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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前の話はこちら



今田関連で『敗者の教訓』(図書出版社)と言う本を読んでいたら
今田のネタは出てこずに、友人の桜井徳太郎のネタが出て来たでござる_| ̄|○
前回の森松氏の記事ではもうひとつ分かりにくかったビルマ(現ミャンマー)での暴れっぷりがわかりやすく書かれている。
第一線指揮官には強靱な体力が必要である。戦場での強行軍や不眠不休の作戦行動に耐え抜くだけの体力がなければ駄目である。
ビルマ作戦時、アキャブ方面で死闘を続けた第55師団歩兵団長・桜井徳太郎少将のごときは、正にその典型であった。同少将の戦場での指揮ぶりは「ものども進め!」ではなく、常に「ものども続け!」であり、その機宜に適した決断力と俊敏な行動力とは、同少将の強靱な体力から発する物であった。桜井少将が白襷姿で部隊の先頭に立ち、夜間敵の戦線を突破挺身し、敵の師団司令部に切り込んでいったときの颯爽たる武者ぶりは痛快の極みであった。
「第一線指揮官の条件」不破博(『敗者の戦訓』(図書出版社)p.200)
うひゃー さすがは猛獣
なお、同書の「挺進攻撃-ビルマの新戦法」ではこの件について更に詳しく言及されており、「敵の第一戦を突破してから目指す(敵)師団司令部の位置までは約20キロ、夜間未知の地形を20キロにわたって敵線内部を突進し、払暁時に敵司令部を求めて突入しようというのである」(p.83)と言う無謀な作戦だったらしく、筆者は「織田信長の桶狭間決戦に比しても優るとも劣らぬ勇猛果敢な物」(p.82)と例えているが、島津ヲタの私から見ると「関ヶ原の敵中突破」(=桶狭間より更に無謀)としか見えないヾ(^^;)
この作戦、イギリスの第7師団を敗走させるという功績を挙げた物の、補給の不十分な中、フル稼働の兵団は次第に疲労を増し、後は反撃を受けてほんとに死ぬような目に会ったらしいです…
ちなみに両文を書いた不破博は、桜井の直属の部下だったらしい。
しかし津野田もそうだが、今田の周りって先頭に立って暴走したがる奴ばっかりヾ(--;)

もう一冊。この時代の研究者では重鎮の秦郁彦氏による『昭和史の軍人たち 』(文藝春秋社)
あの辻ーんこと辻政信の章で何故か桜井登場。辻ーんがノモンハン事件の懲罰としてちょっとだけ支那派遣軍の閑職にいたときに、桜井もなんかの事件に連坐してしまい、同じ部署にいたらしい。…ところがこの後がすごい。
ノモンハン敗戦の責任を取らされた辻は、支那派遣軍司令部付に飛ばされた。司令部付というのは、正式の参謀と異なり、特定の業務を持たない閑職である。辻は、内地の政治謀略事件に連坐して、流されてきた桜井徳太郎大佐と共に、司令部別棟の一室をあてがわれたが、参謀達は、ここを「猛獣小屋」と呼んで敬遠した。
そうである⊂(。Д。⊂⌒`つ
…まあね、気持ちは分かる 辻ーんに桜井でしょ、なんか化学反応起こしてる部屋の中に入りたがる奴はまあいないよねヾ(--;)


おまけ
もしかしたら上の件と関係があるのかも知れないが
高嶋辰彦は陸士も陸大も首席で卒業した稀に見る秀才であった。トラウトマン工作の打ち切りを千秋の恨事とし悲憤の涙に咽んだ彼は、しかしその後『皇戦』などの本を出して聖戦の完遂を訴えたり、また極端な反英運動を展開したりした。伊藤佐又の英国領事館焼き討ち(未遂)は、彼と桜井徳太郎がが使嗾したという説もある
http://d.hatena.ne.jp/maroon_lance/20080118/1200671180
※下線は当方による補足
こんな所で何タッグくんでんの高嶋と桜井(^^;)
ちなみに伊藤佐又というのはあの陸軍中野学校の教官で、この事件にも中野学校の生徒を動員したが、いくら鬼畜米英風潮になっていたこの時代でも生徒までたぶらかしたこんな行動が当然許されるわけもなく、憲兵隊に検挙されてクビ(予備役)になったそうな。なおこの事件が起きたのは昭和15年(1940年)1月4日だそうで、もしかしたら高嶋の左遷もこの事件に関係あるのかもしれん。

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桜井徳太郎について調べている大学生です。
桜井徳太郎について詳しく知りたいのですが、桜井徳太郎について、詳しい方をご存知ですか?
佐藤 2014/01/10(Fri)16:25:39 編集
桜井徳太郎研究家
佐藤様初めまして

桜井徳太郎を調べられているとは中々渋いところに目を附けられましたね。戦中の在神戸英国領事館襲撃事件の疑惑、戦後はあの三上卓とタッグを組んでの「三無事件」とか、なかなかにお騒がせな方だったようにお見受けします。人は悪くなかったように思いますが(汗)

