拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
聖武太上天皇が亡くなって翌年の天平勝宝9年(757年)、「大変な」スキャンダルが発覚します。
皇太子・道祖王が後宮の女官とエッチ(^^;)していたことがばれてしまいます。よくよく考えれば、大したスキャンダルではないのですが、孝謙天皇は
「父上(聖武太上天皇)の喪中に、父上にお仕えした女官に手を付けるとは!」
と大激怒し、道祖王を皇太子から解任してしまいます。
で、次の皇太子を朝政で決めることになります。
藤原豊成(藤原武智麻呂の長男・右大臣)、藤原永手(藤原房前の次男・母は牟漏女王)らの藤原氏が推薦したのは
新田部親王長男・塩焼王
です。前回申し上げましたが、天武天皇と藤原氏の血を引く皇子は彼と道祖王だけですから、妥当な線ですね。
一方、藤原氏に対抗する貴族達は
舎人親王三男・船王
を推薦します。彼の背景は舎人親王の息子という他は不明です。
ところが!ここで何の意見も言わなかった者が一名おりました。紫微令・藤原仲麻呂であります。
「”子を知るのは親しかなく、親を知るのは子しかない”と儒教では申します。私は陛下の意志にすべてお任せします。」
何のこっちゃ分からないナゾナゾみたいな言葉であります。が、それに対する孝謙天皇の回答を聞いた一同は、仲麻呂の謀略に目を丸くします。
孝謙天皇は塩焼王と船王に難癖を付け、舎人親王七男の大炊王(おおいおう)を皇太子とするのです。しかし、大炊王は藤原仲麻呂の亡き長男の嫁のヒモヾ(--;)となり、そのまま仲麻呂の家に居候しているという、能なし(ヲイ)でありました。
これを聞いて、ここにいた一同より怒りまくったのが橘奈良麻呂であります。
しかも、この年に父・橘諸兄も亡くなっていますから、父の敵をとらねば!と燃えています。
彼は藤原氏に敵対感情を持っている多治比氏、大伴氏、佐伯氏に声をかけます。しかし、意外にも橘奈良麻呂に乗ってくる者は少なかったようです。というのは奈良麻呂の計画というのは、光明皇太后や孝謙天皇を廃するという「反乱」であったからです。
危機感を感じた奈良麻呂は、廃太子の道祖王や、皇太子争いに負けた塩焼王まで巻き込みます。
しかし、この反乱は意外なところから発覚します。何と、橘諸兄に仕えていた佐味宮守(さみのみやもり)という男が密告をしたからです。
光明皇太后の驚きはいかばかりだったでしょう。確かに、橘諸兄と自分は異父兄弟とはいえ、仲は悪かった。しかし、橘奈良麻呂は同母妹・藤原吉日の生んだ甥でもあります。彼女は甥の助命運動に乗り出すのです。
事件が発覚した翌日、光明皇太后は、この反乱に加わっていた者を引見しております。皇太后御自ら引見するというのは非常に異例のことで、『続日本紀』には、ここにしか例がありません。彼女は、彼らを諭します。
「そなた達は、私と同族(後注※)ではないか。どうしてこんな事を起こそうとしたのか。しかし、今回は実行に至っていないから許してやろう。二度とこんな事を考えてはならぬぞ。」
※光明皇后の母・県犬養橘三千代の出身である県犬養氏と大伴氏、佐伯氏らそもそもは朝廷の軍務を扱っていた一族であったため、光明皇后は彼らを「同族」と言ったのではないかと考えられている。
しかし、藤原仲麻呂はこれをいい機会に、自分の敵対者を全部殺してしまおうと思っておりました。光明皇太后が引見した翌日、仲麻呂は再び橘奈良麻呂らを捕らえて糾問し、最後は拷問して殺してしまいます。
しかも、藤原豊成の息子が橘奈良麻呂の友人だったことに目を付け、無実の罪で豊成を左遷します。
その翌年、藤原仲麻呂は「藤原恵美押勝」と改名、太保(=右大臣)となります。
おそらく、光明皇太后はこの時仲麻呂をひいきしてきた事を強く後悔したのではないか?私はそう感じます。
光明皇后は、「藤原一族の母」という自覚を持って生きてきました。男の子がいなかったですから、甥達にかける期待は大きな物があったでしょう。
天平末年・甥の藤原清河(藤原房前四男)が遣唐大使になったとき、彼女は清河を「我が子」といい、その渡海の無事を祈る歌を残しております。
しかし、仲麻呂が考えていたのは、自分と自分の子供の栄達だけでした。
兄・藤原豊成でも、上に出世したい自分のじゃまになると思うや、左遷してしまったのです。
同じ年に、退位した孝謙天皇に「上台宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「中台天平応真仁正皇太后」の称号が送られますが、光明皇太后はもはや「勝手にせい!」としか思わなかったのではないでしょうか?
