拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
本の著者・秦郁彦は日本現代史研究家の重鎮、昭和32年(1957年)に花谷正にインタビューし、満州事変が自作自演だったことを暴いたことで著名。
この本は昭和57年(1982年)6月25日、文藝春秋社より発行。
今田に関係がありそうな所もなさそうなところも興味深いところをピックアップ。
ではまいる。
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この本は昭和57年(1982年)6月25日、文藝春秋社より発行。
今田に関係がありそうな所もなさそうなところも興味深いところをピックアップ。
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平泉史学と陸軍満州国に大学設立の計画が出来た際、辻政信が東大から平泉澄をこの大学の学長にしようと引き抜きにかかったが、今田が反対したため流れた。反対の理由は「今、平泉先生を国外に引き抜いたら、誰が軍の若手を教育するの?」と言う事だったらしい(『建国大学の研究』、『平泉澄(ミネルヴァ人物論選集)』など)
1929年(昭和4年)の大恐慌を頂点とする「資本主義体制の一般的危機」をどうして切り抜けるかは、この当時、各国が直面した切実な課題だった。日本の場合、加えて、中国ナショナリズムの反撃に曝されていた満州問題への危機感が重なり合う。
こうした内憂外患に対し、大正半ば頃から政治の主導力を握った既成政党は、腐敗しきって問題解決能力を失ったと見なされ、それに変わる清新な政治勢力として、マルクス主義に立脚する左翼集団と軍部の二者が台頭する。この競争は結局「昭和維新」「国家改造」を旗印にした軍部とそれを支援する右翼勢力の勝利に終わり、曲折を経ながらも、軍部主導のファシズム体制が確立される。
しかし「昭和維新」といい「国家改造」と称しても、その具体的内容は漠としてつかみがたい。「汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ…」に始まる三上卓作「昭和維新の歌」が象徴するように、ひたすら革新精神の高揚が強調されるだけで、結果は粗雑なクーデター計画の乱立とブレーキのきかない対外侵略の連鎖に終わった。
由来ファシズムは「思想の雑炊」(丸山眞男)とされるが、閉鎖的環境で成長した青年将校達には、自前の思想を作り出す力はなく、師父=指南役に当たる人々を外部に求めている。
おおざっぱに言って、陸士20期代=大川周明、三十期代=北一輝、四十期代=平泉澄、と言う世代別の対応関係が指摘される。桜会の指南役だった大川、2.26事件の黒幕だった北一輝については、既に多くの論評が出ているので割愛し、ここでは比較的注目されていない平泉澄と終戦反乱グループの連関を取り上げてみよう。
東京帝大国史学教授で「平泉史学」と呼ばれる皇国史観で令名の高かった平泉と陸軍の関係が生じたのは、満州事変の前後と推定される。
陸士幹事の東条が辞を低くして課外講師に平泉を招いたのが昭和9年、その縁で翌年には直系の内海英夫が専任教官に迎えられる。平泉は後に陸大や海大にもしばしば講師で呼ばれ、自宅で開いた私塾「青々塾」にも多数の青年将校が集まり、陸軍の国史/国体教育は「平泉史学」一色となった。
地味な実証主義史学の本山だった東大国史学科教室も時代の流れに抗しえず、まだ助教授から教授になりたての平泉が「事実上の主任教授同然に教室を切り回し」ていた。
(中略)
既に書いたように、平泉と陸軍の公的な接触は昭和9年頃に始まるが、それ以前から有志の会合へ講演などに来ていたようで、近衛旅団長小畑敏四郎少将が旅団将校のために呼んだ講演に竹下が列したのは昭和8年である(竹下正彦「平泉史学と陸軍」)。
「阿南惟幾-順逆の接点に立って」p.21~23
長く影佐の下で働いた岡田芳政元大佐(陸士36期)によると、支那課の本流は、青木宣純-坂西利八郎-本庄繁-磯谷廉介とつながるが、磯谷は「私の後継者は影佐だ」と語り、更にその次の世代では今井武夫に期待していたという(岡田談)この証言が正しいとすると、今井武夫より先に支那課に入っていた今田(今井と同期)は傍流と見なされていたと言うことなのか。
「影佐貞昭-汪政権の生みの親」p.260
なお、秦によると「影佐は早くから多田駿中佐(後中将)に傾倒し」(p.259)ていたという。
また、秦は影佐を「冷徹な謀略家」(p.267)と評しているが、森松俊夫は「影佐に対する非難や変な噂もたてられた。「影佐は、非常に策略に長けた、頭の良い人で、由断ならぬ人、謀略の固まりのような人」、こんな噂は陸軍と犬猿の関係にあった外務省辺りで流されていた。また「謀略課長」と言う職名も、良い印象を与えなかったようである」(『指揮官の条件』p.64)と評している。
高級人事は別として、戦術指揮官や幕僚レベルでは、実力本位・能力主義のルールが意外に厳しく適用されたようだ。一例として阿南陸軍省人事局長が南京陥落の直後に現地を回って収拾したメモ風の採点評が残っているので、一部を紹介してみよう。秦曰く、「後は公正無私と定評のあった阿南の採点通り、ほぼその後の運命が決まっている」とのことで、ここで評価の悪かった鈴木重康、酒井縞次、井出宣時はクビになったそうだ。アレ?酒井縞次は東条と喧嘩してクビになったとかどこかで見たようなヾ(^^;)
a 板垣征四郎(第五師団長) あせりすぐ、南口まずい、山地迂回せず、頭働かず、せっ口鎮も策なし
b 鈴木率道(第二軍参謀長) 冷静に過ぐ
c 磯谷廉介(第一〇師団長) 良い
d 鈴木重康(独混十一旅団長) 拙い
c 酒井縞次(混成一旅団長) 戦果不良
f 田上八郎(歩二四連隊長) 最良
g 井出宣時(歩八旅団長) 功を急ぐ、芳しからず
h 西原一策(中支方面軍参謀) ポンポンやるので嫌がられる
i 藤原武少佐(第六師団参謀) 大いに働けり、積極、殊勲甲
j 野田謙吾(歩三三連隊長) 可、死傷多し
k 脇坂次郎(歩三六連隊長) 南京一番取り、優秀
l 上村利道大佐(上海派遣軍参謀副長) 立派、部内の人気可
それにしても、田上さんの戦果は、奥さんの自殺と引き替えに得たような物です…(´;ω;`)
他にも読みどころが多いが、今田関連で言うとやはり片倉衷(p.64-76)、辻政信、石原莞爾(p.232~243)が注目かと。「満州領有の思想的源流」(『再考・満州事変』所収)を読んだときにも思ったけど、秦郁彦を「自虐史観」という人もいるが、そうじゃなくて秦は単に石原莞爾が生理的に嫌いなだけな様な気がする(^^;)
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