拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日を拝読。
日本古代史の本を読むのは久しぶりだった。
タイトルからでは分かりにくいが、奈良時代の貴族に関するいろんな論考が集まっているという印象。
個人的には関心のある藤原北家3兄弟(藤原房前と正妻・牟漏女王の間に生まれた永手・八束(眞楯)、千尋(御楯))に関する論考を興味深く拝読した。吉川氏は『続日本紀』に書かれた藤原眞楯(八束)薨伝は本来兄の永手薨伝として書かれた物がかなり混入しており、
・藤原仲麻呂と不仲だったのは八束(眞楯)ではなく永手
・永手の若いときはなかなか出世できずに一時弟の八束に抜かれているが、それも仲麻呂と不仲だったのが理由
という結論にいたっておられる。(第二編第八章「仲麻呂政権と藤原永手・八束(眞楯)・千尋(御楯)」)しかし、中年期(具体的に言えば橘奈良麻呂の変〜藤原仲麻呂の変)の間で再び永手の出世が停滞するのは藤原仲麻呂と永手が不仲だったからという理由は納得できるが、若いときの出世の停滞まで仲麻呂との不仲に求めるのは納得しがたい。
(1)永手の出世の停滞は天平初年に初叙、天平9年(737年)に正六位下(たぶん蔭位制から考えてもこれが初叙時の官位)から従五位下に昇叙、ところが天平勝宝元年(749年)に従五位下から従四位下にいきなり3段階昇叙するまで、北家の嫡長子でありながら12年間も放置されていた。この時期はまだ藤原仲麻呂も「ライバル」永手の出世を牽制するほどに出世しておらず、ここまで永手の出世を妨害できる立場にあったとは思われない。
(2)東野治之氏(奈良大学教授)は法隆寺に聖徳太子とは全く関係のない橘三千代関係の一族がいろいろと寄付をしていることに関して橘三千代の信仰と関係があるのではないかと指摘した。その時に橘三千代の娘・牟漏女王の一族になる藤原北家も法隆寺にいろいろと便宜を図っていることを指摘されていた(参照「聖徳太子から光明皇后へ−太子信仰の系譜」 『国宝と歴史の旅 (1) (朝日百科日本の国宝別冊)』所収)が、そのメンバーの中に藤原永手が入っていなかったのである。官位などの公的な場ならともかく、私事の仏事にも参加した形跡がない。これは吉川氏説のように「仲麻呂に迫害されて永手が一時逼塞していた」という説明では理解できない。ちなみに、牟漏女王とお寺といえば西国三十三カ所で有名な興福寺・南円堂も彼女の寄付によって建てられた物だが、この建立時のメンバーの中にも八束の名前はあるが、何故か永手の名前がない。
(3)前述のように、天平勝宝元年まで、永手は弟の八束に官位を抜かされているが、長子優先の中国伝来の律令制を忠実に守っていた奈良時代で、この現象事態が異常。この後、南家・藤原豊成が弟の仲麻呂に抜かされる事態が発生するが、これは豊成が橘奈良麻呂の乱に連座するという大事件があったから。吉川氏のいう「仲麻呂と永手の不仲」はここまで官位に影響する事件とは思われない。
…ということで、他にも授刀大将など(謎)いくつか細かい問題点もありますが、ともかく吉川説では藤原永手人生前半の空白が説明できないと考えるのであります。
本読んだ限りでは、たぶん吉川先生は藤原永手ラブだと思うのだが(ヲイ)、そのパワーで、今後の研究の進展を期待するものなのであります。
実はこれに関しては私説を持っているのだが、いずれ明らかにするかも知れないししないかも知れないヾ(^^;)
※このネタは2008年10月17日にかかれた物ですが、東野氏の論文を探すのに時間がかかり、今頃のupとなりました。ああはずかし。
日本古代史の本を読むのは久しぶりだった。
タイトルからでは分かりにくいが、奈良時代の貴族に関するいろんな論考が集まっているという印象。
個人的には関心のある藤原北家3兄弟(藤原房前と正妻・牟漏女王の間に生まれた永手・八束(眞楯)、千尋(御楯))に関する論考を興味深く拝読した。吉川氏は『続日本紀』に書かれた藤原眞楯(八束)薨伝は本来兄の永手薨伝として書かれた物がかなり混入しており、
・藤原仲麻呂と不仲だったのは八束(眞楯)ではなく永手
・永手の若いときはなかなか出世できずに一時弟の八束に抜かれているが、それも仲麻呂と不仲だったのが理由
という結論にいたっておられる。(第二編第八章「仲麻呂政権と藤原永手・八束(眞楯)・千尋(御楯)」)しかし、中年期(具体的に言えば橘奈良麻呂の変〜藤原仲麻呂の変)の間で再び永手の出世が停滞するのは藤原仲麻呂と永手が不仲だったからという理由は納得できるが、若いときの出世の停滞まで仲麻呂との不仲に求めるのは納得しがたい。
(1)永手の出世の停滞は天平初年に初叙、天平9年(737年)に正六位下(たぶん蔭位制から考えてもこれが初叙時の官位)から従五位下に昇叙、ところが天平勝宝元年(749年)に従五位下から従四位下にいきなり3段階昇叙するまで、北家の嫡長子でありながら12年間も放置されていた。この時期はまだ藤原仲麻呂も「ライバル」永手の出世を牽制するほどに出世しておらず、ここまで永手の出世を妨害できる立場にあったとは思われない。
(2)東野治之氏(奈良大学教授)は法隆寺に聖徳太子とは全く関係のない橘三千代関係の一族がいろいろと寄付をしていることに関して橘三千代の信仰と関係があるのではないかと指摘した。その時に橘三千代の娘・牟漏女王の一族になる藤原北家も法隆寺にいろいろと便宜を図っていることを指摘されていた(参照「聖徳太子から光明皇后へ−太子信仰の系譜」 『国宝と歴史の旅 (1) (朝日百科日本の国宝別冊)』所収)が、そのメンバーの中に藤原永手が入っていなかったのである。官位などの公的な場ならともかく、私事の仏事にも参加した形跡がない。これは吉川氏説のように「仲麻呂に迫害されて永手が一時逼塞していた」という説明では理解できない。ちなみに、牟漏女王とお寺といえば西国三十三カ所で有名な興福寺・南円堂も彼女の寄付によって建てられた物だが、この建立時のメンバーの中にも八束の名前はあるが、何故か永手の名前がない。
(3)前述のように、天平勝宝元年まで、永手は弟の八束に官位を抜かされているが、長子優先の中国伝来の律令制を忠実に守っていた奈良時代で、この現象事態が異常。この後、南家・藤原豊成が弟の仲麻呂に抜かされる事態が発生するが、これは豊成が橘奈良麻呂の乱に連座するという大事件があったから。吉川氏のいう「仲麻呂と永手の不仲」はここまで官位に影響する事件とは思われない。
…ということで、他にも授刀大将など(謎)いくつか細かい問題点もありますが、ともかく吉川説では藤原永手人生前半の空白が説明できないと考えるのであります。
本読んだ限りでは、たぶん吉川先生は藤原永手ラブだと思うのだが(ヲイ)、そのパワーで、今後の研究の進展を期待するものなのであります。
実はこれに関しては私説を持っているのだが、いずれ明らかにするかも知れないししないかも知れないヾ(^^;)
※このネタは2008年10月17日にかかれた物ですが、東野氏の論文を探すのに時間がかかり、今頃のupとなりました。ああはずかし。
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