拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天平9年(737年)牟漏女王はまだ40代の若さで4人の子を抱えて未亡人になってしまいます。
しかし、牟漏女王こんな事で負けてはいなかった。女は弱し。されど母は強し(なんのこっちゃ?)。
この天平9年の暮れ、亡き夫・藤原房前に「左大臣」の位が贈られます。これは非常に大事なことでして、単に房前の名誉が回復できたばかりでなく、左大臣に与えられる職封が遺族年金(^^;)としてもらえるわけです。
これは実は大変な額でして、四国4カ国を全部もらったのと同じ計算になるという話をどこかの論文で見たことがあります。ともかく、牟漏女王はじめ、房前の遺児はこれで喰うには困らない?状態になるのです。
こんなとんでもない特権を与えたのが誰か?ということですが、私は牟漏女王の異父妹+藤原房前の異母妹である光明皇后を考えています。実家を支えるのに、もはやなりふりは構ってられない。
(実は、死の直前に房前の兄・藤原武智麻呂も左大臣に上がっております。それに、藤原不比等に与えられた5000戸の食封ももらったままでしたから藤原氏は、この当時の日本の4分の1を握っていたのと同じ計算になるらしい。)
そして、天平11年(739年)牟漏女王は従三位の位を授かります。
”遺族年金”に加えて、従三位の位封ももらうわけですから、藤原房前の遺族は大変な大金持ちになったわけです。
ちなみに、『続日本紀』に牟漏女王の名前が見えるのは、実はここが初めてなのです。
ここで疑問が生じます。出世させる夫もなく、喰うに困らない牟漏女王が何故宮廷に出仕しているのか?ということです。
私はこう考えているのです。同母兄・橘諸兄(元の葛城王)に対抗するためではないかと…。
藤原房前が亡くなる前年、こんな事を申した者がありました。
「和銅元年、私どもの母は氏を元明天皇よりもらいました。そのありがたい名前は、母が亡くなった今絶えようとしております。もし許されるならば子供の私どもがその氏を嗣ごうと思います。」
このお願いは許されました。
あれ?この話を前に書いたことがありますね。
そう、この話は橘三千代が「橘」の氏をもらったときの話で、氏を嗣いだのが葛城王・佐為王の2人の息子であります。
この事は「葛城王・佐為王が皇族の位にしがみついているよりは、従一位・橘三千代の苗字を名乗った方が出世に有利と判断したからであろう」と、考えられております。
ところが、おもしろいことに同母妹の牟漏女王はこの動きに同調しておりません。おそらく牟漏女王、こんな事を思いながら兄たちを見ていたのではないでしょうか。
(皇族の名前をあっさり捨てるなんで、なんて恥知らずな兄たち。父上<=美務王>のことを何と考えておられるのか)
特に、天平9年の天然痘の大流行から逃れた葛城王は、棚ぼた式に「右大臣」まで登り、名前も「諸々の者の兄」という意味の「諸兄」と改名します。おそらく、藤原氏の妻となった同母妹の牟漏女王や、藤原氏びいきの異父妹の光明皇后に対する当てつけでしょう。
さて、天平10年当時の聖武天皇の妻妾関係は以下の様になっておりました。
県犬養広刀自(県犬養唐の娘)
│┌井上内親王
├┼不破内親王
│└安積親王 橘古奈可智(こなかち・橘佐為の娘)
│ │
聖 武 天 皇
│ │ │
│ │ 北殿(正式名不明・藤原房前と牟漏女王の娘)
│ │
│┌阿倍内親王 南殿(正式名不明・藤原武智麻呂の娘)
├┤(後の孝謙天皇)
│└基親王(皇太子:神亀5年死去)
│
藤原光明子(光明皇后・藤原不比等の娘)
上側に県犬養氏+橘氏、下側に藤原氏を書いたから一目瞭然ですが
