拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
近年発見された畑俊六の回想録、反省文と昭和3年~4年の日記を収録した物です。
これがおっそろしく文量多い。
今村均の回想録も読んだときに驚いたけど、よくこんなに大昔のこと覚えてるなあ、と。
実は、畑俊六の日記はけっこう残存しているようで、他の年度の分は既に翻刻されているようです(『続現代史資料』、『畑俊六獄中獄外の日記』)。どうも今田のことにも言及されているらしいのだが(^^;)、今回入手したこれには載ってないみたい_(。_゜)/
しかし、満州事変関連とか、いろいろ興味深い話が満載でした。
ではまいる。
ただしかなり量が多いので、内容を箇条書きにて紹介。
これがおっそろしく文量多い。
今村均の回想録も読んだときに驚いたけど、よくこんなに大昔のこと覚えてるなあ、と。
実は、畑俊六の日記はけっこう残存しているようで、他の年度の分は既に翻刻されているようです(『続現代史資料』、『畑俊六獄中獄外の日記』)。どうも今田のことにも言及されているらしいのだが(^^;)、今回入手したこれには載ってないみたい_(。_゜)/
しかし、満州事変関連とか、いろいろ興味深い話が満載でした。
ではまいる。
ただしかなり量が多いので、内容を箇条書きにて紹介。
畑俊六回顧録 ※書かれたのは昭和22年頃のようです
・畑は会津藩士(俊六曰く「源氏の忠臣の末裔」らしい)、ご多分に漏れず戊辰戦争で没落し、父は警察官となって転勤の多い生活を送る。
・このため、実は会津に対して愛着はなかったみたいです(^^;)←新島八重がUPを始めたようですヾ(--;)
・その割には地域対立のネタが多いなヾ(--;)世に言う皇道派vs統制派も、畑に言わせると「佐賀を中心とする九州閥vs長州派の後裔である石川閥」らしいんだが(p.136~137)
・俊六曰く「皇道派と統制派の対立は、薩摩派(=上原派)vs長州派(=山縣派)」らしい。(p.137他)そうかな。
・父が転勤先の函館で急死。残された母1人子供3人、貧困の中で成長する。陸軍幼年学校に入ったのは兄・英太郎がいろいろな遍歴の末に陸軍に入ったから。
・この兄がものすごい出来人で、はっきり言って兄の七光りで順調に出世する。
・兄があの宇垣一成に気に入られたことから、どちらかというとその引きで引き立てられたようだ。(p.137)だから、諸本には「無所属」「無派閥」と書かれていることが多い畑俊六だが、実際は宇垣派なんじゃ無いかと思う。会津出身なのに長州系と言われる宇垣系列とは意外。
・そのせいで、後に荒木+真崎の皇道派によって中央を追われてしまう。これをすごく恨んでいたのか、皇道派に対する恨みと批判が山のように(p.137、p.178~179他)
・特に真崎が大嫌い!どうして2.26の裁判で無罪になったのだ?どうして東京裁判で起訴すらされんかったのだ?おかしい!おかしい!!!…と大絶叫。まあ、真崎嫌いなんは俊六さんだけじゃないけど。
・でも宇垣批判も結構書いている俊六_(。_゜)/まあね、恩人とはいえあそこまで欲望ギラギラさせてたらね、批判もしたくなるよね…
・wikipedia「畑俊六」では「米内光政に感謝していた」と書かれている俊六だが、実は東京裁判に至るまではどうも米内のことは嫌いだったようだ(^^;)「敗戦と同時に米内が利口に米検事側に立ち回り押されもせぬ平和愛好者の名を博したる為、余が米内内閣の陸相を辞任したる為平和内閣打倒の汚名を余の一身に担い余が訴追の一大重要項目となり足ることは全く予期さへせざりし所にて」(p.229)
・と言うか、俊六は海軍自体のことをどうも信用していなかったらしく(巣鴨日記昭和21年2月20日条(p.326))、「海軍は常に世論に迎合して其立場の有利なるべきことのみを希ひ」(p.161)とまで書いている。岡田啓介元首相(海軍大将)に関する記述もけっこうぼろぼろである(巣鴨日記p.367)。そこまで仲が悪かったか帝国陸軍と海軍。そりゃ負ける罠…
