拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
文禄4年(1595年)8月10日に作られた和歌2首です
またまた何回目か分からない挽歌です
追悼された人物は島津彰久、義久の婿の一人です…
ネタバレになりますが、この2年前の文禄2年(1593年)9月8日には三女・亀寿の夫であった島津久保も朝鮮出兵中に陣没しており、義久は義理の息子を2人も朝鮮出兵で奪われたことになります…
またまた何回目か分からない挽歌です
追悼された人物は島津彰久、義久の婿の一人です…
ネタバレになりますが、この2年前の文禄2年(1593年)9月8日には三女・亀寿の夫であった島津久保も朝鮮出兵中に陣没しており、義久は義理の息子を2人も朝鮮出兵で奪われたことになります…
「もろこしの弐拾四人」というのが意味が分かりません。なんで24人なんだろう…。「在彰久譜中」
文禄四年七月五日、彰久罹重病卒朝鮮国巨済陣中、俗云唐島、享年二十有九、法号天宗慈雲大禅定門、安田二郎兵衛義次、濱川糸右衛門殉死、同年八月九日、 義久公賜追悼文、文曰
(以上「薩藩旧記雑録 後編」2-1575)
天宗慈雲ハ孝儀をおもんし、れいならさるをもいとわす、朝鮮から嶋といふ所へ渡海せしめ、在陣ほとひさしきに、むしやうのかせにさそハれしハ、もろこしの弐拾四人の心さしにも、おとりやハすへきとこそおほえて侍れ、
かへるへきミちをもしらて葛のはに
なにしら露の玉と消らん
とことはに有はてぬへき身ならねハ
ほとけも今ハ名のミなりけり
文禄四年八月十日
(「薩藩旧記雑録 後編」2-1576)
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