藤原氏側には神亀5年以後は皇子がおらずピンチ!なのがお分かり頂けるでしょうか。光明皇后はこの時38歳ですから、子供が期待できない年齢に成りつつありました。ということで、恋敵(^^;)ではありますが、一族の南殿・北殿の奮起を期待したと思います。
その北殿の母親が牟漏女王なのです。もし北殿に皇子出生の暁には、皇太子への有力候補となります。しかも、異父妹で皇后の光明皇后の応援付きです。
…ということで、この異父姉妹は兄・橘諸兄に対抗すべくスクラムを組んだと考えられるのです。
一方、牟漏女王はもう一つの布石を打っております。三男の藤原八束を、この年皇太子となった阿倍内親王に仕えさせております。実は、この八束の子が、平安初期の高級官僚・藤原内麻呂なのです。内麻呂という人物は自分の息子と次々と皇太子に仕えさせることで一族の発展を狙ったのですが、そのはしりは実は牟漏女王だったのです。
牟漏女王はその後天平18年(746年)まで生き、正三位で亡くなりました。この時、彼女の気がかりは、娘の北殿に懐妊の兆しすらないこと、そして八束の兄・永手が何故か従五位下から10年以上も放って置かれたことだと思われます。これは実は大きな謎でして、宮廷に大きな力を持つ牟漏女王でもどうにも出来なかったことより推測すると、おそらく藤原永手は何らかの事件に巻き込まれた物、と私は考えております。
そして、牟漏女王は晩年には仏にすがる道を見いだしたようです。
元々、夫・藤原房前を追善する写経は頻繁に行っていたようですが、仏堂は建てておりませんでした。
この時、藤原氏の氏寺・興福寺の工事が中断しており、講堂がまだ無いという状態でした。彼女は藤原北家の財力を尽くして講堂を造ることを決意します。
が、仏像が出来た時点で牟漏女王は亡くなりました。あとに残った北殿をはじめとする遺児が残りの工事を完成させた…『興福寺縁起』はそう伝えております。
この時の講堂はもう残っておらず、南円堂にある不空絹索観音の蓮弁一枚が牟漏女王の発願仏の物ではないか?と推測されるばかりです。
しかし、牟漏女王こんな事で負けてはいなかった。女は弱し。されど母は強し(なんのこっちゃ?)。
この天平9年の暮れ、亡き夫・藤原房前に「左大臣」の位が贈られます。これは非常に大事なことでして、単に房前の名誉が回復できたばかりでなく、左大臣に与えられる職封が遺族年金(^^;)としてもらえるわけです。
これは実は大変な額でして、四国4カ国を全部もらったのと同じ計算になるという話をどこかの論文で見たことがあります。ともかく、牟漏女王はじめ、房前の遺児はこれで喰うには困らない?状態になるのです。
こんなとんでもない特権を与えたのが誰か?ということですが、私は牟漏女王の異父妹+藤原房前の異母妹である光明皇后を考えています。実家を支えるのに、もはやなりふりは構ってられない。
(実は、死の直前に房前の兄・藤原武智麻呂も左大臣に上がっております。それに、藤原不比等に与えられた5000戸の食封ももらったままでしたから藤原氏は、この当時の日本の4分の1を握っていたのと同じ計算になるらしい。)
そして、天平11年(739年)牟漏女王は従三位の位を授かります。
”遺族年金”に加えて、従三位の位封ももらうわけですから、藤原房前の遺族は大変な大金持ちになったわけです。
ちなみに、『続日本紀』に牟漏女王の名前が見えるのは、実はここが初めてなのです。
ここで疑問が生じます。出世させる夫もなく、喰うに困らない牟漏女王が何故宮廷に出仕しているのか?ということです。
私はこう考えているのです。同母兄・橘諸兄(元の葛城王)に対抗するためではないかと…。
藤原房前が亡くなる前年、こんな事を申した者がありました。
「和銅元年、私どもの母は氏を元明天皇よりもらいました。そのありがたい名前は、母が亡くなった今絶えようとしております。もし許されるならば子供の私どもがその氏を嗣ごうと思います。」