・大正8年(1919年)、パリ講和会議出発前と帰朝の時に大正天皇に公式の拝謁を賜ったが、大正天皇って酒もがんがん飲むし煙草はモクモク。こりゃ確かに身体も悪くなるわな(p.138)
・満州事変の前哨戦になった中村事件だが、中村震太郎大尉は越後出身の朴訥の好青年なんだけどこの偵察の仕事を命じられたときにすごく嫌がってたのだ。ところで、中村君が死んだあとに両親と妻と一人っ子が残されたのだが、この一人っ子を巡って両親と妻の実家で親権の取り合いになったらしいんだがその後どうなったのかな。(p.150)
・ロシア大嫌い!(まああの当時でロシア→ソ連好きな人って特殊な人種を除いていないと思うがヾ(^^;))だいたい昔から仲悪かったし、あいつら諜報が得意と来た。今度の東京裁判でも何かこっちでも見たことない資料持ってくるし…そうとう満州国にもスパイがいたと見た(p.151)
・兄の最後の仕事は関東軍司令官。関東軍には既に板垣征四郎が高級参謀に、作戦主任参謀に石原莞爾がいた。石原みたいな謀略家とそれに踊らされる板垣がいる部署の上司になるなんて最悪ヾ(^^;)参謀長は既に俊六の陸軍大学校同期の三宅光治がいたけど、この人、人当たりが良くて主義主張もないから石原・板垣のロボットみたいなもんだった(p.164)
・兄が59歳で急死した跡の後任は台湾軍司令官だった菱刈隆が横滑りしたんだが、この人単なる薩摩閥と言うだけで何も取り柄のない人だった(p.166、182) 貴重な菱刈隆に関する証言。
・幼年学校出身と非幼年学校出身者って仲悪かったなあ。昭和5年頃の陸軍次官は杉山元で軍務局長は小磯国昭だったけど2人とも非幼年学校出身で兄(→非幼年学校出身)とも仲良かったなあ。思い返すと第15期より上に在籍していた幼年学校出身者って駄目なのが多かったようなヾ(^^;)(p.169)
・満州の情勢が悪化してきたので、陸軍は海軍にも事前に相談したが「うちとこは対米準備で手一杯だから 何かあったら陸軍の好きなように適当にやっといて」とすげない回答だったのに、いざ満州事変が勃発したら駐満海軍部は設置するわ、あれやこれやと割り込むし…人様の分け前にちゃっかり便乗するというか分け前を横取りする海軍は大嫌い!(p.170~171)
・満州事変勃発!…でも何となく陰謀臭い…。参謀本部第一部(ちなみに俊六の前の所属部署)は「兵力はこちらの同意がなければ一兵も出すな」という方針だったのに…どうも関東軍と参謀本部第二部が共同で何かやらかしたんでは…自分が中央から追い払われたのも自分が邪魔だったからだ(p.171)
・昭和8年、砲兵監と言う閑職から第14師団長に栄転する…が、俊六曰く「水戸連隊区の俗に云う水戸っぽの気風と宇都宮連隊区の鈍重にして中々踊らざる気風と高崎連隊区の長脇差し体質と長野連隊区の赤化しやすく理屈っぽくインテリ臭い」と言うバラバラの性格で苦労する。でも俊六曰く「師管内は文化の度高く(中略)東京に近く文化にも恵まれこの如き師団をお預かりすることは余としては誠に幸運なり」と前向き なお、上記の連隊区の内俊六に言わせると最低だったのが「旧幕府時代には小藩分立して協力心が無く、奥州への流刑者を護送する役人が那須原辺りで囚人を捨てたりしたため無籍者の奴隷というべき物の子孫が多かった」宇都宮連隊区らしい(p.180)(-_-;)群馬県民は俊六に怒っていいと思う
・その後更に陸軍航空本部長に転任。この間に5.15や陸軍内での皇道派vs統制派対立の激化、ついには2.26事件も起きる。「中央から遠ざかってる」という割にはこの辺の事情に妙に詳しい俊六さん(p.192~196)。
・昭和11年8月、2.26事件の粛軍人事の煽りを食って航空本部長在籍わずか8ヶ月で台湾軍司令官に就任。「朝鮮でも現地人の兵役を実行したんだから台湾でもしましょうよ」という声が高くなるが俊六は猛反対。理由は「朝鮮のように他に行くところのない民族と違って、台湾は海を渡れば中国があるし、現地人は兵隊に使えないよ」とのこと。なお、朝鮮の兵役のその後について俊六曰く「総督府や軍が宣伝するほど成績は良好ではなかった,集団逃走することも多かった、南方戦線では捕虜虐待したのはだいたいが朝鮮、台湾出身の監視員だった」とのこと(p.201)
