拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
慶長2年6月21日の作です
前回からかなり時間が空いていますが、理由は不明。
…たぶん私の見落としはないとは思うのですがヾ(--;)
前回からかなり時間が空いていますが、理由は不明。
…たぶん私の見落としはないとは思うのですがヾ(--;)
住吉大明神は島津氏に縁のある神様。「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
住吉大明神に立願あり、近衛殿を奉頼、和歌の会をなす、
慶長二年六月二十一日
松下納涼
龍伯
山かせのをときく庭の松かけは
なつを外なる住ゐなりけり
むすひてハさそなさらても松陰の
岩ねの水に夏そなかるゝ
「同」
当座雲間初鴈
ほと遠く雲間に聞し初鴈の
こゑも門田に鳴落るかな
社頭祝
ゆふたすきかけて千とせを祈る哉
代〃に引へきためしおもへは
(「薩藩旧記雑録 後編」3-241)
新年あけましておめでとうございます。
喪中の皆様におかれましては寒中お見舞い申し上げます。
本年も本サイト及び拙ブログ
余り更新はかどらないと思いますがヾ(--;)
宜しくお願い申し上げますです…
では早速
奇遇にも、元旦にふさわしく春をことほぐ歌
一気に7首もあります⊂(。Д。⊂⌒`つ
「月も日も」「きのふまて」「かねことを」「花は根に」「海山を」「塵の世を」「花もりの」が義久作の和歌、
「今日よりは」「秋のゝの」は龍山こと近衛前久作の和歌。
前久の新年会に招待され、里村紹巴らと同席して新年の歌会を楽しんでいたようです。
但し、「海山を」「塵の世を」「花もりの」はこの新年会の時の作ではなく、この後の時期に作歌された物(歌の内容から新暦4月~5月頃の作かと)で、まとめて掲載されたようです。
義久らしさがでている歌は一番最後の「花もりの」の歌かと思います、皮肉っぽいところがヾ(--;)
「墨満寺」は現在同名の寺はないが、おそらく墨染寺のことと思われます。
喪中の皆様におかれましては寒中お見舞い申し上げます。
本年も本サイト及び拙ブログ
余り更新はかどらないと思いますがヾ(--;)
宜しくお願い申し上げますです…
では早速
奇遇にも、元旦にふさわしく春をことほぐ歌
一気に7首もあります⊂(。Д。⊂⌒`つ
「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
慶長三年正月廿日、 近衛殿御会初にめし出され候時、
鶯入新年語
月も日もをそきみたにはうくひすの
老せぬこゑに春やしるらん
きのふまてこゑせぬ園の鶯も
春たつけふやはつねなるらん
此昨日まての歌、紹巴ハこゑと云、音と云、字いかゝと被仰候、龍山様ハくるしかるましきと被仰候、其故ハ、
今日よりハつきてふらなん我宿の薄をしなミふれる白雪
又秋のゝ草のたもとか花すゝきほに出てまねく袖とみゆらん
かやうに候へハ、歌によるへし、此歌ハくるしかるましきと被仰候、紹巴も後ハ同し被申し、是為後学書付置也、
「同」
当座契待恋
かねことをたのミ\/てまつ夜半の
を そ
更行そらや鳥のしらする
「同」
名所松
花は根にかへりゆきても高砂の
尾の上の松やときはなるらん
是は春の御会にて候、春の気に入候、珎重のよし紹巴被仰候、
「此本在御文書方」
ミやこにての花みに詠之、
海山を分こし田舎のたもとをも
はなにへたてぬ都人かな
「仝上」
伏見之内墨満寺と云寺に、墨染とて名木の桜あり、其の花みに、
塵の世をよそにそおもふ古寺の
花になしたる墨染のそて
「仝」
建仁寺の藤を見て、一枝所望いたし候へハ、おしみてくれす、此歌をよみてつかハすときは、則一枝手折てとらする也、
花もりのゆるさは藤の枝すこし
手折てゆかん我つとのため
(『薩藩旧記雑録 後編』3-366)
「月も日も」「きのふまて」「かねことを」「花は根に」「海山を」「塵の世を」「花もりの」が義久作の和歌、
「今日よりは」「秋のゝの」は龍山こと近衛前久作の和歌。
前久の新年会に招待され、里村紹巴らと同席して新年の歌会を楽しんでいたようです。
但し、「海山を」「塵の世を」「花もりの」はこの新年会の時の作ではなく、この後の時期に作歌された物(歌の内容から新暦4月~5月頃の作かと)で、まとめて掲載されたようです。
義久らしさがでている歌は一番最後の「花もりの」の歌かと思います、皮肉っぽいところがヾ(--;)
「墨満寺」は現在同名の寺はないが、おそらく墨染寺のことと思われます。
慶長3年6月23日に読まれた物で、131首目に引き続き、これも追悼和歌です。
このころ義久は上洛させられていたため、地元鹿児島のお寺ではなく、京都のお寺で法要を営まざるを得ませんでした。東福寺は今では紅葉で知らぬ人はいない大寺ですが、島津氏縁の寺でもありました。塔頭の一つ・即宗院は島津家六代当主・氏久の菩提寺だったからです。しかし、義久は即宗院で法要を行いませんでした。その理由は…永禄13年(1569年)に焼けてしまって、この頃なかったからなんですね。で、別の塔頭・龍吟庵で法要を行いました。
この龍吟庵、今では国宝の方丈で有名なのですが、島津氏or島津義久とはどういうきっかけからこういう縁ができたのかが管見でははっきりしません…情報求む。
参考までに、拙本館HPの東福寺紹介はこちら。
大中庵主とは、義久の父・島津貴久の法名です。「義久公御譜中」「御文庫三番箱中ニ在リ」
「正文有之」
ことし慶長三かへりの林鐘廿三日、大中庵主の年廻の追膳の心さしを、東福寺龍吟庵にていさゝかいとなミけり、尊霊和歌に執心浅からさりしをおもひ出て、はかなしことをつゝりて、影前に手向たてまつるものならし、
法印龍伯
夕たちの雲はきゆともはちす葉に名残をのこせ玉ゆらの露
(「薩藩旧記雑録 後編」3-418)
このころ義久は上洛させられていたため、地元鹿児島のお寺ではなく、京都のお寺で法要を営まざるを得ませんでした。東福寺は今では紅葉で知らぬ人はいない大寺ですが、島津氏縁の寺でもありました。塔頭の一つ・即宗院は島津家六代当主・氏久の菩提寺だったからです。しかし、義久は即宗院で法要を行いませんでした。その理由は…永禄13年(1569年)に焼けてしまって、この頃なかったからなんですね。で、別の塔頭・龍吟庵で法要を行いました。
この龍吟庵、今では国宝の方丈で有名なのですが、島津氏or島津義久とはどういうきっかけからこういう縁ができたのかが管見でははっきりしません…情報求む。
参考までに、拙本館HPの東福寺紹介はこちら。