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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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…自分で書いといて何だが、何か扇情的なタイトルだな(-_-;)
前の話はこちらです。


さて。
前の話で私はこんな事を書いていた。
ところでwikipediaでは許麻呂の母である橘佐為の娘=藤原是公の妻となって真友、雄友を生んだ橘佐為の娘=橘真都我と言う恐ろしいことが書いてあるんですが…どうなんでしょ?これがホントだったら是公はお父さんの奥さんをお父さんが死んだ後横取りしたということになりますがね…モンゴルじゃ普通にあったことのようですが、古代日本じゃどうなんだろうか余り前例がないような。
…まず、このwikipediaの話が本当なのかどうか、実際の史料に当たって調べてみようではありませんか。

長くなりそうなので、ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。


拍手[3回]



まずは前回の記事を書くときにもお世話になった『尊卑分脈』から見ていきましょう。
藤原乙麻呂の長男(たぶん実際は次男)の藤原許麻呂(許人、是人)についてはこう書かれています。
 正五下
 右少弁
許麿
 母従三橘佐為女
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991585/35
この記事の問題点は橘佐為は実際は正四位下で死去(天平9年)されているのですが、2階級上の従三位と書かれていること。

問題の?次男(多分実際はこっちが長男)の藤原是公についてはこう書かれています。
  本名黒丸
 神祇大副
 少納言式部大輔
 従三位左大弁式部卿
 東宮大夫
 右大臣中衛大将
是公
 母従五下石川
       連麿
       建麿女カ
 延暦八九十九薨六十
 一▲イ三
 贈従一位
 号牛屋大臣 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991585/35
ほうほう、最初は「是公」じゃなくて「黒麿(黒麻呂)」だったのか~…と今回の関心事はここじゃないので置いといて(^^;)
次に是公の子供たちを見てみます。子供の母親を見れば是公の妻が分かるはず
 大蔵卿
 参議従四上
眞友
 母同雄友
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991585/35
ということなので、次に雄友の項目を見てみますと
 美作播磨守
 参議正三位
 中納言太宰帥
 中務卿民部卿
雄友
 母橘佐為女
 大同二十五配伊予国依伊予親王外舅坐事也
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991585/35、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991585/36
母親は橘佐為の娘、とあります。ついでながら眞友、雄友の弟・弟友も「母同」とあり、橘佐為の娘が母だったことが分かります。
つまり、『尊卑分脈』によれば、橘佐為の娘が是公との間に男子3人を産んだことが分かるのですが、ただ彼女の名前を「橘真都我」とは明言してないです。



次に見るのは『公卿補任』。奈良時代以降参議に付いた人の名簿です。中世史とか近世史の人でもお世話になってる人は多いはず。
藤原許麻呂については参議に登る前にお亡くなりになったようで『公卿補任』には登場しないのですが、他の3人(是公、眞友、雄友)は参議になったので記事があります。

