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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前の話はこちらです。


ところで、実際「正倉院文書」に”○○尊”という単語は何回出てくるのだろうか。
東大史料編纂所データベースを元に検索してみて管見に引っかかった物をリストしてみました。

※ご興味のある方は下の「つづきはこちら」をクリックプリーズ。


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1)天平10年8月17日「少輔尊」(続々修17帙1裏書)<『大日本古文書』7巻-p.187>
2)天平15年1月9日「兵部卿(藤原豊成)尊」(続々修3帙2)<8-163>
3)天平16年10月「式部尊(鈴鹿王)宣」(正集32裏)<24-280>
4)天平18年(1月)13日「謹上乙満尊」(続々修2帙4)<9-5>
5)天平18年3月14日「中納言藤原尊(藤原豊成)宣」(続修13裏書)<9-136>
6)天平18年5月22日「謹上乙麻呂尊御従側」(続々修37帙1)<9-219>
7)天平18年5月21日「依中納言尊(藤原豊成)宣」(続々修37帙2)<9-66>
8)天平20年9月7日「依式部尊大輔藤原朝臣(豊成)宣十五年九月廿日」(続々修16帙1)<10-377>
9)天平勝宝5年3月6日「呉原尊従者等中」(続修45)<3-618>
10)天平勝宝5年6月15日「天平十六年十二月廿九日被中納言尊宣云」(丹裏古文書)<25-131>
11)天平勝宝7歳1月21日「経司尊等従者等中」(続々修16帙7)<13-121>
12)天平勝宝?年?6月4日「謹上道守尊」(続修48)<25-210>
13)天平勝宝?年?「進授刀尊御所」(続々修18帙1)<25-211>
14)天平宝字2年10月13日「謹解真木麻呂尊坐邊」(続々修8帙20裏)<14-191>
15)天平宝字2年11月1日「謹上男黒尊侍者」(続々修46帙6裏)<25-239>
16)天平宝字2年7月17日「謹上五百瀬尊」(続修30)<4-276>
17)天平宝字2年9月14日「謹上男黒尊侍者」(続修46)<4-316>
18)天平宝字5年12月1日「?麻呂尊御曹司迄」(続修47)<4-523>
19)天平宝字6年2月28日「上謹吉成尊坐下」(続修48)<15-355>
20)天平宝字6年3月27日「解吉成尊」(続々修45帙3裏)<15-441>
21)天平宝字6年?4月24日「謹上道守尊侍者」(続集48)<25-333>
22)天平宝字6年4月26日「(勝部)小黒尊御前」(続々修44帙6裏)<15-460>
23)天平宝字6年12月8日「謹啓道守尊左右」(続集49)<16-24>
24)天平宝字6年閏12月1日「謹上吉成尊者侍者」(続々修40帙5裏)<16-120>
25)天平宝字6年閏12月16日「謹上広麻呂尊」(続々修40帙5裏)<16-171>
26)天平宝字6年7月17日「敬上吉成尊左右」(続修49)<5-243>
27)天平宝字6年閏12月2日「佐官尊御所」(続修別集48)<5-328>
28)天平宝字7年2月29日「謹上佐官尊左右邊」(続々修44帙10)<16-340>
29)天平宝字7年2月20日「謹上吉成尊侍者」(続修47)<5-387>
30)天平宝字8年8月25日「謹上楊尊侍者謹空」(続修49)<16-553>
31)天平宝字8年8月26日「道守尊執事」(続修49)<16-554>
32)宝亀3年8月21日酉時「道守尊卿記室」(続々修39帙4裏)<20-54>
33)宝亀3年10月23日「三郎尊侍者邊」(続々修39帙4裏)<20-319>
34)宝亀6年2月28日「東大寺判官尊侍者」(続修47)<6-583>
35)宝亀7年5月10日「案主尊側」(続修48)<25-362>
36)(年不詳)3月29日「謹上縄(阿刀縄麻呂か)記室」(続々修41帙4裏)<24-291>
37)(年不詳)6月8日「謹上道尊研下」(続修48)<16-556>
38)(年不詳)7月1日「謹上道守尊公侍者仲」(続修48)<22-211>
39)(年不詳)7月20日「然此専別当尊宣云」(続々修32帙4裏)<22-191>
40)(年不詳)5月4日「謹上佩田尊」(続々修43帙22裏)<15-308>
41)(年不詳)9月18日「石麻呂道守二柱尊侍者」(続修49)<20-62>
42)(年不詳)10月28日「奉上道守尊公侍者」(続修49)<22-213>
43)(年不詳)?月20日「謹上石万呂道守両尊机下」(続修49)<14-175>
44)(年月日不詳)「進弓万呂尊足下」(続々修44帙6裏)<16-483>
45)(年月日不詳)「申給吾尊」(続々修40帙4裏)<22-590>

…ここまで調べるのに2日間⊂(。Д。⊂⌒`つ 当分東大史料編纂所DBは見たくないヾ(--;)

気を取り直して、2日間(^^;)の調査で分かったこと
(A)<役職>「尊」と言う使い方と<名前>「尊」という使い方があること
(B)「尊」の使われ方が時期によって変化したと思われること

(A)ですが、
・<役職>「尊」の例:1,2,3,7,8,10,11,13,27,28,34,39
・<名前>「尊」の例:4,6,9,12,14~26,29~33,36,38,40~44
・両方の混合:5
・?:35,37、45
?としたうち、35,45は上司に当たる人物の役職or名前を書かずに普通名詞で差し替えたと見られますし、37は「道守」と書くつもりが略して「道」と書いてしまったと考えられます。

(B)について。
(A)とも関わる話なのですが、年代順に並べてみると、<役職>「尊」と書く例は古い時代に多く、<名前>「尊」と書く例の方は後の時代に多く見られます。
しかもその傾向の切れ目が天平勝宝(749~757年)にあるのが明らかです。
どうも「尊」という尊称が、天平勝宝辺りで価値が下落それも暴落したように感じられます。というのも、天平勝宝以降の文書で<名前>「尊」と書かれている人の多くが、パッと名前が浮かぶような有名官人ではないからです。
天平勝宝と言う時代ですが、聖武天皇が退位し、その結果光明皇后とその側近となっていた藤原仲麻呂の発言力が増大した時期です。藤原仲麻呂はその後官名を唐風に変えるなど、この時代でも極端すぎる中国かぶれという事が知られている人物です。仲麻呂の権力が拡大するにつれて、古くからの日本の尊称「尊」の価値が下落したということは考えられないでしょうか。

また、今回リストアップしたことで「式部尊」という文書例がもう一例あることを発見しました。上記のリストにある3)なのですが、「大日本古文書」の補注ではこの「式部尊」を鈴鹿王としています。鈴鹿王はこの1年後に亡くなりますが、先述したように、『続日本紀』の薨伝にも知太政官事兼式部卿であったことが書かれており、この比定はまあ妥当なところだったと思います。
しかし、今回ネタにした文書で「式部尊」=式部大輔藤原八束と書かれていた物があるところから類推すると、この3)に出てくる「式部尊」も鈴鹿王じゃなくて藤原八束である可能性もあるかと。


今回の考察で使用した「正倉院文書」続々修原文copyは宮城女子学院大学図書館所蔵の物です。
快くCOPYして下さいました宮城女子学院大学図書館に御礼申し上げます<(_ _)>
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