拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
本日は
島津義久公400回忌 但し旧暦カウントなんで実際はズレが(;¬_¬)
です。
諸般の事情で鹿児島の墓前に行けないのが、本当に残念です…
…
本当に残念なんだからな!ヾ(^^;)
…何か説得力が無くなってきたところでお歌の紹介
順番の都合上、1月21日前後に詠まれた物にならなかったのがちょっと残念ですが
伝統ある腐れ縁昔から縁の深い関係でしたので、信輔も手厚いもてなしを受けて悠々自適の生活だったようです。
おそらくこの信輔が帰京する際の冨隈の宴会で起きたのが拙本宅HPで紹介したこの事件かと思われます。
島津義久公400回忌 但し旧暦カウントなんで実際はズレが(;¬_¬)
です。
諸般の事情で鹿児島の墓前に行けないのが、本当に残念です…
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本当に残念なんだからな!ヾ(^^;)
…何か説得力が無くなってきたところでお歌の紹介
順番の都合上、1月21日前後に詠まれた物にならなかったのがちょっと残念ですが
「近衛殿」=「近衛信輔」とは近衛信尹のこと。文禄3年から3年間薩摩国坊津に流罪となっていました。…最も「流刑」といっても近衛家と島津家は「義久公御譜中」
近衛殿西国になかされ給へとも、京儀とゝのをり、御帰洛の折ふし、大隅冨隈にて和歌の会あり、懐紙は別紙にあり、
「此本在御文書方」
当座薄露
ゆく袖をむすひもとめよいとすゝき
すゑ葉の露は玉とちるとも
「同」
寄鏡神祇
神かきのうちゆたかにもうつしをく
こゝや代々のかゝみなるらん
「同」
慶長元年七月六日、 近衛信輔公御帰京の首途なり、其路次にて、かめにさす花に御口号あり、其座にて、
花\/をわけにし野辺の帰るさや
たをりもて来てかめにさすらん
近衛信輔公解纜於日州志布志、而帰京也、
(『薩藩旧記雑録 後編』3-84)
おそらくこの信輔が帰京する際の冨隈の宴会で起きたのが拙本宅HPで紹介したこの事件かと思われます。
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