このお願いは許されました。
あれ?この話を前に書いたことがありますね。
そう、この話は橘三千代が「橘」の氏をもらったときの話で、氏を嗣いだのが葛城王・佐為王の2人の息子であります。
この事は「葛城王・佐為王が皇族の位にしがみついているよりは、従一位・橘三千代の苗字を名乗った方が出世に有利と判断したからであろう」と、考えられております。
ところが、おもしろいことに同母妹の牟漏女王はこの動きに同調しておりません。おそらく牟漏女王、こんな事を思いながら兄たちを見ていたのではないでしょうか。
(皇族の名前をあっさり捨てるなんで、なんて恥知らずな兄たち。父上<=美務王>のことを何と考えておられるのか)
特に、天平9年の天然痘の大流行から逃れた葛城王は、棚ぼた式に「右大臣」まで登り、名前も「諸々の者の兄」という意味の「諸兄」と改名します。おそらく、藤原氏の妻となった同母妹の牟漏女王や、藤原氏びいきの異父妹の光明皇后に対する当てつけでしょう。
さて、天平10年当時の聖武天皇の妻妾関係は以下の様になっておりました。
県犬養広刀自(県犬養唐の娘)
│┌井上内親王
├┼不破内親王
│└安積親王 橘古奈可智(こなかち・橘佐為の娘)
│ │
聖 武 天 皇
│ │ │
│ │ 北殿(正式名不明・藤原房前と牟漏女王の娘)
│ │
│┌阿倍内親王 南殿(正式名不明・藤原武智麻呂の娘)
├┤(後の孝謙天皇)
│└基親王(皇太子:神亀5年死去)
│
藤原光明子(光明皇后・藤原不比等の娘)
上側に県犬養氏+橘氏、下側に藤原氏を書いたから一目瞭然ですが
藤原氏側には神亀5年以後は皇子がおらずピンチ!なのがお分かり頂けるでしょうか。光明皇后はこの時38歳ですから、子供が期待できない年齢に成りつつありました。ということで、恋敵(^^;)ではありますが、一族の南殿・北殿の奮起を期待したと思います。
その北殿の母親が牟漏女王なのです。もし北殿に皇子出生の暁には、皇太子への有力候補となります。しかも、異父妹で皇后の光明皇后の応援付きです。
…ということで、この異父姉妹は兄・橘諸兄に対抗すべくスクラムを組んだと考えられるのです。
一方、牟漏女王はもう一つの布石を打っております。三男の藤原八束を、この年皇太子となった阿倍内親王に仕えさせております。実は、この八束の子が、平安初期の高級官僚・藤原内麻呂なのです。内麻呂という人物は自分の息子と次々と皇太子に仕えさせることで一族の発展を狙ったのですが、そのはしりは実は牟漏女王だったのです。
牟漏女王はその後天平18年(746年)まで生き、正三位で亡くなりました。この時、彼女の気がかりは、娘の北殿に懐妊の兆しすらないこと、そして八束の兄・永手が何故か従五位下から10年以上も放って置かれたことだと思われます。これは実は大きな謎でして、宮廷に大きな力を持つ牟漏女王でもどうにも出来なかったことより推測すると、おそらく藤原永手は何らかの事件に巻き込まれた物、と私は考えております。
そして、牟漏女王は晩年には仏にすがる道を見いだしたようです。
元々、夫・藤原房前を追善する写経は頻繁に行っていたようですが、仏堂は建てておりませんでした。
この時、藤原氏の氏寺・興福寺の工事が中断しており、講堂がまだ無いという状態でした。彼女は藤原北家の財力を尽くして講堂を造ることを決意します。
が、仏像が出来た時点で牟漏女王は亡くなりました。あとに残った北殿をはじめとする遺児が残りの工事を完成させた…『興福寺縁起』はそう伝えております。
この時の講堂はもう残っておらず、南円堂にある不空絹索観音の蓮弁一枚が牟漏女王の発願仏の物ではないか?と推測されるばかりです。
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