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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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実は東大史料編纂所データベースの『大日本古文書』を用があって検索していたときに偶然見つけたんだが
○造東大寺司解案(続々修16帙1)
(中略)
                         大輔藤原朝臣
 八巻金光明経□一部八巻 依式部尊十五年九月廿日宣所奉写者
                  可着経一丈六尺巻別二尺 軸八枚
(後略)
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/image/idata/850/8500/05/0010/0377.tif
『大日本古文書』の注釈によると「式部尊藤原朝臣」を藤原豊成としている。…が、実は豊成は式部省関連の役職に就いたことがないのである。
養老7年(723年) 日付不詳:内舎人兼兵部大丞
神亀元年(724年) 2月22日:従五位下。日付不詳:兵部少輔
天平4年(732年) 正月20日:従五位上
天平9年(737年) 2月14日:正五位上(越階)。9月28日:従四位下。12月12日:参議、兵部卿
天平11年(739年) 正月13日:正四位下(越階)
天平12年(740年) 正月:兼中衛大将
天平14年(740年) 日付不詳:兼中務卿
天平15年(743年) 5月5日:従三位、中納言、中衛大将如元
天平18年(746年) 4月5日:東海道鎮撫使
天平20年(748年) 3月22日:従二位、大納言、中衛大将如元
天平感宝元年(749年) 4月14日:右大臣
天平勝宝6年(754年) 11月1日:東山道巡察使
天平勝宝8年(756年) 5月3日:御装束司(聖武上皇崩御)
天平勝宝9年(757年) 5月20日:正二位。7月12日:大宰員外帥、停右大臣
天平宝字8年(764年) 9月14日:復右大臣。9月20日:従一位

wikipediaより引用 スイマセン手抜きで(^^;)
天平15年には豊成は中納言兼中衛大将。式部卿兼任…は考えられなくもないが、文書では「式部大輔」と書いてある。中納言クラスの藤原豊成のような人物が次官の大輔兼任というのは考えづらい。また、この頃の式部卿は知太政官事だった鈴鹿王(『続日本紀』天平17年9月4日条)と推定される。
では、この文書に書かれた「天平15年9月20日」の時点で式部大輔に就いていた藤原氏は誰なのか?…これは藤原八束しか考えられない。『続日本紀』天平神護2年3月条の薨伝で在籍年月不詳だが「正五位下式部大輔兼右衛士督」とあること、同じ『続日本紀』天平13年12月に右衛士督(当時従五位上)に、天平15年5月に従五位上から正五位下に昇進していることから類推される。「正倉院文書」天平17年2月24日の文書(続々修35帙6巻、『大日本古文書』2-395)に「従四位下行右衛士督兼大輔藤原朝臣」と書かれている人物も藤原八束を指すというのが通説。

ただ、『大日本古文書』自体が翻刻する時点で間違った可能性もあるので、念のため影印本も入手してみることに。『正倉院古文書影印集成』というのが影印本らしいんだが…なんと当該文書はまだ所収されてないことが判明⊂(。Д。⊂⌒`つ。マイクロフィルム化はされているようなんだが、これがまたほとんどの大学で所蔵してないという代物・゚・(´Д⊂ヽ・゚・
…と言う事で、遠路はるばる宮城県からcopyを取り寄せました。
まさか石原完爾ネタ以外で宮城県からcopyを取り寄せる羽目になるとは思わなかった(^^;)。

実物copyを見た第一印象 予想と大違いで愕然…
表面は清書っぽいと聞いていた(『大日本古文書』の説明もそう書いてあった)のだが、全然清書っぽくない…と言うかすごい下手字ヾ(--;)。どういう事なんだこの文書。
ご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。


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まず、当該文書の「表」(『大日本古文書』ではこちらが裏とされている)の画像

次に、当該文書の「裏」(『大日本古文書』ではこちらが表とされている)画像
 
この文書には、素人目で見る限り、最低でも3人の筆者が関わっていると考えられる。
(1)当該文書の裏(上で紹介した楷書の文書)を書いた人
(2)当該文書の表(行書の文書)→ を書いた人
(3)当該文書の裏に補注「式部大輔藤原朝臣」→ を書いた人

(1)が奈良時代当時に一番最初にこの文書を作成したのは確実と考えられる。
問題は(2)で、奈良時代当時にこの文書の裏に概要を書き込んだのか、それとも後世の人がこの文書を整理したメモを書き付けたのかが判然としない。
(3)は、(2)を見た人が後から書き込んだ物だろう。
そして、(2)を書いた人と、(1)の末尾に追加(「以前従去天平十五年迄~判官正八位上上田邊史」)を書いた人は、筆跡から見て同一人物と思われる。
また、(2)を書いた人が奈良時代当時の人だとすれば、「式部尊」=「式部大輔藤原朝臣」=藤原八束と言う事を知っていた人と思われる。もし奈良時代当時の人じゃなく後世の人なら、何でこういう書き込みをしたのか理解不能。通常は「式部尊」=式部卿と考えるだろうし…。

と言う事で、更に更に気になってきたので他の文書の影印も入手してみることに。
(2)を書いたのは問題の文書の裏面と表面の最後に「主典従八位下山口伊美吉(忌寸)」とサインしている人物ではないかと推測。天平20年前後に「山口伊美吉(忌寸)」が作成したと思われる他の文書もチェックすることにしました。
怪しい文書は以下の辺り
・天平20年9月22日「経琉奉請帳」(続々修15帙5 『大日本古文書』10-276)
・天平21年4月10日「造東大寺司牒」(続修別集6 『大日本古文書』3-215)
なお、「山口伊美吉(忌寸)」は欠名ですが、「経本奉請帳」(『大日本古文書』10-382)に出てくる「付山口主典」と「使山口沙弥麻呂」が同一人物であることが「造東寺司櫃納経并未返経論注文」(『大日本古文書』11-449)で「天平廿年九月廿日宣(中略)使主典山口沙弥麻呂」と書かれている事から分かります。
ということで、山口沙弥麻呂の自署有りor作成と思われる文書も探してみました。
・天平勝宝3年5月22日「造東寺司請経文」(続々修42帙5裏 『大日本古文書』11-556)
・天平勝宝5年5月7日「紫微中台請留経目録」(続々修12帙2裏 『大日本古文書』12-441)
・天平勝宝7歳8月21日「紫微中台請経文」(続々修16帙7 『大日本古文書』13-154)
・天平宝字5年12月23日「甲斐国司解」(正集18 『大日本古文書』4-523)
ところで話は脱線するが、この山口沙弥麻呂さんってなかなか濃いですな。この人の話だけで一つコラム書けそう。

と言う事で続きの文書copy到着待ち。
続く。
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