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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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天正18年5月27日に詠まれた物です。
実は例の如く(^^;)上の句しかありませんが一首としてカウントしちゃおうヾ(--;)

「義久公御譜中」
天正十八年庚寅、在京之際、紹巴法橋一会興行之時、所強発句再三固辞、然而弥請不止、是以不得已而応其求、即五月廿七日也、
「在御文書方」
          「雲イ」
梢よりしつ枝も花にあふち哉  龍伯
(「薩藩旧記雑録」後編2-662)



「義久君上京日記」該当箇所こちら

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天正18年6月12日に詠まれた物です

「義久公御譜中」
天正十八年六月七日、依紹巴之有誘引、詣祇園神社、昌叱亦同列也、社邊美景歴覧亦已興盡、丁欲帰宿之時、紹巴攜入我於六条道場中文閑庵室、勤盛膳酌美酒非唯我耳、及供奉士卒、忘盛暑之難忍也、
天正十八年六月十日、招民部卿法印於私宅、而所以一日之為佳興也、紹巴・昌叱亦為挨拶召座席也、
    「三イ」
同月十二日、為西方寺一見、往于嵯峨入于寺門、則庭前樹木池水不得空過、而綴一首卑歌也、
「在御文書」
 池水のたヽむいはほに浪かけて
  夏ををくらす庭の松かけ
此歌の由、紹巴聞付られ候て、如此、
夢想国師手自石木をかさねうへ給う西方寺の庭、御一見の池水の御口号、近比珎重〃〃、御供之人〃何とて不被詠候哉、岩木のこヽろはつかしく候、次の日をくらる、
「在御文書方」
 岩たヽむ道とめ入て池水に
  夏ををくらす人のかしこき 紹巴
天正十八年六月十四日、先参東山 龍山公、而後直到于下京、見祇園会之盡華美也、
(「薩藩旧記雑録 後編」2-665)

西方寺(苔寺)を見物した後、嵯峨(大覚寺か?)を訪れ、そこの庭を見て作った和歌のようです。

それにしても他の和歌なども見て思うのですが、里村紹巴・昌叱とはよくつるんで…いやいや(^^;)一緒にいることが多いようです>義久


「義久君上京日記」該当箇所こちら


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本文に日付がありませんが、天正18年6月頃に詠まれた物と思われます

「義久公御譜中」
一将軍家義輝光源院殿後室大陽院殿かくれさせ給ひし時読之、御霊前にそなへ奉るなり、
「在御文書方」
末の露消にし野辺の跡とへは
 なをもとつ葉を忍ぶ草かな
(「薩藩旧記雑録 後編」2-669)


あれ?もしかして女性宛に挽歌書いたの、増えた?ヾ(^^;)

この挽歌を捧げられた足利義輝正室とは近衛前久の妹(実名不詳)です。
義輝の母も近衛家出身で前久の叔母(慶寿院)に当たりますが、この人は息子と一緒に戦死しました。
義輝夫人に義久が挽歌を送ったのは、義輝に偏諱をもらったと言うこともありますが、近衛家の関係者であるという事情もあるかと推測されます。

ちなみに最後の将軍・足利義昭が亡くなったとき(慶長2年)には義久は全くの無反応でした。挽歌書いてたけど単に残らなかったのかも知れないが。



関連ネタ   

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天正18年11月に詠まれた物です

「義久公御譜中」
天正十八年十月廿四日、詣清水寺、終夜凝懇祈、明朝宿坊備酒食也、
同月廿七日、於東山寺有連歌、 龍山公出座、予亦陪其座、迄深更帰京也、
同月廿九日、於聖護院有法論議、為聴聞令参詣、終日慰老耳矣、
天井十八年庚寅十一月朔日、丁在洛時、近衛関白太政大臣従一位准后前久公賜初雪詠於東山矣、
「写田中藤次兵衛進上」
とはすともあはれとはみよ都人
 わかすむ山のけさのはつ雪  龍山
こゝもと山居、中\/とせんの体、申はかりなく候、はゝかりをかへりみす令申候、今朝の雪、さそおもしろく候ハんと察申候、龍伯几下、
同月二日、綴右返歌、以進上之、
「在御文書方」
初雪のつもれる庭にあとつけぬ
 こゝろハおもひやるかひもなし  龍伯
(「薩藩旧記雑録 後編」2-699)


義久の和歌はちょっと皮肉っぽいかな?

「義久君上京日記」該当箇所こちら

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注記
これから暫く「義久君上京日記(仮)」関連の歌が続きます。
「義久君上京日記(仮)」は昇順(1月→2月)と紹介したのですが、和歌の方はこちらのブログでは降順(12月→11月)と紹介していますので御了承下さい。


天正18年11月、在京中に詠んだ歌です。場所は今年の大河にも関係している?あの場所のようですね。

「義久公御譜中」
天正十八年十一月四日、詣鞍馬寺、入妙法坊為祈誓、而後所以帰京也、此時詠之、
「在御文書方」
 はつ雪を待うるまてに色こくも
 散のこりたるもミち一もと
天正十八年十一月十三日、與兵庫頭義弘倶発京都往大和、
同十四日、入大納言之第伸禮詞、而其翌帰京也、
同月十八日、有堀池弥次郎之招、與義弘倶入其宅、則有座敷能、呉服・梅枝・小蝶・自然居士・長良等也、
同月廿四日、依舞孫三郎之招、到其屋有乱舞、□(本来の字は「台」にしんにょう)深更矣、
天正十八年十一月廿七日、詣東山 龍山公、聴高話移時刻、戌時帰京也、
同月晦日、早旦招石田治部少輔三成於茶室、勤苔茗兵庫頭亦出座也、
同日、迄晩景賜帰国之暇、不計大慶非所言之可得而□(本来の字はてへんに「慮」)矣、
(「薩藩旧記雑録 後編」2-706)

鞍馬寺に詣でた日以外の記録も何故か一緒に収録されています。和歌とは関係ないのですが何故でしょ?

14日の「大納言」は豊臣秀長のことでしょう。大和郡山城までお見舞いに行ったものと思われます。実はこのときトラブルがあったようなんですが…それは別項にて。
その他は能役者と一緒に遊んでいることが多い様子。あ、「龍山公」こと近衛前久との遊びもヾ(^^;)
が、一転して11月末日は石田三成を朝早くから茶会に招いています。まあ単なる茶事ではなく政治の密談が主目的なのは明らかでしょう。同じ日に「景賜」なる家臣に帰国の暇を与えていますが、景賜が誰なのかは不明です。ご存じの方がいらっしゃいましたら御教示お願いします<(_ _)>


「義久君上京日記」該当箇所こちら

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