・俊六の見た近衛文麿。「だいたい文麿の父の篤麿と言うのが支那浪人の親玉みたいな奴で、しかも文麿は木戸幸一と同じ京都大学河上肇という赤色教授の門下。数回合って話したことあるけど迫力もないし熱意もないし人の話を聞くのが上手というと言うだけが取り柄の人」(p.203)近衛文麿が皇道派びいきだったのは有名ですが、そのために俊六の印象もかなり悪くなったようです。でも迫力も熱意もないというのはそうかもしれんヾ(^^;)
・前から暗雲漂っていた日中関係が遂に爆発、戦争状態に突入。トラウトマン工作も失敗するが、俊六曰くこれは支那側が悪いらしい。多分最初からぶっ壊して日中戦争を長期化させる狙いだったんだろう。(p.207)
・トラウトマン工作だが、参謀本部(当時の参謀次長は多田駿)はこれの継続を強硬に主張したが、「継続に固執するなら内閣総辞職するぞ」という内閣の脅しに屈して参謀本部も政府の交渉打ち切りに同意したらしい。参謀本部が継続に固執した理由はよく分からんけど多分当時第1部長だった石原莞爾辺りの考えだったんじゃ無かろうか。(→鋭い、当たっている)近衛が反対したのは、どうせあの人のことだから深い考えなんか無いでしょ、取り巻きの真っ赤っかな連中(尾崎秀実とか)辺りの入れ知恵じゃないの(p.214)
・南京事件で虐殺をやらかしたのは第16師団長の中島今朝吾らしい、松井石根は予備役でのんびりしていたのが「支那通」という理由だけで呼び戻されて、南京攻略戦が終わったらあっさり召集解除。何となく松井に同情的な俊六。(p.208~209)
・でもその後の上海派遣軍総司令官に任じられてしまう俊六_(。_゜)/(p.210)
・杉山元陸軍大臣が辞めさせられたのは、俊六曰く近衛文麿の陰謀らしい。白鳥敏夫も一枚噛んでいたようだ。杉山の跡が板垣征四郎だったのは、石原莞爾辺りがロボットにするために推進したんじゃないの?(p.221~222)
・昭和12年5月25日、突然侍従武官長を命じられる。わずか3ヶ月の在任だったが、その時の昭和天皇は「満州事変は陸軍の陰謀、支那事変も多分そうに違いない」と信じており、極度の陸軍嫌いになっていた(p.224~225)。
・湯浅倉平内大臣は山口県(長州)の出身だが木戸幸一などとは違って小才子の狡猾な人物ではなく公平無私な立派な人だったと思う(p.228)
・昭和13年の平沼騏一郎内閣総辞職に伴い、陸軍は多田駿を次期陸相に推薦するが、昭和天皇の「陸相は梅津美治郎か畑俊六にしろ」という命令を受け、中国にいた梅津が外れて自分に陸相が回ってきたでござる…よく考えたら参謀本部とか現場周りばっかりで陸軍省勤めたこと無いんですが…でも天皇の命令なので泣く泣く引き受ける(p.230) …これが東京裁判に呼ばれる原因になったわけですけどね…昭和天皇も罪深いことを
次に
畑俊六日記(昭和3年、4年)
が所収されていますが、ほぼ満州問題で埋め尽くされてます。ちなみに昭和3年6月5日は張作霖爆殺事件が起こった日。もちろんばっちり書かれています。
巣鴨日記1,2(昭和20年12月~昭和22年4月30日、昭和22年5月1日~昭和23年1月30日)
・全体としては戦後体制について疑問というか違和感を持って受け止めているようです
・裁判については「連合国の報復」と見ており、公平な裁判は望み薄と考えていたようです
・アメリカ側からラザルス大尉と言う若い弁護人が附けられますが、この人は俊六のために献身的に働いたようで、俊六も都度都度感謝の意を書いています
以下細かいところまいる
・無名の人からの投書を受け取る。内容の大意は「畑と言えば俊才兄弟と聞いてたのに、あんたは3軍の将でありながら東条の暴走をとめられんかったんかボケ!先に死んだ兄に申し訳ないと思わないのか!!自決して国民にわびろ!」(意訳)…言われてることもっともでございます(´・ω・`) ちなみに自殺を進める投書はこれで2通めだったらしい(昭和21年2月20日)