では年齢順に見てみましょう。最初は藤原是公から。
宝亀五年
(中略)
 正四位下 同是公四十八 五月五日任。東宮大夫。侍従。左衛士督。武部大輔等如元。
贈太政大臣武智麿之孫。従三位兵部卿乙麻呂一男(件乙麿不歴参議欸)。為人長大。兼有偉容。本名黒麿。母従五位下石川建麿女
(以下略)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099/36
書いてあることは『尊卑分脈』の注記と殆ど一緒でした。ところで、「是公」の前に「同」と入っているのは「藤(原)」を略したという意味です。深い意味はないよ。この時に藤原姓の参議を多数任命したのでこういう略され方になってしまいました(^^;)
次は藤原眞友
延暦十三年
(中略)
 従四位下 藤眞友五十三 十月廿七日任。右京大夫。中務大輔如元。
右大臣是公二男。母正四位上中宮大夫兼侍従兵衛督橘朝臣佐為四女。尚侍従三位乙麿朝臣。
(以下略)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099/44
これは何とも難解です。文章自体は難しくないのですが、まず初っぱなから「眞友は是公の次男」とあります。『尊卑分脈』では長男なのに。系図では書き落とした早世した長男がいたのだろうか。
次に母親のことが詳しく書いてあるのですが、「橘佐為の四女」は分かるのですが、「尚侍従三位乙麿」の”乙麿(乙麻呂)”とは男の名前です。と言うか、是公の父の名前だったりする。『公卿補任』が史料を写すときに錯誤した可能性が伺えます。
最後が藤原雄友
延暦九年
(中略)
 従四位下 藤雄友三十八 二月廿七日任 兼左京大夫左衛門督播磨守。
右大臣是公二男。母正四位上侍従中宮大夫兼左衛門督橘朝臣佐為四女。尚蔵三位麻通我朝臣。
(以下略)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099/43
えええ、雄友も次男なの(○。○)…眞友が「二男」で雄友が「三男」、横棒一本書き落としたと言う事だろうか?つっこみ所はそればかりではなく、弟のはずの雄友の方が4年先に参議になっていたりとか…藤原永手・八束(真楯)兄弟同様なんか深い闇がありそうな気がするヾ(^^;)
…本題から脱線しましたが、雄友の母親については眞友同様「橘佐為四女」としていますが、その後の記述が「尚蔵三位麻通我朝臣」となっています。「麻通我」は「まつうが」と読めますから、「橘佐為四女尚蔵三位麻通我」=橘真都我(まつが)と考えて良いかと思います。

一つ気になったのは眞友・雄友の年齢。『公卿補任』によれば、延暦13年時点で兄眞友は53歳、延暦9年時点で雄友38歳ということですから、二男?眞友と三男?雄友は11歳差があるということに。何とも言えない微妙な年齢差。そして既述したように『尊卑分脈』では同母兄弟のはずなのに、11歳年上の眞友の方が出世が遅いのですよね…うーむ。

更に眞友・雄友の年齢を逆算すると
・眞友:天平14年(742年)生まれ
・雄友:天平勝宝5年(753年)生まれ
…実はこの時点で、是公の父(=眞友・雄友の祖父)の乙麻呂はまだ健在(ちなみに天平宝字4年(760年)死去)。
許麻呂の生年は不詳ですが、宝亀元年(770年)に従五位下に任官した所から740年~745年頃の生まれと推定されます(藤原南家の庶子ということから25~30歳ぐらいで従五位下に昇進と推測)。
念のため上の話を時系列で整理してみます。
 天平14年(742年) 藤原是公(黒麻呂)の次男(?)眞友誕生
 天平12年(740年)~天平17年(745年)頃 藤原乙麻呂の次男・許麻呂(許人、是人)誕生
 天平勝宝5年(753年) 藤原是公(黒麻呂)の三男(?)雄友誕生
 天平宝字4年(760年) 藤原乙麻呂死去
…つまり、wikipediaで書いてある「橘真都我は最初藤原乙麻呂の妻となり許麻呂を生んだが、その後是公と再婚し、眞友・雄友・弟友を生んだ」という話は、時系列で見ると無理がありすぎます。

<結論>
藤原乙麻呂との間に許麻呂(許人、是人)を生んだ橘佐為の娘は真都我とは別人

『公卿補任』では真都我は佐為の四女とあります。つまり上に3人お姉さんがいると。
そのうちの一人は聖武天皇夫人である橘古那可智(?~天平宝字3年7月5日(759年8月21日))で間違いないと思いますが、後2人は『尊卑分脈』橘氏系図に記載無く、全く不明。ただ、『続日本紀』天平宝字元年閏8月条で、古那可智、真都我と同日に「広岡朝臣」と改名したメンバーとして
 綿裳、宮子、真姪
などの名前が伝わっています。このうち綿裳は後の史料に子孫が登場しますし、『尊卑分脈』の記述を見ても男性と思われますが、「宮子」、「真姪」は名前から見ても女性でしょう。
また、同じ『続日本紀』の天平勝宝元年4月条には無位から正四位上になった「橘通可能」と言う人物が登場します。「たちばなのつかの」と読むのだろうか。この時に官位をもらった人には女性が多く、通可能も女性と思われます。

