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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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先日阪急電車に乗る機会があり、無料誌『TOKK』をもらって読んでみたら、次回公演はあの『JIN-仁-』らしい。
で、乗換駅でホームのポスター見てると、『JIN』は次々回のネタで、次回公演はなんと『銀河英雄伝説』なんだと⊂(。Д。⊂⌒`つ
…うーむ、そういえば何年か前に韓流ネタもチャレンジしていたようだし、実は最強の演劇集団かも知れないなあ>ヅカ 戦国島津ネタもやってくれんかのう。いい原作がないから無理?


以上雑談終了。では本題に戻る。

天正15年7月7日、そう七夕の日の1首です。今は8月になってしまったけど、まあ順番の関係上許して下され。なお、「天正15年7月7日」は西暦に変換すると1587年8月10日になります。

天正十五年自六月十五日至七月十日日々記
 貫明公御上京御日記なり、
天正拾五年
(前半略)
一七日、早朝木食上人御宿に来着、七夕を題にて詠歌并発句も有之、歌ハ、
 星合の空さへ旅のかり衣かさんたよりも浪の友舟
 上様御返歌、待\/て年に一夜の天川わたる瀬いそくけふの暮哉 と被遊、また上人発句ハ、まほにふけ天の川風あま小舟 此わき可被遊由候つれ共、出船御急なれハ、先〃御返歌計御持せ候也、此朝上人御供衆江御前にて筆・扇子被遣、此日未刻友を御出船、亭主へ生糸二斤被下候、此日七夕恒例の麥麺参、御座へ町田左京亮・平田左馬助被参、此日酉刻過手嶋と云所へ暫時御塩懸有、やかて御出船、しわくを二里程さきになし、しわくえた嶋と云所へ御塩懸有、
(後略)
(「薩藩旧記雑録」後編2-410)


これも精神的に結構きつい状態の時に詠まれた物で、豊臣秀吉の九州御動座で完膚無きに破れ、上洛させられた道中での作です。まあはっきり言ってしまうと捕虜がさらし者として京都連れて行かれたときに詠んだ物です。心中は七夕どころじゃなかっただろうと思われます。

簡単に解説。
木食上人は有名なのでご存じの方も多いでしょうが、正式名「木食応其」高野山の僧侶です。九州御動座の際に秀吉と島津氏の間の折衝に当たった人物です。歌はやりとりできた物の、出船の関係で連歌の方は出来なかったようですね。
「七夕恒例の麥麺参」というのが興味深いです。七夕には麥麺(うどんor素麺)を食べる習慣があったようです>島津家
町田左京亮は町田忠綱のこと。家老・町田久倍の長男でした。この後、秀吉の朝鮮出兵に巻き込まれ、朝鮮唐島で亡くなります。もし生き延びたら家老になっていた可能性が高い人です。
平田左馬助は調べた限りでは未詳。平田増宗かなーと思ったのだが、「本藩人物誌」には記載無し。
「手島」はこの島だろうか?
「御塩懸」とは、おそらく出航に適した海流・風を待つことでしょうか。
「しわく」は今でもあるのでご存じの方が多いでしょうが塩飽諸島のことですね。しかし、塩飽諸島にはえたしま(江田島)はない…どこかの島の別名だろうか?


なおこの日記に関しては論文が出ている模様です。
島津義久瀬戸内往還の旅の記 小早川健(「神戸学院女子短期大学紀要」(37), 49-58, 2004-08
※取り寄せて読みましたが、同時期の他の人の紀行と比較されていたりして面白かったので一読をお奨めします。特に「悲惨な義久の紀行に対してルンルンの義弘」という意味合いのことが末尾に書かれているのが気になります。

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ほぼ同じ和歌の再掲になります。

「義久公譜中」
一兵庫頭義弘天正十六年四月廿六日発於領国、五月廿三夜着泉州境之岸、六月四日、登於大坂城、謁 殿下秀吉公、是以八月、龍伯得帰国之恩免欲帰薩摩、而留置憐愛女子於京師、唯我辞華洛赴領国、愚心戚〃所以不能也、丁此之時綴愁情於三十一文字、而賜之於細川幽斎、
「在御文書方」
二世とはちきらぬものを親と子の
 わかれん袖のあはれをもしれ 龍伯
「在世禄記」
馴\/し身をハはなたし玉手箱
 二世とかけぬ中にハありとも 幽斎
幽斎忽備龍伯之歌於 殿下之台覧、 殿下哀卑詠之情濡襟袖、而女子亦賜暇矣、聞赦免之命、則我忽驚動、不知手之執之足之蹈之、仰天伏地、而後所以拝謝也、
(「薩藩旧記雑録」後編2-454)

どうも、亀寿が解放されて薩摩に帰国できたというのは大変な出来事であったようですね。ちょいとオーバーに騒ぎすぎのような気もしないでもないのですが。

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天正16年7月頃に詠まれた物です。
後半は題詞にあるように連歌の発句ですが、恒例により一首としてカウントしてます。

義久公就近衛前久殿下、伝授古今倭歌集、陪歌会席、
    寄道祝
代をひろく守れる神もことの葉の道にやなひくこゝろなるらむ
臨洛陽連歌之宗匠紹巴第、発句曰、
 梢よりしつ枝も雲におふちかな 義久 
(「薩藩旧記雑録」後編2-483)

前の一首の題詞によると、近衛前久から古今伝授を受けたときの一首と思われます。
この題詞ですが、「義久公」も「近衛前久殿下」も前の1字が欠字になってないのが興味深いです。
※前の1字を欠字にするのは、その人物に対する敬意を表してます。

