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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
このネタは、何れ機会があればちゃんとした論文にしたいと思っていたネタだったのですが、事情により永久に無理そうなので、それなら公開の場に出してしまおうかと。
実は○○年前に簡単にまとめて某教授に見せたこともあったのですが、その後こちらの事情で論評してもらう機会もなく、その教授も数年前になくなってしまわれたので…。

ではタイトルを見てご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。






表題の人物、拙ブログを見ている人はご存じの方が少ないかと思いますが、実は数回ちらっとご登場いただいたことがあります。→  など
奈良時代初期の有力貴族・藤原房前とこれまた有力な女官であった牟漏女王の間に産まれながら、何と10年以上も出世を据え置かれた上、一時期は弟・藤原八束(後改名して「真楯」)にも位を抜かされていたという、実はかわいそうな人です。
なお奈良時代初期~中期において、弟に位を抜かされた事例はこの永手以外にはありません。
拙ブログでも書きましたが、実は当時の正史『続日本紀』を始めとして後代に書かれた史料にもこの辺に言及した物は絶無。晩年には左大臣というその当時では最高の地位にたどり着いた人だけに不思議です。邪馬台国ほどじゃないにしてもヾ(--;)日本古代史上の大きな謎の一つです。

しかし、かなり地味なキャラ(…)のためかヾ(--;)研究では中々注目されることがなかったのです

この10年ぐらいで、論究されることが増えてきました。
日本古代史で大型のネタが尽きてきたことも背景にあるかも知れませんね(ヲイ)
私の目に着いたところでは、以下の説が上がっているようです。
(1)後世、弟・八束(真楯)の子孫によって若い時のデータを削除or横取りされてしまった
(2)藤原仲麻呂と仲が悪かったために干された
(3)橘諸兄と仲が悪かったため干された
(1)説なのが吉川敏子氏と木本好信氏。吉川氏の説については拙ブログでも一度取り上げたことがあります。
(2)説を唱えているのがまたまた吉川敏子氏。と言うか、(1)説と(2)説はセットになっています。詳しくは前掲の拙ブログの過去レスを見て下さるとよく分かるかと。
(3)説を唱えているのが倉本一宏氏。著書の『藤原氏の研究』を見る限り特に根拠は書いてなかったんですが_(。_゜)/、『続日本紀』を読んだ限りの状況判断からそう考えるしかないかなー、と言う消去法でこの説になったのではないかと思います。最近は木本好信氏も(1)説+この説を採ってられるようだ(「藤原永手について」「藤原永手について2」pdf)。

前回の拙ブログの検討では(1)について余り突っ込んでなかったので、ここで簡単に再考してみます。
藤原永手について一番詳しい史料は『続日本紀』ですが、数々の政変のために成立に紆余曲折があったことはwikipediaでも紹介されています。
天平宝字2年~天平宝字8年頃 藤原仲麻呂(恵美押勝)主導で編集されるが、仲麻呂が反乱を起こしたため中断
宝亀元年~天応元年頃 光仁天皇の命令で編纂が再開されるが、すったもんたの末中断
天応元年頃~延暦13年 桓武天皇の命で天平宝字元年までが大幅に省略された上、光仁                 天皇の時代までを完成
延暦13年頃~延暦17年 完成部分が再編された上、天応元年~延暦10年までを追加
この過程で、吉川氏の言うように藤原八束(真楯)の子・内麻呂が編集に横やり入れる隙があったかヾ(^^;)という点ですが、延暦17年までの内麻呂の官職変遷を見てみましょう。
天応元年(781年) 10月23日:従五位下
天応2年(782年) 閏正月17日:甲斐守
延暦3年(784年) 4月30日:左衛門佐
延暦4年(785年) 8月7日:従五位上。8月14日:中衛少将。10月12日:兼越前介
延暦5年(786年) 正月7日:正五位下。正月24日:越前守
延暦6年(787年) 5月19日:従四位下
延暦8年(789年) 3月16日:右衛士督
延暦9年(790年) 3月26日:内蔵頭
延暦11年(792年) 6月:刑部卿
延暦13年(794年) 10月27日:参議
延暦14年(795年) 3月:陰陽頭
延暦15年(796年) 正月19日:従四位上兼但馬守。6月:兼造東大寺長官。7月28日:正四位下
延暦16年(797年) 3月11日:兼近衛大将。9月4日:兼勘解由長官
延暦17年(798年) 5月24日:正四位上。8月16日:従三位・中納言
延暦13年には議政官に加えられ、延暦17年には従三位の高位になるので、一見史書編纂に口出しできそうなアヤシイ雰囲気ヾ(^^;)が出ています。
一方、この頃の『続日本紀』の編纂部員を見てみると
藤原継縄
菅野真道
秋篠安人
中科巨都雄
があげられます。
藤原継縄は藤原氏は藤原氏でも南家の出身で、北家出身の内麻呂が横やりしても耳は貸さなかったでしょうね(^^;)(そもそも『続日本紀』編纂委員は名義だけだった説もあるらしい)
秋篠安人、中科巨都雄とは役職上で全く接点がない。
残るは菅野真道となりますが、桓武天皇の命により藤原内麻呂とともに格式の編纂を進めていたという説があります。ただ、『続日本紀』を編纂完了する延暦17年まで役職では全く接点がなく、またそれぞれの役職を見ても法律編纂に関われる役職に就いてないので、格式の編纂という仕事関係でつながりがあったとは思えません。

もう一つ気になることがあります。
藤原内麻呂の母方祖父は阿倍帯麻呂(帯麿)という人物なのですが(『尊卑分脈』)、この人に関するとんでもない話が『続日本紀』に載っています。天平7年9月28日条に書かれているのですが、過去に美作守在任中、何者かと共謀して4人(被害者の名前は未詳)をぶっ殺す(○。○)ということをしでかしたのです。…つまり、内麻呂の祖父は殺人犯だったという内麻呂にとってとても嫌な話なのですが、削除されずしっかり『続日本紀』に記載されています。
吉川氏の想定のように内麻呂が『続日本紀』に手入れしていたとしたらなによりも削除されるべき話なのに、しっかり残っているのです。

以上から考えるに、結局、藤原内麻呂が『続日本紀』の内容にケチを付ける隙はなかったんではないでしょうか。

『続日本紀』の藤原永手と八束(真楯)の記事に真楯よりの改編が入ってないとしても、謎は残ります。
前回記事で書いたように永手は天平9年に従五位上に2階級特進後、次の昇進が天平21年(しかもこれも従五位上から従四位下という3階級特進)と12年も放置されたことは、官位に誤記もないので後世の改編などなく動きがたい事実でしょう。
天平9年の昇進は永手・真楯の父である藤原房前を含むいわゆる藤原4兄弟(藤原4子)が一気に急死したため、劣勢となった藤原氏の勢力をテコ入れするために藤原氏出身の光明皇后が画策したのは確実と考えられますが、その後なんで12年間も放置されていたのでしょうか?天平9年から天平21年は橘諸兄が実権を握っていた時代です。(3)説のように橘諸兄に目を付けられる事情でもあったのでしょうか?

藤原永手の母は牟漏女王と言います。拙ブログでも一度取り上げたことがありますが、この人は橘諸兄の同母妹でした。また、永手は当然光明皇后の甥でもあるわけでして、いくら橘諸兄が目を付けたからと言って、これらの有力なバックを持つ永手の官位を12年もの長期に亘って据え置くことは可能なのでしょうか?




長くなりそうなんで続く_(。_゜)/

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