その後、彼女は政治の表舞台には出ることなく、夫・聖武天皇と父・藤原不比等の供養に人生を費やし、東大寺に次々と寄進をしております。
特に薬品の寄進を重視したようで「願いがあれば誰にでも貸し出すように」と命令しております。
天平宝字四年(760年)、光明皇太后没。夫・聖武に遅れること4年。
年は60歳でした。
…藤原仲麻呂が、孝謙太上天皇と対立し、藤原真楯(=八束・藤原房前と牟漏女王の息子)や吉備真備の率いる軍隊に負け、近江国で藤原広嗣の弟・蔵下麻呂(くらじまろ)に討ち取られたのはそのわずか4年後のことでした。
光明皇后のお墓は平城京を望む高台にあります。ここは戦国時代に、悪名高い松永久秀が「多聞山城」を築いたところでもありました。
江戸時代末期の国学者・北浦定政がここを訪れ、このように書き残して嘆いております。
「ここをあの仁正皇太后(=光明皇后)の墓と人は教えてくれるが、城が築かれたため跡形すら見つけられない。」(『筆のすさび』)
次回からは、光明皇后の同母妹・藤原吉日(多比能)です。
皇太子・道祖王が後宮の女官とエッチ(^^;)していたことがばれてしまいます。よくよく考えれば、大したスキャンダルではないのですが、孝謙天皇は
「父上(聖武太上天皇)の喪中に、父上にお仕えした女官に手を付けるとは!」
と大激怒し、道祖王を皇太子から解任してしまいます。
で、次の皇太子を朝政で決めることになります。
藤原豊成(藤原武智麻呂の長男・右大臣)、藤原永手(藤原房前の次男・母は牟漏女王)らの藤原氏が推薦したのは
新田部親王長男・塩焼王
です。前回申し上げましたが、天武天皇と藤原氏の血を引く皇子は彼と道祖王だけですから、妥当な線ですね。
一方、藤原氏に対抗する貴族達は
舎人親王三男・船王
を推薦します。彼の背景は舎人親王の息子という他は不明です。
ところが!ここで何の意見も言わなかった者が一名おりました。紫微令・藤原仲麻呂であります。
「”子を知るのは親しかなく、親を知るのは子しかない”と儒教では申します。私は陛下の意志にすべてお任せします。」
何のこっちゃ分からないナゾナゾみたいな言葉であります。が、それに対する孝謙天皇の回答を聞いた一同は、仲麻呂の謀略に目を丸くします。
孝謙天皇は塩焼王と船王に難癖を付け、舎人親王七男の大炊王(おおいおう)を皇太子とするのです。しかし、大炊王は藤原仲麻呂の亡き長男の嫁のヒモヾ(--;)となり、そのまま仲麻呂の家に居候しているという、能なし(ヲイ)でありました。
これを聞いて、ここにいた一同より怒りまくったのが橘奈良麻呂であります。
しかも、この年に父・橘諸兄も亡くなっていますから、父の敵をとらねば!と燃えています。
彼は藤原氏に敵対感情を持っている多治比氏、大伴氏、佐伯氏に声をかけます。しかし、意外にも橘奈良麻呂に乗ってくる者は少なかったようです。というのは奈良麻呂の計画というのは、光明皇太后や孝謙天皇を廃するという「反乱」であったからです。
危機感を感じた奈良麻呂は、廃太子の道祖王や、皇太子争いに負けた塩焼王まで巻き込みます。
しかし、この反乱は意外なところから発覚します。何と、橘諸兄に仕えていた佐味宮守(さみのみやもり)という男が密告をしたからです。
