビュアーも切れたらしく(^^;)この後つっこみがヒートアップする
答(=稲田)(前略)それだけではなくて全般の体制を考えなければならないから、私はそのすぐあと支那を縦断して歩いてみるつもりだったのです。われわれの考えている大東亜の研究を始めようと思ったのです(中略)日本の陸軍なども、「満州、満州」と言って満州だけのことしか知らない。それで、一つ世界観を作り上げなければいけないというそういう夢を私は行くとすぐ描いたのですよ。そして、4,5人でホラを吹いておったわけです。それを堀場がロシアから帰ってきて、まるでロシアを一人で分かっているようなことを言ってホラを吹きよったのですが、それが彼らの計画の始まりです。
それで、「堀場の誇大妄想狂」と言う事で有名だったわけです。
問 それが今日残っているのは相当な物ですな。
答 いやいや、それはね、第二課にきてそして足が地に着いたのです。それですから、そういうことでぱーっと石原の夢で、その夢を私らがまた広げて、手を拡げて、「ひとつ、参謀本部は日本改革の中心になろう」と言う夢を描いておったときですよ 
p.127~128
稲田曰くあくまで「堀場の手柄はオレの手柄」らしい。
が、この後興味深い稲田の一言
こんなことを言うと、いかにも私がものを考えたようなことを言っているように聞こえますけれども、今になって考えたことがたくさんあるのですよ。言うことは怪しい物ですよ。だから、みなさんもお聞きになるときは気をつけて聞かなければいけませんよ。
p.131
えーつまりさっくりまとめると「オレの言うことは話半分に聞いとけ」でしょうかヾ(--;)
だから石原莞爾に私は頭を下げているのですよ。石原莞爾という男は癖がありまして片輪ですからね。あれは決して完全な将帥でもなければ、完全な人格でも何でもないのですからね。しかしとにかく傑出しておりましたね。
私らのは漠然と考えておったことをはっきり言ってくれていたような気がするのですよ。それで、それだけではいかんけれども、「なるほどそうだったな」と思います。そして、従いて歩けるという気になりましたね。従いて歩ける気になりましたけれども、支那事変が始まってからの石原莞爾の戦争指導や人の使いぶりを見ておって、「これは石原莞爾は天下を取れんな」と思ったですな。「しかし、石原莞爾を使いこなせる人間が使えばいいなあ」と思ったですな。ところが、ちょっと見ても石原莞爾を使いこなせる人間がいないのですね。「私なら使ってやれる」と思ったですね。いま頃になって偉そうなことを言いますけれども。
p.131~132
稲田の石原莞爾評…と思いきや、最後で「でもオレが一番偉い」かよヽ(`Д´)ノ
石原莞爾よ、天井から床まで「南無妙法蓮華経」の題目で埋め尽くされた部屋に稲田閉じ込めて1ヶ月間祈伏しても良いぞヾ(^^;)
この前も確か申し上げましたが、そのもつれで多田駿が腹を立てて、参謀次長を辞めると言い出しましてね。それで梅津美治郎というのは、士官学校が同期生なのです。梅津さんは歩兵で多田は砲兵なのです。性格は違いますけれどもね。「いま多田にやめられては適任者もないから、良い人は止めなければいけない」と言う事で、梅津さんは口を酸っぱくして止めたのです。ところがなかなか言うことをきかないのです。それで、総掛かりで止めまして、私も一役買わされて、多田さんの家へ止めに行ったことがあります。それで、多田さんの所に行って二人で飯を食いながら話していたら、「お前は口説きに来たのだろうけれども、思い切ったから心配せんでいい。やめるのはやめた」と言うのです。「どうして思い止まったのだ」と聞いたら、昔話をしだしまして伊藤博文が陛下によく「辞職、辞職」と申し上げるものだから、陛下が、「伊藤、朕には辞職はないのだ」と言われて博文が閉口した話をして、「それを思い出したのだよ」と言っておられました。「われわれ身勝手なことを言っては済まん。何としてもこの時局を納めねばならない。だから、わがままを言っては済まんと思って思い止まった」と言うのです。
それからもうひとつは、これは誰が言ったか忘れましたが、「近衛なんぞ相手に腹を立てることがあるか」と言って忠告した男があるそうです。「近衛がそんなに骨のある男ならば、近衞家は千何百年も続きはせんよ、とうになくなっているよ。公卿さん相手に腹を立てる奴があるか」と言われて、「それもそうだと思うたよ」と言って笑っておられました。
p.187
今田の話は全然出てこないのだが、興味深いのでピックアップしてみた。
梅津と多田は士官学校の同期だったのか…
あと、後半の近衛文麿に関する話は爆笑。同じ話は『反逆の獅子』に出てくる、と言うか、この話の出元はもしかしたら浅原健三か有馬頼寧辺りじゃないのかね?


なんか、稲田正純って花谷正とはまた別の意味でビッグマウスのような気がしてきました…
稲田は太平洋戦争末期、ニューギニアにて「ホーランジャの転進命令」を出し、大量の犠牲者を出した物の、自分は脱出に成功しています。その後残された転進兵を引き受けさせられた今田所属の第36師団はえらい苦難に遭うのですが…無責任というかスーダラ節というか…
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