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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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天正18年11月4日、京都にいるときに詠んだ一首です。

「義久公御譜中」
天正十八年十一月四日、詣鞍馬寺、入妙法坊為祈誓、而後所以帰京也、此時詠之、
「在御文書方」
 はつ雪を待うるまてに色こくも
 散のこりたるもミち一もと
天正十八年十一月十三日、與兵庫頭義弘倶発京都往大和、
同十四日、入大納言之第禮詞、而其翌帰京也、
同月十八日、有堀池弥次郎之招、與義弘倶入其宅、則有座敷能、呉服・梅枝・小蝶・自然居士・長良等也、
同月廿四日、依舞孫三郎之招、到其屋有乱舞、迨深更矣、
天正十八年十一月廿七日、詣東山 龍山公、聴高話移時刻、戌時帰京也、
同月晦日、早旦招石田治部少輔三成於茶室、勤苔茗兵庫頭義弘亦出座也、
同日迄晩景賜帰国之暇、不計大慶非所言之可得而攄矣、
(「薩藩旧記雑録」後編2-706)

義久の歌の割には(おい)割と素直ですんなり綺麗な一首だと思います。

源義経が子供時代いたことで有名な鞍馬寺にお参りしたようです。ちなみにこの時泊まった妙法坊は現在残ってない模様。なお、鞍馬寺は、後の関ヶ原の合戦で生き残った島津義弘の家臣をかくまうなど、島津家とはかなり縁が深いお寺だったようです。

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天正18年は12月16日に作られた1首です。おっ、タイムリー(^^;)
実は1首しかないクセに前置きがかなり長いのですが、頑張って入力します(涙)

「樺山兵部大輔忠助譜中」
天正十七年己丑之秋、 龍伯法印令赴京師給、忠助亦供奉之列、其後有京師之日、七十九歳老母数行之書、珍戴再三、而後開緘謹誦焉、其詞、初にハ、君にハ忠節をつくして怠事なく、朋友にハ信を専にして忘るゝ事なかれ、中比にハ、こゝろハ暗にあらねともいひ、終には、さらぬ別のありといへは、と書留給、其詞艶にしてみたりかハしくミえつるも、いとこゝろもとなくて、請身之暇、仲冬之際下著、則老母之悦無可比類者、十有余日無恙、而後罹病痾有平臥之牀者尚矣、以薬飼加療養而不験、請貴僧・高僧祈爾于上下神祇、而無其甲斐、雪月十有六日未之時、生念不乱向西方金剛合掌、而唱南無阿弥陀仏、宛如睡眠而赴黄泉矣、
「正文当家有之」
通善周慶大姉ハ、「以下左ニアリ」
(「薩藩旧記雑録」後編2-712)
通善周慶大姉ハ、その心かしこくして、源氏物語なとをもおほへ、筆をとり、まなひの窓をひらかむと心をよせしに、いつの比をひそや、蒲生と云所の弓やはけしきに、嫡子椛山の忠副、やたけこゝろのはかなきハ、またはたちのうちにて打死をとく、それよりあまになり、法花八軸を読誦し、朝夕をこたらす念仏さんまいにして有しか、天正十八年雪月十六日、やそちに及ひかくれられしよしを、予久しく在京せし、下向の道にて伝きゝしより、心まとひの折ふしなれは、歌のもとすゑもたゝしからす、身のあさけりとハかへりミ侍れとも、たゝこゝろさしをあらハすはかりになん、
                  龍伯
ゆくとしのそらにたゝよふあは雪の
春をもまたてなと消ぬらん
(「薩藩旧記雑録」後編2-713)

「通善周慶大姉」 こと樺山忠助の母とはこういう人

「御系図抄」
日新公二女
女子
  樺山安芸守善久室
 生于薩州伊作城、母薩摩守成久女、
 天正十八年庚寅十二月十六日卒、法名通善周慶大姉、
(「薩藩旧記雑録」後編2-711)

拙別館HPにて「島津御隅」として紹介している人物です。義久から見ると伯母に当たります。義久には伯母が4人いました(…ちなみにその一人は自分の妻だったりする)が、挽歌を送ったことを確認できるのは御隅だけです。おそらくこの当時の島津家中に於ける樺山家の地位が高いこと(御隅の夫・善久は、島津忠良に息子同様に扱われていた)なども考慮されているのかも知れません。

拙HPでは特に書かなかったのですが、夫はまだ存命なのに、息子が死んだために出家したという点が興味深いです。武家の女性は「夫が死ぬと出家する」というのが通説みたいになってるんで。
息子に先立たれたのは悲しいことでしたし、島津家が豊臣秀吉に敗北するという所も見てしまったわけですが、その後の朝鮮出兵での苦難などは見なくて、もう一人の息子には無事看取られたし、なにしろ80歳まで生きたので、比較的戦国時代の島津氏にしては幸運な女性だったのではないかと思います。


関連ネタ
挽歌を送られたその1 妙諦さん
挽歌を送られたその2 島津義弘の妻・宰相殿

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天正19年のお正月の和歌です

「喜入五郎兵衛蔵」
   吉書
天筆和合楽地福皆円満
あら玉の年のはしめに筆とりてよろつのたから我そかきとる
こゝろたにまことの道にかなひなハいのらすとても神や守らむ
君か代の久しかるへきためしには神そうへけん住吉のまつ
天正十九辛卯正月二日     龍伯
(「薩藩旧記雑録」後編2-719)

この後の出来事を知っているだけに、特に2首目が切ないです。

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天正19年5月3日に作られた和歌1首です。

天正拾九五月三日の夜、 龍伯様御夢想ニ、赤白咲交たる梅花を壁にさし、御詠歌をと誰やらんすゝめらるゝやうにおほしめされ、やかて御夢は覚待ての御歌なり、
手折つゝもて来てかめにさす華の
色は白妙くれなゐのむめ
「此御詠歌、御文庫廿二番箱六巻中ニ有之」
「義久公御譜中、案文有之トアリ」

(「薩藩旧記雑録」後編2-754)


前後の文書を見ている限りでは、この時は鹿児島に帰国中だった模様。

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天正19年(1591年)の変則?連歌会の頭の句です

「左衛門督歳久譜中」
天正十九年辛卯、 太守法印龍伯公渡御於祁答院、賜宝刀龍啼已下、丁此之時興行於和漢百韻、
 ふりも来ぬ雨をこめたるわか葉哉 龍伯
 鵑呼雲上名              花厳「大願寺住持」
 すめる夜ハ月の宮こも遠からて  晴簑
           「和」  「漢」  「漢」 「和」「樺山兵部大輔入」
此末略之、連衆 珠長 黒成 虎岳 紹剣
「漢」「大願寺後住」「和」  「和」  「漢」 「和」「相良式部入道」
瑞岳       宗哲 篤和 宗鶴 珠羿
「和」「比志嶋紀伊守」   「和」「八木」 「和」
国貞           嘉竺    利貢執筆
(「薩藩旧記雑録 後編」2-800)

弟・歳久(晴簑)との連歌会でした。
この翌年に悲惨な事件で歳久が自害に追い込まれる悲劇がおこるとは、もちろん誰も分からなかったでしょう。

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