なお、この2首ですが、出典元が書いてありません。

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天正16年9月頃に詠まれた物です。

「義久公御譜中」
天正十六年九月八日、早旦招細川兵部大輔藤孝法師幽斉・石田治部少輔三成於大坂茶室、勤苦茗、兵庫頭義弘手前也、
今日登 城、而見 殿下秀吉公矣、
此日従北政所衣服賜二領、息女亦賜二領也、
天正十六年九月、在大坂之際、有重陽之会佳節、詠一首之卑歌、贈祐乗法印云、
「在御文書方」
 九重にけふ咲菊のいろよ香よ
  やま路の秋はさもあらハあれ 龍伯
茲年重陽之比、訪人於畿内、而臨宅地之籬邊、則有淵明所愛之菊花、素得陰逸之名、而帯露美盛不可勝言、是以徒不得過去、而綴狂歌一首、供一莞云、
「右同」
もるひまのあらはしハしハ我つとに
 手折てゆかん花のしら菊    龍伯
(「薩藩旧記雑録」後編2-516)

豊臣秀吉の前に敗北し、初めて上洛させられたときに大坂にて迎えた重陽の節句に際して詠まれた物です。目出度い節句の時に詠んだ物のせいかどうか、余り暗さは感じられないように思われます。あ、それともこの後すぐ帰国することが決まっているからかも。

和歌とは直接関係ない内容ですが、前書きなどについて。
9月8日に細川幽斎と石田三成を招いて茶会をしていますが、この二人はその後島津家と豊臣政権の間の取り次ぎ役として重要な役を果たしていくことになります。個人的に史料を見た印象では、義久は幽斎の方に近くて、三成は嫌いだったような印象を受けるのですが、如何でしょう。なお、実際に茶会を行ったのは弟・義弘だったというのも興味深いです。
同日、大坂城に登城して秀吉と北政所に謁見していますが、「城(大坂城)」の前も1字欠字になっているのが面白いです。この日、義久と一緒にと登城して北政所から着物2着をもらった“息女”は当然亀寿のことでしょう。
「祐乗法印」は”義久君上京日記(仮)8月”に出てきた”祐乗坊”と同一人物でしょうか。

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天正16年に詠まれた、余りにも有名すぎる1首です。
実は前置きとか後書きとかがすごく長いのだが、これがまた重要なので、頑張って入力します_| ̄|○

『長谷場越前自記』
一かくて月日を経る程ニ、 関白様の上意ニハ、永在京之御事也、先ハ法印 竜伯を一人帰国有へき事、堅く被仰出之由、石田治部少輔前より被申理、然ハ御姫君様一人在京ハ誠ニわりなく被思召ける故ニ、御詠歌をつらね給ひて、細川兵部太輔入道様迄やるとて、
 二世とハ契ぬものを親と子の別れん袖の哀をも知れ
と云送セ給へは、返し、
 馴\/し身をバはなたし玉手箱ふたよと懸ぬ中ニハ有り共
との玉いて、流石都之人なれハ、深き情之理りを折節ニて、 関白様へ右之御歌を被捧ける間、御上覧まし\/て、尤武威之御気色も歌ニハ納受給ひて、無程御暇給ひて御同心被成宛、天正十六年戊子十月吉日ニ、大坂之川口を御出船ニて、日州の細島ニ御下着をわします折節、奉待て薩隅日之侍其外之僧衆以下ニ至る迄御供致て、喜悦申計也、夫より次第ニ鹿児島近くをわします、国中の諸大名の簾中衆ニ至るまて御迎ニ被参、御姫君様へ御祝言を被申上、然而鹿児島御光着ましませバ、近国遠国同心ニ御慶を被申入人〃の出入者、門前ニ市を成すことくなり、如此成立者、国家太平之御代ニ令守護玉ふ処也、
(「薩藩旧記雑録」後編2-540)

ちなみに「薩藩旧記雑録」によく引用されている『長谷場越前自記』の著者・長谷場宗純さんだが、実は意外なことに「本藩人物誌」には記載がない(○。○) こういう本が鹿児島大学に残っているので、慶長時代には生きていて、つまりこの事件があったときの同時代人であることは確実と思われる。あとこの人は子孫の一人かも知れない?…まあ私の力では全く手も足も出なかったので、誰か情報お待ちしてます(ヲイ)

肝心の本題だが、有名な話すぎるが改めて筋を言うと
「島津義久が娘・亀寿と共に上洛させられたが、豊臣秀吉は義久一人に帰国を命じた。娘一人を京都に残すのがつらかった義久はその心情を歌にして細川幽斎に送った。幽斎がその歌を秀吉に見せると、あ~らビックリ、秀吉がその歌に感動して亀寿も一緒に帰国できることになったのでした」
…という、こんなのありかよ!というできすぎたお話である。でもホントに事実なんだから仕方ない。秀吉ガード甘すぎるな。人質簡単に解放するとはね。もっとも、この後調子のってやり過ぎたと思ったのか何度も「亀寿よこせよ~」と命令してますが。
私的には「日州の細島ニ御下着をわします~国家太平之御代ニ令守護玉ふ処也、」という後半も興味深い。義久と亀寿が一緒に帰ってきたのを国中の侍や坊主、果ては有力武将の妻達(長谷場は大仰に「諸大名の簾中」と書いてますが)まで迎えにでて、最後には「御姫君様へ御祝言を被申上、(中略)、門前ニ市を成すことくなり」(亀寿様に御祝いを申し上げる人々で鹿児島城の門前は市場がある程の大混雑となった)とか、ともかく亀寿が帰国できたことが大変な大事件だったことは伺えます。つまり、亀寿というのがこの時点で既に非常に重要な人物であったのは確かなんでしょうね。

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