光明皇太后の驚きはいかばかりだったでしょう。確かに、橘諸兄と自分は異父兄弟とはいえ、仲は悪かった。しかし、橘奈良麻呂は同母妹・藤原吉日の生んだ甥でもあります。彼女は甥の助命運動に乗り出すのです。
事件が発覚した翌日、光明皇太后は、この反乱に加わっていた者を引見しております。皇太后御自ら引見するというのは非常に異例のことで、『続日本紀』には、ここにしか例がありません。彼女は、彼らを諭します。
「そなた達は、私と同族(後注※)ではないか。どうしてこんな事を起こそうとしたのか。しかし、今回は実行に至っていないから許してやろう。二度とこんな事を考えてはならぬぞ。」
※光明皇后の母・県犬養橘三千代の出身である県犬養氏と大伴氏、佐伯氏らそもそもは朝廷の軍務を扱っていた一族であったため、光明皇后は彼らを「同族」と言ったのではないかと考えられている。
しかし、藤原仲麻呂はこれをいい機会に、自分の敵対者を全部殺してしまおうと思っておりました。光明皇太后が引見した翌日、仲麻呂は再び橘奈良麻呂らを捕らえて糾問し、最後は拷問して殺してしまいます。
しかも、藤原豊成の息子が橘奈良麻呂の友人だったことに目を付け、無実の罪で豊成を左遷します。
その翌年、藤原仲麻呂は「藤原恵美押勝」と改名、太保(=右大臣)となります。
おそらく、光明皇太后はこの時仲麻呂をひいきしてきた事を強く後悔したのではないか?私はそう感じます。
光明皇后は、「藤原一族の母」という自覚を持って生きてきました。男の子がいなかったですから、甥達にかける期待は大きな物があったでしょう。
天平末年・甥の藤原清河(藤原房前四男)が遣唐大使になったとき、彼女は清河を「我が子」といい、その渡海の無事を祈る歌を残しております。
しかし、仲麻呂が考えていたのは、自分と自分の子供の栄達だけでした。
兄・藤原豊成でも、上に出世したい自分のじゃまになると思うや、左遷してしまったのです。
同じ年に、退位した孝謙天皇に「上台宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「中台天平応真仁正皇太后」の称号が送られますが、光明皇太后はもはや「勝手にせい!」としか思わなかったのではないでしょうか?
その後、彼女は政治の表舞台には出ることなく、夫・聖武天皇と父・藤原不比等の供養に人生を費やし、東大寺に次々と寄進をしております。
特に薬品の寄進を重視したようで「願いがあれば誰にでも貸し出すように」と命令しております。
天平宝字四年(760年)、光明皇太后没。夫・聖武に遅れること4年。
年は60歳でした。
…藤原仲麻呂が、孝謙太上天皇と対立し、藤原真楯(=八束・藤原房前と牟漏女王の息子)や吉備真備の率いる軍隊に負け、近江国で藤原広嗣の弟・蔵下麻呂(くらじまろ)に討ち取られたのはそのわずか4年後のことでした。
光明皇后のお墓は平城京を望む高台にあります。ここは戦国時代に、悪名高い松永久秀が「多聞山城」を築いたところでもありました。
江戸時代末期の国学者・北浦定政がここを訪れ、このように書き残して嘆いております。
「ここをあの仁正皇太后(=光明皇后)の墓と人は教えてくれるが、城が築かれたため跡形すら見つけられない。」(『筆のすさび』)
次回からは、光明皇后の同母妹・藤原吉日(多比能)です。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。