このうちの誰かが乙麻呂の妻だったと考えます。


…とこれで終わっては芸がないヾ(^^;)ので、もうちょっと考証してみます。

何でwikipediaにああいう話が載っていて、修正もされないのか?
…実は元になった本があるのを見つけてしまった。それもいわゆる歴史作家とかライターが書いた物じゃなくて、研究にもよく使われているすごーく権威のある本だったりする_| ̄|○
そのタイトルは…『日本古代人名辞典』(吉川弘文館)!同名の本が2009年に東京堂出版と言うところから出たようですが、そっちじゃなくて吉川弘文館から60年ぐらい前(!)に出た9冊本の方です。
その本の「橘真都我」の説明がこうなっている。
【橘宿禰真都我】佐為の四女。尚蔵。藤原乙麻呂に嫁して許(文)麿を生み、また藤原是公の妾となって雄友、真友、弟友を生んだ(公卿補任、尊卑文脈)。
(以下略)
『日本古代人名辞典』4巻p.1089
wikipediaと全く一緒ですね!…恐らくこの本が情報元で間違いないでしょう。
しかし、『古代日本人名辞典』の編者のみなさん(ちなみに竹内理三山田英雄平野邦雄というそうそうたるメンバーです)はどうしてこういう考証をしてしまったのでしょうか?
…いくつか思い当たる点があります。
(1)『尊卑分脈』橘氏系図の記述
上記の系図には橘佐為の子供として、先述の綿裳という男性と、今回のネタ・真都我(らしい女性)だけを記載しているのですが、その記述が妙なのです。
 右大臣是公妾大納言雄友母
 尚蔵従三麻通
女子
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991593/33
※下線はばんない補注
「麻通」は「真都我」の”真都”を別字で置き換えたのだろうというのは先述しましたが、藤原是公の「妾」と書いてあるのです。
(2)藤原許麻呂(是人)の母
重出になりますがもう一度『尊卑分脈』の記述を引用してみる。
 正五下
 右少弁
許麿
 母従三橘佐為女
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991585/35
※下線はばんない補注
先述したのですが、橘佐為は正四位下で没しているのに、従三位と書いてあります。この従三位と言う位、橘真都我の極位(『続日本紀』延暦5年1月条、『尊卑分脈』橘氏)と同じなのです。
(3)藤原眞友の母
これまた重出になりますが、『公卿補任』の記述を引用。
延暦十三年
(中略)
 従四位下 藤眞友五十三 十月廿七日任。右京大夫。中務大輔如元。
右大臣是公二男。母正四位上中宮大夫兼侍従兵衛督橘朝臣佐為四女。尚侍従三位乙麿朝臣
(以下略)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099/44
※下線はばんない補注
母親について、「尚侍」というのは「尚蔵」の書き間違いと考えられますし、「従三位」は同じなので問題ないのですが、この後に「乙麿(乙麻呂)」と書いてあります。なお、「従三位」は(2)で書いた藤原許麿(是人)の母親とされる人の官位と同じです。

これらの記述を、『日本古代人名辞典』編者のみなさんは
「藤原是公の息子・眞友の母は弟・雄友の母と同母で橘佐為の娘・尚蔵従三位真都我
 乙麻呂の息子・許麻呂の母も橘佐為の娘だが、『公卿補任』藤原眞友の記述から類推して、真都我は最初藤原是公の父・乙麻呂の妻になったのではないか
そう考えると『尊卑分脈』橘氏系図で真都我が「是公妾」と落とされた書き方をされているのが納得いく」
…と解釈されたのではないかと。



…ややこしい考証になりましたが、かつてのモンゴルなど北方の狩猟民族では「先代の当主の妻を、次期当主も引き継いで妻にする」という奇習があったのですが、日本ではやっぱりそういう事例はなかったのではないかと。
橘真都我が該当するめずらしいネタの人なのかどうか、私なりに考証したのですが、史料の記述が妙だったための勘違いの可能性が高いと思われます。
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