・「個人のみを重視して共同体を忘れる絶対的個人主義や、自由主義は、本質に於て無政府主義なり。これと反対に共同体のみに着眼して、個人を無視する超越的団体主義や全体主義は結局に於て専制主義に陥る。」(昭和21年3月14日) ※原文は漢字カタカナ交じり文ですが、ひらがな交じり文に修正しております
・戦後初の国政選挙。女性議員が36人も誕生したことに驚愕する。アメリカでも6人しかいないのに…(昭和21年4月14日)
・遂に裁判が始まった。板垣征四郎や木村平太郎は南方からわざわざ送られてきた。ところで大川周明が何かおかしいのだが。哲学博士号を持っていて満州事変の黒幕とも言われる人が何か見苦しい(昭和21年5月3日)
・大川周明の弁護士が大川の出廷をとめたいと言って許可された。精神鑑定するようだ。ついでに松岡洋右の具合が悪そう(昭和21年5月4日)
・板垣はじめ捕虜だった戦犯が俘虜取り扱いを申請し(=要は東京裁判から外せと言うことか)戦犯指定された何人かが訴状の不備を訴え抗議したが、あっさり却下された。予想はしてたけどあっけない(昭和21年5月17日)
・やっぱり大川と松岡は病院送りになった(昭和21年6月4日)
・今まで何回も突然の配置換えはあったけど、今日は遂に自分を含めたA級戦犯が隅の方に固められてしまった、情けないが敗戦国故甘受するしかない。…で、広田元外相と同室になった(昭和21年6月11日)
・広田曰く「平沼騏一郎内閣が総辞職したあと、原田熊雄(西園寺公望の秘書)から「次は広田さんに」と言われたが、陸軍から妨害されて辞退した。」たぶん有末精三と稲田正純(この後首相になった阿部信行の娘婿)の陰謀だろう。(昭和21年6月11日)…稲田(苦笑)
・俊六曰く大内兵衛は赤教授らしい(^^;) ※ちなみに大内は検事側証人として出廷した(昭和21年6月19日)
・遂に松岡洋右が亡くなった これも運命よ(昭和21年6月27日)
・あのモンスター田中隆吉が検事側証人として登場。「田中が米軍司令部に出入りして犬をなりしありとの評判を聞きたるが、あらかじめ検事側と打ち合わせたると見え、検事の糾問に応じ、いちいちあることなきこと、まことしやかに陳述し、満州事変、張作霖爆死事件に関し、河本、建川、橋本、重藤、板垣、石原などの名を挙げて、満州事変が規定の計画なりし事を縷々陳述したり。田中の心境果たして如何。大いに疑わざるを得ざるものあり。」(昭和21年7月5日) ※原文は漢字カタカナ交じり文ですが、漢字ひらがな現在仮名遣いに適宜改めております。
<人名解説>
「河本」:河本大作 この裁判当時、中国太原にいた。その後そのまま中国共産党に捕縛され獄死。
「建川」:建川美次 この裁判当時には既に死去。
「橋本」:橋本欣五郎 趣味は革命 この当時巣鴨刑務所に収監中
「重藤」:重藤千秋 満州事変当時の今田の直属上司、この当時既に死去
「板垣」:ご存じ板垣征四郎 この当時の状況はこの畑俊六日記にあるとおり
「石原」:ご存じ石原莞爾 この当時は山形県鶴岡市在住
・昨日に引き続き田中隆吉が登場。「田中は得意になりて縷々陳述ひとかたならず」と田中オンステージだったらしい。(昭和21年7月6日)
・田中隆吉へ逆襲編。ラザルス大尉の効果的な尋問により俊六に有利な証言を引き出す(昭和21年7月8日)
・更に逆襲。田中隆吉が検事側に利用されていること、更に精神病歴のあることまで暴露したため、田中は逆上して興奮したらしいです(昭和21年7月9日)
・森島守人(満州事変当時奉天領事)が検事側証人として登場。関東軍に対する恨み辛みを延々と述べる(昭和21年8月1日)
・引き続き森島守人訊問。これで満州事変関連の審問は終了(昭和21年8月2日) つまりこの時帰国してなかった(捕虜だったので)今田は法廷に出る機会すらなかったということになります。
・ちょうど1年前、広島で被曝したが幸運にしてかすり傷一つ追わなかったが、今や囚われの身の上。運命というのは分からない物だ(昭和21年8月6日)
・いよいよ仏印関係の話に入ってきたが、「裁判では英語と日本語しか使わない」と規定していたにもかかわらず、突如フランスの検事団が「フランス語を使わせろ」と言いだし大騒動になる。で、この日はまともに審理が出来なかった(昭和21年10月1日)