さて、お尋ねの桜井徳太郎の研究者はいるのかどうかと言うことについてですが、現在今田新太郎を調べている限りで見渡すと、桜井徳太郎個人についての研究というのは全く為されてないと思われます。この記事で紹介した不破博という方が桜井徳太郎については詳しい方のようにお見受けしますが、桜井の部下だったetcの事情を勘案するに既におなくなりに成られているかと推測されます。
また、佐藤様も既に感じておられるかと思いますが、旧日本帝国軍人個人に関しての研究というのは余り進んでいないように思います。石原莞爾とか山本五十六などの超有名人は別として。戦後70年近くが経ち、もうそろそろこういう有名人以外の軍人個人の人物研究が解禁されても良いのではないかとも感じますが、一方で関係者の多くが鬼籍に入られている今、研究に大きな壁が出来つつあるのも現状に思います。

なお以上の回答についてですが、当方も日本現代史に関しては全くのドシロウトであるという点をご勘案下されば幸いです。
お役に立てない回答で申し訳ありません、佐藤様の研究に進展があることを祈っております。
ばんない 2014/01/11(Sat)11:54:00 編集
櫻井の曾孫です。
はじめまして。櫻井の曾孫のはるきちと申します。この大学生は恐らく私の妹でしょう。書き逃げのような形になり、申し訳ありません。
曾祖父の名誉の為に三無事件などについての誤解があるようなので意見を述べさせていただきます。
まず、ご存知のとおり、曾祖父は法廷で無罪と判決を下されました。当然のことです。無実なのですから。曾祖父は国家転覆のような恐ろしいことを企てる人物ではありません。当事、ありもしない疑惑をでっち上げてきたのは週刊誌、毎日新聞です。(悪人面とまで書かれていました。こちらが名誉毀損で訴えたいです)祖父は説得側にいました。馬鹿なことはよせと。
疑り深い毎日新聞新聞の記者や刑事がしょっちゅう家を出入りしていたそうです。最初は疑り深かった刑事たちもすっかり曾祖父の人柄に魅了されて、九大の共闘でのバリケード突破方法まで曾祖父に相談しに来るようになったらしいです(笑)
ビルマの件でも反論があります。元来、櫻井は上層部の命令に背いてばかりの人物でした。ですから、いつも最前線の地に半ば左遷させられていたのです。ビルマの後方支援で派遣された櫻井は、四国の部隊を率いていたそうです。戦闘で怪我をした櫻井に帰還命令が出たので現地にいたいと反発。しかし、強制的に帰国させられました。怪我が治り次第、留まれという命令に背いて、現地に赴きました。残していた部下を一人残らず連れて帰るためです。そのため、戦後になってからも彼らやその家族からの感謝が絶えなかったと聞いてます。
ちなみに、インパール作戦は無理だと散々進言したのにもかかわらず、どんどん進めていったのは悪名高い当事中将の牟田口です。
戦後、曾祖父は僧侶となり、各地に慰霊碑を立てたり、部下の遺族を訪ねまわって遺品を渡すなどの活動に力を注ぎました。
部下を無駄死にさせることをとことん嫌った祖父です。上からは睨まれていましたが、部下からの信頼は厚かったのです。ですから、戦果を上げたにもかかわらず、戦時中は少将で終わりました。
東京裁判(リストに上がっていました)では、捕虜の証言からも、曾祖父は疑惑にあるようなことは一切していないと証言しています。なので、裁判にかけられることはありませんでした。
三無事件では、証拠もなく牢屋にいれられましたが、法廷で様々な方が曾祖父の無実を証言して庇って下さいました。
出版社や毎日新聞からの謝罪の言葉はなかったそうです。私はこのような無責任なことを平然と行うマスコミが大嫌いなのです。
曾祖父は怖いもの知らずで有名だったそうです。無謀な作戦で失敗しても責任を取らない大将がノコノコと軍事演習を見学に来たときなんかは、貴様よくも平気な顔してやってきたな!と怒鳴りつけたりとか周りはヒヤヒヤものだったそうです。(笑)
なにやら話しが長くなり、まとまりがなくなってしまいまして申し訳ありません。
曾祖父のことを記事にしてくださりありがとうございました。
他にも
はるきち 2015/06/27(Sat)12:35:24 編集
コメント誠にありがとうございます
はるきち様はじめまして
また、ご親族からの情報ありがとうございました。
桜井徳太郎氏については、拙コメントでも書いておりますようにまとまった論文や伝記などがなくわずかな情報から書いたため、ご親族の方から見ると大変偏った内容になっているかと思います。
また、ブログという媒体上かなり軽い描き方をしていますので、その点ご不興もあるかと思います。お詫び申し上げます。

拙ブログではこちらの記事の他に、以下の記事でも曾祖父様を取り上げています。またご親族から見た感想や批判などがありましたら宜しく御願い致します。
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/779/
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/784/
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/824/
既にお読みでしたら申し訳ございません。

あと蛇足になりますが
>戦果を上げたにもかかわらず、戦時中は少将で終わりました。
とのことですが、この点は誤解があるかと思います。
私が調べている限りでは、陸軍士官学校第30期生の生存者の最高位は少将です。曾祖父様は陸大を陸士30期生では一番早く卒業した一人なので、流石にそこまでは虐げられてないかと。東条英機に目の仇にされていた今田新太郎(曾祖父様と陸士、陸大で同期でした)でも一応少将にはなってますし。ちなみに陸士30期卒の最高位は中将に進まれた方が4名いらっしゃいますが、全員戦死による特進のようです。
http://admiral3166.ddo.jp/31page/a/px30.htm#l001
ばんない 2015/06/29(Mon)01:31:29 編集
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