拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天正16年9月頃に詠まれた物です。
和歌とは直接関係ない内容ですが、前書きなどについて。
9月8日に細川幽斎と石田三成を招いて茶会をしていますが、この二人はその後島津家と豊臣政権の間の取り次ぎ役として重要な役を果たしていくことになります。個人的に史料を見た印象では、義久は幽斎の方に近くて、三成は嫌いだったような印象を受けるのですが、如何でしょう。なお、実際に茶会を行ったのは弟・義弘だったというのも興味深いです。
同日、大坂城に登城して秀吉と北政所に謁見していますが、「城(大坂城)」の前も1字欠字になっているのが面白いです。この日、義久と一緒にと登城して北政所から着物2着をもらった“息女”は当然亀寿のことでしょう。
「祐乗法印」は”義久君上京日記(仮)8月”に出てきた”祐乗坊”と同一人物でしょうか。
豊臣秀吉の前に敗北し、初めて上洛させられたときに大坂にて迎えた重陽の節句に際して詠まれた物です。目出度い節句の時に詠んだ物のせいかどうか、余り暗さは感じられないように思われます。あ、それともこの後すぐ帰国することが決まっているからかも。「義久公御譜中」
天正十六年九月八日、早旦招細川兵部大輔藤孝法師幽斉・石田治部少輔三成於大坂茶室、勤苦茗、兵庫頭義弘手前也、
今日登 城、而見 殿下秀吉公矣、
此日従北政所衣服賜二領、息女亦賜二領也、
天正十六年九月、在大坂之際、有重陽之会佳節、詠一首之卑歌、贈祐乗法印云、
「在御文書方」
九重にけふ咲菊のいろよ香よ
やま路の秋はさもあらハあれ 龍伯
茲年重陽之比、訪人於畿内、而臨宅地之籬邊、則有淵明所愛之菊花、素得陰逸之名、而帯露美盛不可勝言、是以徒不得過去、而綴狂歌一首、供一莞云、
「右同」
もるひまのあらはしハしハ我つとに
手折てゆかん花のしら菊 龍伯
(「薩藩旧記雑録」後編2-516)
和歌とは直接関係ない内容ですが、前書きなどについて。
9月8日に細川幽斎と石田三成を招いて茶会をしていますが、この二人はその後島津家と豊臣政権の間の取り次ぎ役として重要な役を果たしていくことになります。個人的に史料を見た印象では、義久は幽斎の方に近くて、三成は嫌いだったような印象を受けるのですが、如何でしょう。なお、実際に茶会を行ったのは弟・義弘だったというのも興味深いです。
同日、大坂城に登城して秀吉と北政所に謁見していますが、「城(大坂城)」の前も1字欠字になっているのが面白いです。この日、義久と一緒にと登城して北政所から着物2着をもらった“息女”は当然亀寿のことでしょう。
「祐乗法印」は”義久君上京日記(仮)8月”に出てきた”祐乗坊”と同一人物でしょうか。
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