・結局、裁判長はフランスに根負けして「もういいよフランス語使っても」と渋々許可。フランス検事団「これで我がフランス語が国際語であることをアピールできたぞ(丶`∀´)ウェーハハハ」(昭和21年10月2日)…やっぱり理由はそれだけかヾ(--;)
・続いて日露関係の話に移るが、今度はソ連側が「ロシア語使わせろ」とだだをこね出す。フランスのことがあるからやむを得ない事態だろう(昭和21年10月4日)
・和歌山や四国で関東大地震を上回るような大地震があったらしい(昭和21年12月20日) 前回の東南海地震のことですな
・ラザルス大尉が何回目か判らない打ち合わせ。日曜日も正月も返上して働いてくれるラザルスに俊六は「米国弁護士が日本人弁護士に比し真面目及び熱心なるには感服のほかなし」と感激している(昭和22年1月4日)
・永野修身海軍大将が急死した。人生とは儚い物よ(昭和22年1月6日)
・3回目の訊問に呼ばれた田中隆吉が「畑俊六が米内内閣で陸軍大臣を辞めた(そして米内内閣を崩壊させた)のは武藤章の策謀で、俊六の本心じゃなかった、"飼い犬に手を噛まれた"…と畑さん本人から聞きました」と言いだして仰天(昭和22年1月22日)
・満州事変関連の訊問が再び始まる。山口重次が弁護側証人として登場。大川周明の弁護士より訊問されるも質問応答ともに要を得ない有様で終了(昭和22年3月20日)
・石原莞爾が供述書を提出するが、病気のため出廷できないとの報告。判事より成る訊問団を派遣することに決定(昭和22年4月4日) で、伝説の?酒田出張法廷と相成るわけです。
・休日をはさんで島本正一、遠藤三郎が登場。島本は淡路島で療養中だったところを無理矢理引っ張り出される。俊六も「憔悴甚だしく気の毒千万なり」と同情(昭和22年4月8日) 島本正一は柳条湖事件時の大隊長、配下の河本正守(この当時死去)の哨戒隊が柳条湖事件に荷担していましたが、島本自体は陰謀は知らなかったようです(『満州事変の裏面史』など)。遠藤三郎はこの時は確か巣鴨に収監中だったかな のちに中共に傾倒し「赤い将軍」と言われるようになります(本人は単に日中友好に励んでいたつもりのようだが)
・満州事変関連の審理終了(昭和22年4月22日) この時今田は帰国していましたがやっぱり証人に呼ばれませんでした。
・石原莞爾に対する酒田出張法廷の報告書朗読 特に異議がはさまれることもなく、満州事変関係の審理はここで正式に終了してしまいました(昭和22年5月14,15日)
・梅津美治郎の話に寄れば、「小磯国昭内閣の繆斌工作は実は繆斌から持ちかけた物で、初めは石原莞爾を使っていたが、莞爾は民間人なので、緒方竹虎(当時内閣書記官長)に紹介し、緒方が面白そうと使い出したが、重光外相にこの交渉を内緒にしていたため、重光がこの交渉がばれたときにへそを曲げて昭和天皇に"こんな交渉は知りません!"と言上したため、今度は小磯が陛下から激しく叱責されてしまい、その結果総辞職と成ったのだ」とのこと(昭和22年7月18日)
主なところは以上です。細かい文字が2段組の大著なので中々読むには骨が折れました。
私の感想
畑俊六はふつーの大日本帝国陸軍軍人だったんだと思いました。今から見たら右翼呼ばわりされそうな思想もその当時としたら普通でしょうし、それと元帥まで上り詰めた人にしては達観しきってるところが無くて、結構ぐちぐち言ってるし(^^;)でもその普通さになんか共感できる。そういや、この人の写真が巻頭に何枚か載っているのですが、意外に恰幅が無くて細身の人だったのであっけない印象を持ちました。
あと、人間観察が面白くて、朝香宮殿下ですら結構ぼろぼろに書いてたりする(^^;)(挨拶に行けなかったらそれを根に持っていろいろ言われた、部屋住だったのでいちいち細かい、とか)。但し、皇道派に対する恨みというのがものすごく、皇道派に属しているだけで人格から全否定する傾向があるので、それは割引いてみた方が良いのかなあと。
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